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第6話 「君って思ったよりもお転婆なんだな」




「えっ!? 先生がいない!?」




 村にはあっという間に着いて、無事に村の診療所まで来ることが出来た。出来た……が、診療所には肝心の医師の姿は無く、先生の奥さんが申し訳無さそうに言う。


「そうなのよ。実は今日の午後に隣の村にけが人が出たとかで応援に行ったのだけれど、帰り道に木が倒れていたらしくてね、撤去が間に合わなくて……。うちの人は高齢だからね、徒歩で帰るわけにもいかなくてねぇ……狼も出たって話だし、帰ってくるのは明日以降なのよ」

「そんな……」


 言っていることは理解できたがアイリスは目の前が一瞬暗くなった。ロイのあの様子では夜にはまた熱が上がるだろう。以前熱が出たときにはこれ以上熱が上がると命に関わると言われたのだ。


「あの! せめて熱冷ましだけでもいただけませんか! 弟が高熱で苦しんでいるんです!」


 先生の奥さんは気の毒そうに眉を下げた。


「私もできればそうしてあげたいのだけれど、主人がいないと薬の調合が出来ないのよ。熱冷ましの薬は長期保存が聞かないから余計にね」


 アイリスは思わず口に手を当てた。


「わかり……ました」


 有難うございます、となんとか言って診療所の前を離れる。二、三歩歩いてアイリスの身体がふらりと傾いだ。


「アイリス!」


 大丈夫? とヴァルがその肩を支える。ヴァルはアイリスに深呼吸をして、と語りかけると、あえて至極落ち着いた声音でアイリスに尋ねた。


「宿に熱冷ましの予備はないのかい?」


 アイリスは目に涙を浮かべながらヴァルを見上げる。


「ここ最近、あの子本当に熱を出すことがなくなっていたの。さっき奥さんが言ってたようにあの薬は日保ちがしないから長期保存にはむいてなくて……熱が出たタイミングで作ってもらってたんです」


 あの子、一度高熱で死にかけてて。しょっちゅう熱が出てた頃はあんなに気をつけていたのに。


 それだけ言うとアイリスはついにボロボロとその両の目から涙をこぼして俯いてしまった。ヴァルは嗚咽をこぼすアイリスの肩を抱いたまま途方に暮れる。


 一体自分に出来ることはなんだろう?


 魔法の心得はあるが、魔法では病気を治せない。氷を溶けにくくして持続的に冷やすことは可能だが、それで熱が下がるという保証もない。薬草に詳しい姉が旅の餞別せんべつに持たせてくれたいくつかの薬草が荷物には入っていたがそれも全部川に流されてしまった。ヴァルは自分の迂闊うかつさを呪った。


「……アイリス、とりあえず宿に戻ろう。時期に暗くなるし狼が出てもいけない」


 とりあえず雪花亭に戻り、ロイの熱を少しでも下げるための努力をするしかない。それにはまず、アイリスの涙を止めなくては――


 そう思ってアイリスの顔を見たヴァルは目を見張った。


 泣いて俯いていたアイリスが前を見つめ、何かを呟いている。


「……雪黃草」

「え?」

雪黃草せっきそうよ! そうだわ!」


 何のことやら困惑しているヴァルの手を取ってアイリスは馬を停めてあるところまで走り出した。

 目を白黒とさせているヴァルを促して来た道を戻る。


「アイリス! 一体どういうこと!?」


 ヴァルは混乱した頭で何とかアイリスに尋ねた。


「この時期、木の際に咲く雪黃草という黄色い花があるんです。雪の下から茎を伸ばして咲く強い花で……なかなか咲いてないんですけれど、その花や茎には強い解熱効果があるの!」


 来た道を中程まで戻ると、アイリスは馬から飛び降りるようにして雪原に降り、森の奥へあっという間に消えていってしまった。


「アイリス!」


 ヴァルは慌てて馬から降りアイリスを追いかける。アイリスは雪が積もった地面を這うようにしながら雪黃草がないか、目を皿のようにして探し回った。日はだんだんと落ちてきて夕闇が迫っている。早くしないと真っ暗になってしまう。


(お願い……!! どうか見つかって!!)


 祈るような気持ちで目を凝らす。だんだん手元が見えにくくなってきて、手の感覚がなくなってきた。

 随分森の奥まで進んだ頃、目の前に小さな小川が現れて、もうこれ以上先へは進めそうになかった。アイリスは絶望的な気持ちになる。


「あっ……」


 その時、小川の縁の雪が少なくなった所に黄色の小さな花が見えた。


「……あった……!!」


 その花は小さな花弁が何枚も重なり、白い雪の上に月明りが落ちたような色をしていた。

 間違いなくアイリスの知っている雪黃草だ。アイリスは見えない何かに祈るように手を合わせると、その黄色い花をいくつか摘んだ。


(よかった……!! これでロイの熱を下げてあげられる!)


 早く家に戻らなくては。アイリスは顔を上げた。


「……!」


 アイリスが顔を上げた小川の向こう岸の数メートル先に、グルルと小さく喉を鳴らして灰色の大きな狼がこちらを見ていた。


「あ……」


 雪黃草を探すのに夢中になっていてすっかり失念していた。灰色狼が出るから早く帰ろうとヴァルが言っていたのに。


 よく見ると狼は一頭ではなく、森の奥に何頭もの目が光っている。


 アイリスはジリジリと後ずさったが、雪の中雪黃草を探し回っていた身体はすっかり冷えていて足が思うように動かず、後ろに下がった拍子にドスンと尻餅をついた。

 先頭の狼がゆっくりと小川を越えて、オォーンと細く鳴く。ぐっと地面に体制を低くしたのがアイリスにもわかった。


(食べられちゃう……!!)


「アイリス!!」


 両腕で頭をかばい目をつぶった瞬間、狼とアイリスの間に誰かが割り込んだ。

 閉じた目を開けて見えたのは、なびいた長い黒髪と広い背中。


 アイリスの視界から灰色狼の姿は消えて、見えるのは彼の――ヴァルの背中だけになる。

 その時、アイリスは呑気にも初めてヴァルが大人の異性だったということに気がついた。

 一瞬、今がどういう状況なのかを忘れ呆けたようになる。が、呼応したように次々と遠吠えを上げる狼の声を聞いて我に返った。


「ヴァ、ヴァルさん……!! 逃げて……!」


 そう言っては見るものの、自分も完全に腰が抜けて動けそうにない。ヴァルは短剣は腰に刺しているものの、武器らしい武器は持っていない。

 ヴァルはアイリスの家の前で行倒れて、ほぼ転がり込むような形で居候してるが、他国の地でアイリスの家の面倒事に巻き込まれて死ぬなんて申し訳無さすぎる。せめてヴァルだけでも逃げてほしかった。周りからは狼達の唸り声と息づかいしか聞こえない。


「ヴァルさん……!」

「……」


 背中を揺すって逃げるように彼を促すが、彼は何故か前を見据えたままピクリとも動かない。


 もしや彼も足がすくんで動けないのかも。


「――」


 もはや万事休すかと思った時、突然狼達の唸り声が消え、なんと狼達は一斉に森の奥へと消えていった。






「……」


 残されたのはヴァルとアイリスのみ。

 周りには静寂が戻り、聞こえてくるのは小川のせせらぎだけだった。


「……大丈夫?」


 やっとヴァルが振り向いて、アイリスに声を掛ける。その声は驚くほどに落ち着いていた。


「……信じられない。なんで助かったんですか、私達」


 まだ心臓がドキドキしている。狼の群れは20頭はいただろう。どう考えてもこちらに勝ち目も逃げ道もなかったし、襲われて終わりの未来しかなかった。


「……さぁ、なんでだろうね? 俺は彼奴等あいつらの気持ちはわからないけど。お腹がいっぱいだったんじゃないの?」


 立てる? と手を引っ張られたが完全に腰が抜けて立てない。「む、無理そうです……」と蚊の泣くような声で返すと、ヴァルは笑ってアイリスをふうわりと持ち上げた。

 重さなどまるでないように持ち上げるものだからアイリスが驚く。そしてそのままスタスタと馬がいる方まで歩いていった。


「俺は狼よりもアイリスに驚いたよ。……君って思ったよりもお転婆なんだな」


 そう言って笑った顔はいつもよりもちょっぴり意地の悪い顔で。アイリスは自分が無謀なことをしたのは自覚していたので言い返せなかったけれど、ちょっと恨みがましい目でヴァルを見上げてハッとした。


「……ヴァルさんの目。ずっと緑だと思っていたけれど金色も混ざっていたのね」


 月明かりに照らされて見えたのは、緑に混ざる金色の不思議な煌めき。


 アイリスは思わず「綺麗……」と呟いた。


「……アイリス。……無茶と無謀は違うからね。無謀はだめだし、無茶は、俺の目の届く範囲でして下さい」


 指先、こんなに冷たい。と少し怒ったように言う。

 月明かりだけの暗闇の中で、ヴァルの耳が何故か赤くなっている事にアイリスは気がついた。

 その原因がなぜだか解らずに、アイリスは不思議に思う。


「宿に急いで戻ろう。早く薬草を届けなきゃいけないし、きっと皆心配してるよ」


 彼も同じ様に外を歩き回っていたはずなのに、何故か彼の身体は暖かくて。馬に乗って家に付く前に、アイリスの意識は闇に溶けていった。


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