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第9話 「ずっとうちにいていいんですからね」




「あふ……」


 朝の食事の洗い物をしながら、アイリスはあくびを噛み殺した。

 昨日はあれから胸がドキドキしてなかなか寝付けなかった。母には眠そうに起きてきたアイリスに「珍しいわね?」と言われたが昨日見たことは言えなかった。


 拭きながらやっとお皿を割らなくなったヴァルが面白そうにアイリスに尋ねる。


「眠そうだね」


 三回目だ、と笑われて四回目のあくびが出そうだったアイリスは無理矢理あくびを飲み込んだ。


「……昨日本を読んでいたら面白くて夜ふかししちゃって……」


 昨日の夜の出来事をなんだかヴァルにも言うのを憚られて、アイリスは適当なことを言った。


「へぇ、そんなに面白い話だったの」


 読み終わったら貸してくれる? とヴァルが食いついてきたので、アイリスはいいですよと返したけれど、持っている本の中で面白いのはあったかしらと必死に思い出す羽目になった。


 ロイはすっかり元気になって、今日はユーリと一緒に元気よく学校に登校していった。雪花亭の食堂も今日は定休日で、いつもよりゆったりとした時間が流れている。

 洗い物が終わったらお茶でも淹れようかしらと思っていた所に、洗濯場で洗濯をしていた母が食堂に顔を出した。


「アイリス、それが終わったらヴァルさんと一緒に買い出しに行って頂戴。今日は小麦と洗髪料を頼んであるから。ヴァルさんがいてくれて助かったわ」


 ロイを連れて村に行った時は夕方で緊迫していたのでヴァルに案内する事も出来なかった。

 村には雑貨店があり、小さいながらも色々な物を売っている。日用品はもちろんだが、宿で必要な物も定期的に頼んでおくと取り置いてくれるのだ。薪などは宿に届けてくれるが週に一度、食堂が定休日の日に必要なものを村に買いに行っているのだ。


 食器を片付け終え、防寒着をしっかりと着込んで宿の横にあるうまやに向かう。


「やあブライ、元気かい?」


 ヴァルは厩で飼葉をはんでいた馬のブライに気さくに声をかけて首筋を撫でた。

 ブライは先日ヴァルとアイリスを背に乗せて森を駆けた馬だ。この地方の馬はファクダという品種で、一般的な馬よりも体格が大きく、全身が長めの体毛で覆われている。気性は穏やかで力があるので運搬に向いているのだそうだ。

 ブライもその性質の通り大変穏やかな性格で、首筋を撫でるヴァルに気持ちよさそうに鼻を鳴らした。


「……ヴァルさんってブライと話ができるみたい」


 穏やかな性格とは言え、アルカーナの馬と比べたら体躯も一回り大きく、初めてファクダ種の馬見た人は大概驚いてしまう。しかしヴァルは先日初めてブライの背中に乗った時も恐れることなく手綱を操っていた。雪の中を駆け抜けた走りはまるで長年の友のようで……。

 ヴァルは「昔から動物には好かれる質なんだ」とのほほんと笑った。


 ブライに鞍をつけソリを繋ぐ。雪が深い道では車輪が埋まってしまい馬車は走れないので冬季の輸送手段は大体がソリだ。ヴァルはアイリスに教えてもらいながらソリを繋げ、その工程を興味深そうに見ていた。


 二人はブライの背に跨がり村へ向けてゆっくりと走り出す。

 先日遭遇した灰色狼の事も気にはなるが、今日は日中であるし、大型のファクダ種であるブライに乗っている限りあまり危険はない。狼もブライの太い足で蹴られてしまってはひとたまりもないのだ。




 晴れた雪の森は光が枝に積もった雪にも反射して時折煌めき、幻想的な風景を作り出している。


「アルカーナの方ではソリは使わないんですか?」


 アイリスは他愛もない質問をした。


「雪深い地域は使っているかもしれないね。俺の住んでいた所は冬季はとても寒いんだけれど、雪深いというより凍結の方がきつかったからなぁ……馬車が主流だよ」

「そうなんですね」

「そう言えばアイリスの父君はアルカーナの方に出稼ぎに行っているんだろう? 何をしているの?」


 白銀の風景に目を奪われながら、ヴァルもアイリスに聞き返す。


「えーとですね、船に乗ってます」

「船!?」


 あまり大声を出さないヴァルが、珍しく驚いて大きな声を出す。その声に驚いたブライがブルルと鼻を鳴らしてヴァルは慌ててブライの首筋を大丈夫だよと擦った。


「……え、アイリスのお父さんって普段は宿屋の主人なんだろう?」


 なんで船? と首を傾げたヴァルにアイリスは苦笑した。


「……うちの父、面白いことが好きというかなんというか……どうせやるならやったことのない事がやりたい! って、冬季の間はアルカーナの北東部の港から冬季に海流に乗ってやってくる魚を捕る漁船に乗っているんです」


 こう、身体も大きくて、力もあるから重宝されているみたいですよ。と笑うアイリスに「へぇ~! 会ってみたいなぁ」と興味津々に言う。

 「そういうヴァルさんのご両親はどんな方なんです? 小さい頃ってどんな子でした?」 とアイリスは何気なく聞いた。ヴァルは「俺の両親? うーん、そうだなぁ……」と口を開く。 


 「うちはさ、両親が仲がいいのは結構なんだけど、何せ母親が王都に行きたがらなくてね。父は母に甘いから、俺達は母の田舎で育てられたんだけど、母といったら子どもを森の中に転がして置くような人だったし」


「え?」


「見兼ねた義理兄が……あ、そうそう、姉と言っても親子ほど歳が離れているんだけど。義理兄が『子育てはお前がやれ!』って父に言ったらしくて上の兄二人は王都の父の所で育ったんだ」


「……は?」


「俺は生まれた風体ナリがちょっと上二人と違ったもんだから王都では育てられないって言われて母の所にいたんだけど、やっぱり母も相変わらずだったから義理兄と大喧嘩して姉の家で育ったも同然というか――」


「……」


 そこまで話してヴァルは何気なく自分の前にいるアイリスを見おろしてギョッとした。


「ア、アイリ――」

「ヴァ、ヴァルざん……がわいぞう……」


 アイリスは目から大粒の涙をこぼしながら、うぇっ……と嗚咽を堪えきれずに声を上げた。

 アイリスの心は周りの天気とは裏腹に嵐のようだった。


 アイリスの背中にいる彼はいい大人の割には世間知らずで、どこかフワフワしていると思っていたが、幼い頃からそんな目に合っていたとは。


 (きっとお金持ちなのに両親の愛を知らずに育ったんだわ……!)


 兄は中央の屋敷に引き取られたのに、育児放棄されて姉夫婦に預けられるとか、お金はあっても何と言う不幸な事だろう。アイリスは憐れみの目でヴァルを見た。


 「ずっとうちにいていいんですからね」とオイオイと泣くアイリスにヴァルはブライの足を止めて「ち、違う違う!」と慌てて否定した。


「両親は決して育児放棄したわけじゃないんだ! 俺も寂しいとか、そんな事は思った事はなくて……なんていうか、本当に特殊な家でさ。うーん、説明が難しいんだけど、俺はどちらかと言うとだから、母の育て方でもなんの問題もなかったんだ。けれどなんていうか……姉夫婦が気を回して色々世話を焼いてくれたと言うか」


 ちなみに現在は王都にいた父も引退して田舎の母の屋敷に移住し、ヴァル以下の兄弟達は皆一緒に住んでいる。父は仕事上すぐには移住が難しかっただけで、ずっと母の元に行きたいと思っていたのだ。姉夫婦の家に転がり込んでいたのはヴァル自身の意志であり、決して放り込まれていたわけではない。なんなら姉夫婦の屋敷と実家は徒歩でも行ける距離だ。


 そう説明するとアイリスは今度は「……じゃあ、寂じいわけじゃながったんですねぇ!?」良かったぁ~! と結局泣くものだから、ヴァルはやはりオロオロとしてしまった。

 アイリスの涙がやっと止まって鼻をすする音だけになった頃、アイリスの背中に身体をピタリと付けて抱きしめながら彼女の言葉を反芻する。


「……家族も、愛情も。全部初めからあって、何不自由なく育ったけれど……もしかしたらアイリスの言うように寂しかったの……かも」


 ぽつりと呟かれた言葉にアイリスが顔を上げる。


 言葉とは裏腹に、ヴァルの顔に哀しみや寂しさはなかった。

 代わりに、今初めて気がついた、とでも言うような顔をしている。


「父と母は愛し合っていたし、兄達は自分のやるべきことを知っていた。姉夫婦も固い絆で結ばれているのは身近に見ていて感じたよ。俺の周りの人達は皆自分の生きる目標を持っていて、凄く輝いていたから」


 木々から溢れる木漏れ日を浴びているのは心地が良かった。何もしていなくても温かな光を浴びていれば気持ちがいい。


 ずっとそのままでいいと思っていたけれど。


「俺はきっと、羨ましかったんだ。皆みたいになりたい……俺も自分が生きている意味を見つけたいって……だから」


 いつまでも、誰かに温めてもらうだけではなくて、自分も誰かを温めることが出来たら。


 自分の世界は変わるかも。


 そしてそれがもし、自分が大切に思っている人に与えることが出来たら――


 ヴァルはアイリスを見た。


 アイリスはヴァルの呟きを聞くと、泣いていた顔をふにゃりと崩して、


「見つかるといいですね。大切なもの」


 と笑った。


 ヴァルはなんだか嬉しいような、ちょっぴりいじけたような相反した気持ちになる。


 じわじわと胸に広がるこの妙な疼きはなんだろう?


 それでも、少しばかりの痛みを覚えつつ、胸はぽかぽかと温かい。


 結局、またアイリスに温められてしまった。


「――俺、君にはかなう気がしないな」


 そう言って眉を下げたヴァルに、アイリスは「なんでですか!?」と驚いて声を上げた。


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