アイリスの家である『
二階に客室、一階を入ってすぐに食堂とフロントがあり、奥に談話室と温泉に入れる浴室、そしてアイリス達の私室がある。
食堂と浴室はアイリス達家族も共用だ。冬季は峠越えをしてくる客が滅多にいないため宿の営業はほとんどなく、近隣住民の食事処として食堂に昼食を食べに来る者か仕事終わりに温泉に入りに来る者くらいしかいない。秋になるとアイリスの父はなるべく薪を集め、雪が降る前に越境してアルカーナ王国の方まで出稼ぎに出るらしい。そして雪がなくなる春まで帰ってこないのだそうだ。
その間、残された家族は春夏の蓄えと、昼間の食堂の営業でなんとか暮らしている。弟達もまだ幼く、平日は近くの学校に通っているし、家のことは母とアイリスでほぼ回していると言っても過言ではなかった。
食事の準備や洗濯などの家事はまだいい。ただ、この地の冬には必須の暖炉やかまどのための薪の確保や運搬は女性にはなかなかに堪える作業だ。いくら慣れているとは言え、アイリスも少しずつ運ぶことしか出来ない。正直この時期の男手は大変に有り難かった。有り難かったが、見るからに優男で少しばかりぼんやりとした……いや、のんびりとしたヴァルが戦力になるとは申し訳ないがアイリスには思えなかった。
――が、ヴァルの宣言通り、意外にも彼は慣れた手つきで外に積まれた木の塊を切り株に置くと、屶で軽快に薪を割っていった。
四半時もすればそれなりの薪が出来上がり、雪の積もった寒空の下でもじんわりと汗をかくくらいには身体も温まる。
「……本当に得意なんですね」
最早堂々と顔に意外、と書いたままでアイリスは食堂で入れきた温かいココアを差し出す。ヴァルは皮の手袋を外すと有難うと言ってココアを受け取った。
「姉の旦那がよく薪を割ってたんだけど、あんまりに軽快に割るもんだからさ、段々楽しそうに見えてきて、子どもの頃はよくやらせてってせがんだんだよね」
やってみたら当然上手くいかなくて、初めは全然だったけど。慣れてくると無心になれるし、集中したい時にちょうどいいと言うか。
鼻を赤くしてそう笑うヴァルは、年齢よりも幼く見えてなんだか可愛らしかった。
「なんで旅をしてるんですか?」
彼の話を聞いていると、どうやら家族仲は良さそうなのになぜ旅などしているのだろう?
人の事情に踏み込むのもどうかと思ったが、無償で家においてあげているのだ、それくらい聞く権利はあるだろう。
それに、どう見ても育ちの良さそうな彼が供もつけず一人で旅をしている理由が気にならないと言ったら嘘になる。
ヴァルはこの寒い中でも熱いココアがすぐには飲めずにふうふうと息を吹いていた。
「ん? いや、大した理由はないんだよ? うち、家督は長兄が継いでいるから俺は必要ないし、二番目の兄も剣術に長けているから中央の方に出ていて……俺は何をするでもなくずっと故郷にいたからさ。流石にこのままじゃ不味いなぁ……と思って。家を継ぐ必要もないなら、どうせなら広い世界でも見てみるのもいいかなと」
まずは手始めに隣の氷の都でも見てくるか、と単身故郷を出てきたのだそうだ。ただ、今まで旅の経験は皆無という。……無謀すぎないか。
「アルカーナ王国にしても、クリュスランツェにしても、そんなに治安は悪くないとは思いますけど……野盗が全く出ないわけではないですし、なんならこの辺りは灰色狼や熊なんかが出ますよ。そんな時はどうするつもりだったんです?」
この青年、行動力はあるようだが、後先を何も考えていない生き方にアイリスの方が不安になってくる。
ヴァルは飲み頃になったココアをすすりながら答えた。
「まあ、なんとかなるかなって。剣の心得はないんだけど、実は多少の魔法が使えるからそんなに不安はなかったんだよね」
氷点下の夜の雪山でも死ななかったのは魔法の力があったかららしい。旅のノウハウは旅慣れしている義理兄が出発前に色々教えてくれたのだとか。旅の装備もその人が揃えてくれたらしい。……全て川に流してしまったが。
「……魔法ってどんな魔法が使えるんですか?」
アイリスの問に、ヴァルは微笑んだ。
「ちょっとした魔法だよ。……そうだな、例えばこの薪をもっと燃えやすくするとか」
ヴァルは割った薪を手にして、口の中で歌うようになにかの旋律を呟いた。薪の周りの空気が一瞬パチリと赤く爆ぜた気がする。
「この薪、暖炉に焚べてごらん。いつもの物より火の持ちがいいはずだから」
ヴァルが言った通り、彼が魔法をかけたという薪はよく燃えた。
火の回りが速いのに、火の持ちがよく、いつもより少ない数の薪ですんだ。宿題の終わったユーリとロイは、ヴァルが魔法が使えることを知るとやってやって! とせがみ、手のひらの上に小さな炎を出したり小さな風を起こしたりしてもらっていた。
「ねーちゃん! ヴァル凄いよ! 本当に魔法が使える!」
すっかりヴァルに懐いた二人は暖炉の前で彼の膝に入りながら手の上の舞台で小さな魔法ショーに興奮している。ヴァルはここに来てからいい所を一つも見せいていなかったので嬉しくなったのか、少し得意気だ。
「他にも火の精霊を呼んで、この暖炉の火力を強めてもらったりも出来るよ」
やろうか? とヴァルはアイリスの方を向く。双子達は「精霊を呼ぶの!?」と目を輝かせていたがアイリスは静かにヴァルに聞き返した。
「……それって、どういう魔法なんですか?」
「炎の精霊と契約してここの暖炉にいてもらうんだ。火力の調整が楽になるよ」
笑顔でそう言ったヴァルにアイリスは少し考えると真顔で返す。
「必要ないわ。火の調整は自分でできますから」
アイリスの言葉にヴァルは驚いた。
「そりゃそうだけど。……でも随分楽になるよ? 薪をくべる回数も減るし。アイリス、楽にならない?」
世話になっているのだから自分が出来ることはしてあげたかった。大した魔法ではないが、アイリスの役には立つはずで、きっと喜んでもらえると思ったのに思いの外アイリスの反応が良くない。
「私は魔法が使えないけど……この国には精霊が沢山いて、私達はその恩恵を受けていることは知っているわ」
ヴァルはアイリスの言葉に目を見開いた。
「目には見えなくても私達の周りにはあちこちに自然や精霊が息づいていて、人も精霊も持ちつ持たれつ生きているんだってクリュスランツェの人は小さな頃から聞かされて育つんです。精霊に力を貸してもらえるのは有り難いけれど、火を保つためだけにうちの暖炉に縛り付けるのだったらそれは必要ないと思います。自分で出来ることは、自分でやらなきゃ」
精霊は便利屋じゃないもの。
そう言い切ったアイリスに、ヴァルは不思議な感覚を覚えた。
クリュスランツェの国土はほとんどが雪と森林に覆われていて、ヴァルの出生国であるアルカーナ王国に比べると資源が少ない。気候も一年の三分の一が雪に覆われているため、国民は冬季は厳しい生活を強いられている。だからこそ、他の国よりも自然や精霊に対しての畏怖や信仰が深い事は知識として知っていた。
知っていたけれど。
実際に大変な思いをして生活していると言うのに、こんな年若い少女までもが自分達が少しでも楽になるなら……という方に傾かず、精霊達の立場まで考えているとは。
ヴァルは口元が自然と上がるのを感じた。
「……アイリスは、本当に素敵だね」
そうヴァルが微笑むとアイリスは頬を赤く染めた。
「で、でも、私は精霊の声が聞こえるわけじゃないから、実際どう思っているかはわからないですけどね」
自分の言ったことを慌てて否定するアイリスにヴァルは増々笑みを深くする。
「嬉しいと思うよ? ……聞いてみる?」
「え?」
そう言ってヴァルが何か歌うように言うと、周りの空気が一瞬煌めき、アイリスや双子達の周りに虫の羽のような物が背中に生えた小さな精霊達がクルクルと旋回してアイリスの頬に軽くキスすると弾けて消えていった。
双子達は「今の何!? すっげー!!」と大興奮し、アイリスはびっくりして立ちすくんだまま精霊が触れていった頬を抑える。
暖炉の前には、アイリスを見ながら変わらず微笑んでいるヴァルが座っていた。