食堂の隅で双子たちが学校の宿題をやっている間に、アイリスと母は昼食の仕込みに入っていた。
冬季は宿に泊まりに来る人は少ないが、山で林業を営む人や近隣で仕事をしている人などが食堂として昼食をとりに来る。
本日のメニューはバケットとジャガイモのオープンオムレツ、鹿肉のシチューだ。アイリスは慣れた手つきでジャガイモの皮を剥いていった。
「慣れたもんだね」
気がついたらカウンターの向こうから先ほどまで双子の宿題を見ていたヴァルがまじまじとアイリスの手元を見ていた。
ごめんね、何にも手伝えなくて。と言うヴァルにアイリスはかぶりをふる。
「そんな。ユーリとロイを見てくれて有難うございます。あの子達、ほおって置くと碌な事しなくて」
ヴァルはマイペースでのんびりとしているが、子どもの気を引くのが上手いようで、実の姉であるアイリスも仕事の傍ら弟達の制御に苦心しているのだが、だいぶ年上のヴァルに失礼な口を利きつつも双子達は不思議と大人しくしていた。正直、双子達が静かなだけでだいぶ助かる。ヴァルは柔らかな顔でにこりと笑った。
「何ていうか、俺も子どもみたいなところがあるから。仲間だと思われているのかもね。俺は兄弟が多いから賑やかなのは嫌いじゃないよ」
お兄さんがいるという話は聞いていたが、どうやら彼には下にも兄弟がいるらしい。ふわふわとはしているものの、落ち着いた雰囲気は兄弟の多さからのなせる業か。
とは言え、大家族の下町育ち……というわけでもなさそうだし、天然なのかちょっと浮世離れしている言動は不思議だ。怪しいと言えばちょっと怪しいけれど、アイリスはヴァルが悪い人には思えなかった。
「なーなー! ヴァル~! 宿題終わったんだから遊ぼうぜ!」
「外で雪投げしようよ!」
気がついたら宿題を部屋に片付けに行っていた双子達がヴァルの体に絡みついている。すっかり二人は彼に懐いたようだ。ヴァルはアイリスの方に視線をよこすとアイリスは「宿題が終わったんなら行ってきてもいいわよ」と言いかけた。
――が、ちょうどそのタイミングでチリンと玄関のドアが音を立てて開いた。
体についた雪を払いながら入ってきたのは、近くの村に住んでいて耳の下からモジャモジャと
「いらっしゃいませ」
アイリスは珍しいな、と思った。彼らがいつもここへ昼食をとりに来るのは昼を少し過ぎた頃だ。いつもの時間より半時以上早い。
アイリスの視線で言いたいことを察したのか、ダレルは「今日は昼飯じゃねえんだ。女将茶をくれ、酒の入ったやつ」と言ってテーブルに腰を下ろす。そしてヴァルの方を見て「お?」と声を上げた。
「なんだい。アイリスはいつの間に
「えっ」
アイリスは一瞬何を言われたのか解らず、きょとんとするヴァルの顔を見、ダレルの顔を見てたっぷり一拍置いてから真っ赤になった。
「ち、違います!! この人はわけあって今ウチに居候してて……! 婿じゃありません!!」
両手を振って否定するアイリスにダレルは「何だ違うのか」とカラカラと笑う。そしてヴァルをもう一度見て、「まぁ、綺麗な兄ちゃんだけど宿屋の亭主にしてはちょっと細すぎるわなぁ……」と言うものだからアイリスはもう一度しっかりと否定した。
動揺を隠せないアイリスとは違い、ヴァルは全く気にしていない様子で、双子達に防寒着を着せて外に出る準備をしている。
「あ、兄ちゃん。今外に行こうとしてんなら止めたほうがいいぞ」
アイリスの母からお茶を淹れてもらって温まっていたダレルがヴァルと双子達に声をかける。皆がダレルの方を見た。
「今日ここへこんな時間にきた
灰色狼とはこのあたりに生息する狼だ。
彼らは基本的に夜行性なのだが、冬季は餌が少ないためか昼間から行動することもある。気性はなかなかに凶暴で、群れをなして狩りをするのでこの辺の者は夜間の外出はしないのだ。
「遠目で見ただけだが……自分も今日は
気性が荒いとは言え、日中に人里近くまで降りてくることは稀だ。家畜でも狙われて味を覚えられたらお終いである。
「……なんでこんなところまで降りて来たんでしょう」
アイリスは不安げに眉を寄せた。ダレルは「さあてなぁ……」と自分の顎に蓄えられた髭を触る。
「ああ、そう言えば。……何日か前によ、峠の炭焼小屋のネロの親父が山で銀狼を見たっていうんだ」
「銀狼?」
アイリスは驚いて聞き返した。
「ああ。釜に火入れするために朝早く小屋の釜に行ったらしいんだが……白い雪の上でも解るくらい見事な銀色の狼だったって話だぜ」
隣の国、アルカーナとの国境付近からこの辺りの山で狼の生息は珍しくない。けれど大概が体毛の黒い黒狼かくすんだ灰色の灰色狼だ。銀色の狼など、空想の物語の中でしか聞いたことがない。
「そんな見事な銀の狼なんぞ、魔物か精獣か何かに決まってる。
おまえさんんらも徒歩で不用意に出歩かない方がいいぞ、と忠告して、お茶を飲んだらダレルは馬車に乗って帰っていった。
「……数日前ってヴァルが峠でカバン落とした頃じゃねー?」
狼見た? とユーリがヴァルに尋ねる。
「いや、見なかったな。……そもそも遭遇してたら今ここにはいないよ」
苦笑するヴァルの顔を見てアイリスは背中が寒くなった。
(この人、こうやって笑ってるけど……そうよ、この辺を狼がウロウロしてたんなら昨日もしあのまま外にいたら危なかったかもしれない)
ホッとすると同時に、のほほんとしているヴァルに不安を覚える。アイリスはしっかりしなくちゃ! と密かにぐっと拳を握った。