「前にも言ったと思うんだけれど、俺の家はちょっと特殊でね。兄達が家督を継いでいるから父にも母にも俺は『好きに生きたらいい』って言われているんだけれど……」
兄達のように国の中央に行って仕事をする事にはむいていない気がするし、上二人とヴァルは毛色が違ったため、幼い頃からとても上流社会を渡っていける気がしなかった。
どちらかと言うと田舎にいる方が好きだし、母の出身地の田舎でただただボー―ッと生きてきた。
実家はお金には困っていないけれど、まだまだ下にも弟妹が沢山いるし、成人もとっくに過ぎたのにいつまでも実家でブラブラとしているわけにもいかない。
とは言え、田舎暮らしが性に合っていてやりたい事も特になく、結婚して近くに住んでいる姉の家に居心地がいいからと成人してからも入り浸っていた。
姉の家族は嫌な顔は全くしなかったけれど、姉の夫である、もはや実の兄よりも一緒にいる義理兄に言われたのだ。「お前には自分の人生をかけて守りたいと思うもんはねぇのかよ」と。
「俺の家族ってさ、皆びっくりするくらい強い……というか自立してるんだ。経済的にも、精神的にも。家族や、姉の家族は守りたいって言ったら義理兄に『それは俺の役目だからお前はお呼びじゃねぇ』って言われちゃって……恥ずがしながら、それ以外誰の事も思い浮かばなかったんだよね」
自分は今までずっと守られる側で生きてきたんだと自覚したら、二十年も生きてきてこのまま守られたままではいけないと感じた。
自分に何が出来るのかは解らないけれど、義理兄の言うように、まずは家を出て自分が守りたくなるようなものを見つけようと思った。ならば手始めに見聞を広げようと隣の国でも見てこよう。思い立ったら吉日……と家を出てきたのだ。
「でも旅に出た途端、鞄は川に落としちゃうし、お腹が空いて行倒れちゃうだろ? 死にはしないと思って問題ない……と思っていたんだけど、自分のあまりの考えの無さに驚いたよね」
自嘲した顔で笑い、けど……と続ける。
「故郷から出て、初めての人との出会いがここだったんだ。……びっくりした。君は俺より小さくて、若くて……なんの力もないのに、俺にはないものをたくさん持ってる。守りたいものも、やるべき事もしっかり解っていてもうちゃんと家族を守ってる。……ちょっと、行動力がありすぎる所もある気がするけど」
尊敬してる、と
「あの……そんなにヴァルさんに褒めてもらえるような人間じゃないんですけど……でも、昨日はヴァルさんがいてくれたからロイに薬が届けられたんだって思ってます。私一人じゃ、きっとあの子を助けられなかった。……だから、あの子を守れたのはヴァルさんのおかげでもあるんです。有難うございます」
ヴァルは目を瞬いた。
「……俺も、君の役に立ったかな……?」
ヴァルがあまりにも自信なさげに言うので、アイリスは「もちろんです!」と思わず大きな声で返した。
あまりに大きな声だったのでお互いにびっくりして目を丸める。その顔がおかしくて二人でひとしきり笑ってしまった。
笑いの発作がなかなか収まらずに目尻に溜まった涙を指先で拭う。「あー、お腹苦しい」とアイリスはヴァルの顔を見ると、彼がその綺麗な顔を柔らかく崩して自分を見つめている。その眼差しが、あまりにも優しくて、アイリスはドキリとした。じっと見つめられる事に落ち着かなくて、視線をそらそうとしたが、明かり取りの小窓から差し込んだ光が二人の顔を照らしてふと気がついた。
「あら……? ヴァルさんの瞳……金色が混ざっていた気がするんですけれど……」
昨日、あの月明かりの下で見た彼の瞳は、いつもの新緑の様な緑色だけでなく、月の光を溢したような金色も混ざって揺らめいていた気がしたのに。
「気の所為だったかしら」と逆にまじまじとヴァルの瞳を見つめるアイリスに、ヴァルはただ曖昧に微笑んだ。
ロイは夕飯時にはすっかり元の調子を取り戻して、皆で一緒に夕飯を囲むことが出来た。
それでも、熱がまたぶり返しては大変とロイとユーリは早く寝るように申し渡され、大人達も早めに仕事を終わらせて自分たちの部屋に戻った。昨日はアイリスにしては大胆な行動だったのか、ぐっすり寝たためにロイのように体調を崩すことはなかったけれど、やはり疲労感はあったのか布団に入ったらストンと眠りについた。
けれど、いつもと違う時間に寝たせいか夜中に目が覚める。
(さむ……)
アイリスは壁にかけてあったカーディガンに袖を通して寝台を離れた。
宿の厠は客室に上がる階段の横にあるが、家族用の厠は家の一番奥の洗濯場の隣にあり、一番外に近いところにあるために室内にあるとは言え冬の夜はとても寒い。アイリスは手早く用を済ませると小さなランプを片手に部屋に戻ろうと厠を出た。廊下の窓から見える庭はよく晴れていて、月明かりに照らされて夜とは思えないくらいに明るかった。
(今日は満月なのね。綺麗……)
月明かりに照らされた雪原は、キラキラと星屑を溢したように光っていて、その幻想的な風景にアイリスは目を細めた。
クリュスランツェの冬は雪深く、日照時間も少ないために鬱々とする人もいて、雪はうんざりだと言う人も多い。
けれどアイリスは雪の風景が嫌いではなかった。
大変だけれど皆で協力して雪をすかしたり、晴れた日に誰にも踏まれていない雪に飛び込むのは何度やっても飽きなかったし、朝日でも月明かりでも雪の上に光が落ちれば夢のように輝いて美しかった。
あのキラキラと輝いている所にいるのは雪の精霊なのだろうか? 光の精霊なのだろうか?
そんなことを想像しながらいるのもたまらなく楽しかったのだ。
特に、今日みたいにふとひとり目が覚めた夜。誰も起きていないひとりきりの時間に見る夜の雪原は切り取られた絵画のように美しくて。誰にも秘密の宝物のように窓枠を額に見立てて外を見るのが好きだった。
「……え」
アイリスは思わず持っていたランプの火を消した。とっさに窓から身を潜める。
雪花亭の裏庭の雪原に、音もなく一頭の狼が現れたのだ。
それは、あの灰色狼ではなく、月明かりをうけ、輝くような銀色の毛並みの銀色の狼――
宿の敷地内に狼が出たなど、本当は慌てて母を起こさねばならない。けれどアイリスは何故かそんな気にはならなかった。
不思議と、あの狼がなにか悪さをするとは思えなかったのだ。
銀色の狼は、何か歌うように細く鳴くと、それに合わせて雪の上が幻想的に光り輝いた。時折、羽の生えた小さな何かが、銀狼の声に合わせて雪の上を浮かんでは消える。
(……あれ、精霊だ……!!)
クリュスランツェは国土を森に覆われた国。自然と共存していると言っても過言ではないこの国は遥か昔から今日に至るまで、地に宿る精霊への信仰が深い。子どもの絵本などにもよく精霊が登場するので、隣のアルカーナ王国に比べれば子どもの頃から精霊への親しみが深いのだ。
けれども、やはり魔法の才能がある者や魔法使いでない限り、その姿を見る機会は殆どない。アイリスだって、本物の精霊を見たのはヴァルが見せてくれたあれが初めてのことだったのだ。
ヴァルは二階にあてがった客室で寝ているし、今ここにいるわけではないのに、なんの魔力もない自分にもあれが見えるということはやはりあの銀狼自身が精霊か何かなのだ。きっと先日ダレルの親方が言っていた銀狼と同じ個体に違いない。
なぜ、その銀狼が雪花亭の庭にいるのか。
アイリスにはその理由が全くわからなかったが、銀狼の歌う歌と精霊の幻想的な踊りに、ただ目を奪われて固まっていた。
暫くすると銀狼は歌うのを止め、精霊たちは銀狼の周りをくるくると回って消えていった。
不意に、銀の狼がくるりとアイリスのいる窓の方を向く。アイリスは慌てて身を隠すと、這うようにして自分の部屋に戻って布団に入った。
すっかり身体は冷えていたはずなのに、ドキドキと高鳴る胸がアイリスの身体を温めて一つも寒くなかった。