少年はあたたかなベッドの中で目を覚ました。清潔なシーツとやわらかな毛布に包まれ、なんだかとても、ほわほわとした気持ちがする。見えないながらも、周囲が明るいことが分かった。たぶんもう朝なのだろう。
「起きたか」
声がした。この声は昨日「タクマ」と名乗った方の人の声だ。セイザと同じように若い男の人の声。けれどもセイザよりも少し低く力強い音がするし、セイザよりも声が下りてくる位置が高い。
少年が身体を起こすと、タクマがベッドの脇から少年の顔を覗き込んだ。
「すまない、セイザは急な用事で少し出かけているんだ。あいつが戻って来るまで、俺と君は、ここで留守番だ」
少年はタクマの声がするほうに視線を向けた。明るい中で、ぼんやりと見える人影。そうして少年は気づく。タクマの中にも、セイザと同じような光がある。この光は、手放してはならないものだ。だから少年はタクマに向かって手を伸ばした。
「ん? なんだ?」
力強い大きな手が少年の手を握り返す。それだけで彼はひどくほっとした。
少年は気づいていなかった。そのとき彼が、出会ってからはじめて笑顔を見せたことに。そうしてそれを目にしたタクマが、思わず目を見張ったことに。
「……まだ朝だ。少し遅いが何か食べよう」
タクマは、おどろきと胸にこみ上げた何ともいえぬ感情を隠すように息を吐き、少年の頭を撫でながらそう言った。
昨日の様子を見る限り、少年はスプーンなどのカトラリー類を上手く使えないようだった。目が見えないことに加え、あまり教えてもらってもいないのだろう。そこでタクマは、宿の者に言ってパンとスープを部屋に持って来させた。
パンにはハムなどの食材が挟んであり、手でも食べられる。スープは細かく刻んだ野菜をじっくりと煮込んだもので、スープ皿ではなく椀に入れられている。スプーンを使わなくても飲めるようにするためだった。
「さあ食事だ」
食べ始める前、タクマは少年の後ろに立った。そして少年の手を取り、飲み物が入ったグラスやパン、椀に触れさせた。
「これがコップ。牛乳が入っている。それからこっちの皿にはパンがある。ハムとかがはさんであるから、きっと美味しいぞ。あと、こっちはスープだ。椀ごと持ち上げてそのまま飲むといい」
そうやってテーブル上の配置を教えてやると、少年は自ら手を動かして食事を食べ始めた。少年が、慌てたようにガツガツと食べる様子を見ながらタクマは思った。きっと長い間、ろくなものを食べていなかったのだろう。手も足も枯れ枝のように細く、顔色もあまりよくはない。毎食、ちゃんと食べられることが分かって、落ち着いて食事ができるようになってきたら、少しずつでも作法を教える必要がありそうだ。
少年の口元から、ハムのかけらがテーブルの上にポトリと落ちる。
「落としたぞ……」
声をかけると少年はビクリと動きを止めた。
「大丈夫だ、怒ったりはしない」
タクマは手を伸ばして、落ちたハムを拾い上げる。そうしてそれを少年の口元に触れさせると、少年はおずおずとそれを口に入れた。
「美味いか?」
よく分からないという顔をする少年。きっとまだ、食べ物を味わうとかそういう気持ちにはなれないのだろう。タクマはため息をつきながら少年の頭をなでた。
そうしてタクマは思う。昨日風呂に入れたから、汚れだけは落ちているが、髪の毛もボサボサだし、爪もボロボロだ。額や手足に残るアザも痛々しい。今はセイザの半袖シャツをまるでワンピースのように着ているが、子ども用の衣類も買ってやらなければ、宿屋から出すことすらままならないだろう。服はセイザが帰ってきてから、どちらかが買いに行くにしても、できそうなことはやっておいたほうがよさそうだ。
「ただいま。今、戻ったよ」
昼を少し過ぎる頃、セイザが部屋に戻ってくると、少年は肘掛け椅子に座るタクマの膝の上にいた。どうやらタクマが爪を整えてやっているらしい。
音でセイザが入ってきたのが分かったのだろう。少年がぱっとセイザのほうを振り返る。
「こら、急に動くな」
少年の身体を抱え直すタクマ。昨日はひどく怯えていた少年だったが、タクマの慣れた雰囲気が少年を安心させるのか、今日は落ち着いた様子でタクマに抱えられていた。
大柄なタクマの膝の上にいると、少年は本当に小さく見える。7歳だと言っていたが、セイザの記憶には、こんなに小さな7歳の子どもはいなかった。
「すっかり仲良くなったみたいだな」
見れば、少年のボサボサだった髪の毛も整えられている。
「タクマ、髪の毛も君が?」
「ああ。チビの髪を切るのは昔からやってたからな……」
うなずくタクマ。その言葉にセイザは少しおどろいた。昨晩、ルオンを風呂に入れたときもそうだったが、タクマは子どもの面倒を見るのに、本当によく慣れている。セイザがとまどっているうちに、さっさと用意をして世話を終えてしまう。しかも目が見えぬ少年のために、これから何をするのかをきちんと口にしてから手を動かしていた。
タクマに髪を切られ、伸びっぱなしの毛に隠れていた少年の顔がよく見えるようになっている。それに加え、痛んでいた毛先が切り落とされたためだろう、顔まわりがほんのりと明るく見えるようだった。
「よく似合っている」
セイザが少年の頭をなでると、少年はよく分からぬというように首をかしげる。そんな彼の様子に、セイザは彼には見えぬと分かっていてもほほえみを浮かべた。その笑顔は、社交界において貴婦人たちからは大層人気があるものだったが、あいにくと今は、それに心をうばわれるものは、ここにはいなかった。