目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第5話 「これは必要なお願いだよね?」




 アイリスの家にも数は多くないが鶏と馬、山羊やぎが二頭いる。いつもは小さく囲った放牧地に放ってあるのだが、ヴァルについて来てもらって厩舎きゅうしゃに入れしっかりと鍵を掛ける。薪も明るいうちにいつもより多めに家の中に入れておいた。


「困ったわ。こんな時、父さんがいてくれたらよかったんだけど」


 宿の周りは一応ぐるりと柵に囲われてはいるが、完全に獣の侵入を防げるものではない。父がいる時ならばこういう時、柵に鈴をつけたり自分が率先して外の仕事を請け負ってくれたりと頼りになったのに。

 でも、どんなに嘆いても父は今不在で弟達はまだ幼い。母は宿を回さなくてはいけないし私がしっかりしなくては、と不安な気持ちがよぎりながらもアイリスは自分の心を奮い立たせた。

 ダレルは灰色狼がこの辺りに出たことを村人たちにも伝えると言っていた。今日はもう食堂にもお客は来ないかもしれない。外に出られないとなると弟達がまたブーブーと言い出すに違いなく、色々なことを考えると肩に力が入るようだった。


「アイリス」


 不意に名前を呼ばれて声の方をふり返ると、緩く唇を上げたヴァルに親指の腹で眉間を柔らかく撫でられる。


「……怖い顔になってるよ。大丈夫。狼が敷地に侵入してきたら教えてもらえるように精霊にお願いしておくから心配いらないよ」


 これは必要なお願いだよね? と笑って今度はアイリスの頭を撫でた。

 不思議と、ストンと肩の力が抜けた気がして、


「有難う……ございます」


 そう小さくお礼を言って、撫でられた場所を触ったアイリスにヴァルは増々笑みを深くすると、草緑色そうりょくしょくの瞳を細めた。


 アイリスはヴァルを春の新緑みたいな人だな、と思った。




 もし宿の敷地内に侵入者があればすぐにヴァルには解るような魔法が使えると聞いて、アイリスの母は「ヴァルさんは頼りになるのねぇ!」と感心し、ヴァルは「やっとお役に立てて嬉しいです」と始終ニコニコしていた。

 あれからお客が来る様子もなく、八つ刻になる。おやつと一緒にお茶でも淹れようかと思って、そう言えばユーリとロイがやけに静かだなと気がついた。あの暴れん坊達が静かな時は大概ろくな事がない。一度様子を見に行こうと双子達の部屋に向かった所で前からユーリが歩いてきた。


「ユーリ。今からお茶を入れるけどユーリも飲む?」


 ユーリは微妙な顔をした。


「……ユーリ?」

「姉ちゃん、ロイ、なんか変じゃないかな? さっきから元気がないんだ」


 ユーリに引っ張られて子供部屋を覗くと、ユーリが二人がけのソファにぐったりともたれかかっていた。


「ユーリ? 貴方具合が悪いの? ……!!」


 弟の体に触れてびっくりする。ユーリの体は午前中の時とは全然違って驚くほど熱かった。


「酷い熱!! ユーリ! 母さん呼んできて!!」


 ソファでぐったりしているロイを二段ベットの下の段に寝かせながらユーリに指示を出して、すぐに氷嚢ひょうのうを作りに走った。


 ロイの熱はどんどん上がり、夕方にはうなされるようになっていた。頭に乗せている氷嚢もすぐにぬるくなってしまう。

 アイリスはぬるくなった氷嚢を変えようと台所に向かった。食堂にはユーリとヴァルがまだいて、アイリスに気がつくとヴァルがさっと立ち上がって駆け寄ってくる。


「ロイの様子どう?」


 アイリスは静かに首を横に振った。


「……全然熱が下がりません。ロイ、小さく産まれてきたから小さい頃は本当によく熱が出て。でも最近は段々でなくなったから……油断してました」


 昨日寒かったのに、学校に行くときの服装が少し寒かったのかもしれない。そう言えば少し前に防寒用の外套がいとうが少し寒いと言っていたのに。


「忙しさにまけて聞き流しちゃってました……。ロイ、熱が高くなると痙攣を起こしたりするので、あまり高熱は良くないんです。……私の落ち度です……」


 アイリスは後悔をにじませて俯いた。母は、山で仕事をしていてやはり灰色狼を見たと言う隣町の人が宿に駆け込んできて、今から帰ると暗くなってくるので一泊していくと言った為、その対応に追われている。ここは、自分かしっかりしなければいけないのに。

 ぬるくなった氷嚢をぐっと握りしめたアイリスの拳に、ふっとヴァルの手が重なった。


「……大丈夫。アイリスのせいじゃないよ。近くにお医者さんはいないの? 本当に暗くなる前にお医者さんを呼びに行こう」


 大丈夫、俺が行ってきてあげるから。と柔らかい声に顔を上げるとヴァルの優しい瞳とぶつかった。




 雪花亭は村の外れにあるので、村の中心までは馬で五分程かかる。ヴァルは一人で行くといったがアイリスは自分も行くと言って聞かなかった。


「狼が出るかもしれないし危ないよ。俺は魔法も使えるし一人でも大丈夫」

「荷物を全部川で落とす人が何を言っているんですか? 雪が積もっているし一緒にいかないと迷います! そもそも村に行ったことないのにどうやってお医者さんの家に行くんですか!?」


 なんとかなるよとヴァルは言ったがアイリスはがんとして譲らなかった。母は狼が出るかもしれない外にアイリスを行かせることを渋ったが、アイリスの言うことも一理ある。雪道は慣れた者でも方向感覚が狂うことがあるのだ。しばらく押し問答が続いたが、夕闇も迫ってくるともっと厄介になるということで最終的にはヴァルが折れた。


「……わかった。じゃあアイリスのことは何があっても俺が守るから。女将さん、心配しないで」






 話が決まると二人は防寒着に身を包み、アイリスを前に乗せてヴァルが手綱を取った。


「では女将さん行ってきます。くれぐれも俺達が戻るまでは外に出ないで下さいね」


 そうアイリスの母に念を押すと馬の腹を蹴る。馬は雪の中を風のように駆け出した。


 アイリスの家の馬は今年15歳になるそろそろ老年期に入る年齢だ。アイリスが生まれた頃から一緒に育ってきたが、最近走りに年を取ってきたなと感じていた。

 なのにどうだ、今日は二人も乗せているのにまるで全盛期のような生き生きとした走りをしている。


(凄い、本当に風みたい)


 足元は雪で風も冷たく、決していいコンディションではないのに、思ったよりも揺れも気にならない。アイリスはちらりとヴァルの顔を盗み見た。その顔は凪いでいて、とてもこの極寒の中馬を操っている人には見えない。この道をこんな風に馬が走れるのも、ヴァルの手綱の操り方が上手いせいだ。ウチの馬には今日始めて乗ったはずなのに、馬がヴァルに対して安心しきっている様子がうかがえる。


(不思議な人)


 雪が降り積もる冬の峠を越えようとして荷物を落として行倒れるなんて、なんて命知らずで世間知らずな人だと思っていたが、彼といるとなんだか安心する。アイリスはぎゅっと馬のたてがみにしがみついた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?