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第10話

 神殿に行くと言われて、彼はぞっとした。魂の記憶では、神殿にいい思い出はひとつもなかった。神への信仰と奉仕という絶対的な理屈の元に、ありとあらゆる人間的な温度が排除された、冷たく厳しい空間。

 だがセイザの声もタクマの声も少しも緊張した様子はない。むしろタクマは神殿に入ると、くつろいだような様子さえ見せた。神殿の空気も、昔のように張り詰めた感じはなかった。決して大きな声ではないが、神官たちが談笑する声すら聞こえてくるし、叱りつけるような口調で話す者もいない。

 引き合わされた神官の声も、大神官とよばれている男の声も、彼がかつて神殿で生活していたときの神官たちのような冷たい感じはしない。昔は禁止されていた香りのいいお茶や、焼き菓子まで出てきた。神殿の中の人間ではなく、お客さまだから、このように扱われるのだろうか。魂の記憶にあるものとは、あまりにも雰囲気が違ったが、それでもやはりここが神殿だというのは、彼にとっては恐怖だった。少しでも安心したくてタクマにしがみついていると、大神官が言った。

「彼の中には祝福の光が存在します」

 その言葉に彼はギクリとした。

 魂の記憶を取り戻したときから、彼は自分のなかにかつてのような神聖力があるのに気づいていた。大神官が言う祝福の光とは、きっと神聖力のことだ。また昔のように神殿に入れられ、厳しい暮らしをさせられるのだろうか。

 しかし大神官は続けて言った。

「その子は、お二人と共にあるべき存在です。どうかお手元に置かれますよう」

 彼はセイザたちと引き離されなかったことに、何よりも安心した。

 そしてセイザは彼にたずねた。

「静かに暮らすか、私たちと一緒に来るか」

 本音をいえば怖かった。セイザたちは勇者として戦いに赴くこともあるという。魂が覚えている、戦場の記憶がよみがえる。途切れぬ負傷兵と、満ちあふれる苦悶の声。またあのような場面に直面したらと思うと、恐ろしくてたまらなくなる。けれどもそれ以上に、セイザたちと離れるのはイヤだった。そばにいたい。それにもしもセイザたちが戦場で苦しい思いをするのなら、その苦しさを共に感じたいと思った。

 神殿でも、養子先でもなく、セイザたちのそばにいたい。

 彼はセイザとタクマの光に手を伸ばした。


 その後、セイザたちは何やら難しい話をしはじめた。話の内容が全て分かったわけではないが王宮や神殿との間で色々な駆け引きがあることくらいは分かった。セイザと話す大神官の声は穏やかで、昔の大神官のような冷たく威圧的な感じはしない。その上、お菓子を食べるどころか、タクマと食べさせ合いっこなどをしても、大神官は怒るどころか、穏やかに彼らを見守るだけだった。

 彼の魂が以前に神殿で暮らしていた頃から何年経ったのか、正確なところはわからなかったが、ずいぶんと変わったのかもしれないと思った。



「ところで、彼のお名前は何というのでしょう?」

 一通り話し合いが終わった頃、大神官がセイザにたずねた。セイザは静かに首を振る。少年はセイザの困ったような気配を感じてはいたが、実際のところ少年自身にも自分の名前がよく分からなかったのだ。うんと小さい頃には名前をよばれていたような気もするが、いつのまにか「おい」とか「そこのゴミ」みたいな言い方をされるようになって、名前をよばれることはなくなってしまった。それで自分の名前も分からなくなってしまったのだ。とはいえ声も出ないこの身では、そんな事情を伝えられるわけもない。だから名前に関する質問には、困ったように首をかしげるしかできなかったのである。

 少年が、これまでに名を聞かれたときと同じように首をかしげていると、大神官が言った。

「それでは、ここで名を授けてしまうというのはどうでしょう?」

 この国では、子どもの名前を決めるときに神殿で神官から名を授かる者も多い。名前がないまま孤児院に預けられた子もみな神殿で名前をもらう。祈りを捧げて名を授かり、その子の幸せを神に願うのである。

 セイザは少年にたずねた。

「私たちは、君の名前を呼ぶことができない。……もし君さえイヤでなければ、君に新しい名前をつけてあげたいのだが、どうだろう?」

 少年が、ぱっと顔を上げる。その顔には、明らかな喜びの色が浮かんでいた。少年の頬についた焼き菓子の欠片を取りながらセイザは言う。

「では、そうしよう」

 少年がこくこくとうなずいた。


 ちょうど聖堂も空いている時間だというので、三人は大神官と共に神殿の大聖堂に向かった。祭壇に火を灯し、祈りを捧げた大神官が、タクマに抱かれた少年の額に手をかざす。すると少年は、まるで何かを眩しがるような表情で目を閉じた。大神官は少しおどろいた顔をしたが、すぐに平静を取り戻し、おごそかに告げる。

「ルオン……これがあなたの名前です」

 おそるおそる目を開く少年。

「ルオン」

 セイザが呼ぶと、少年は頬を赤らめながらうなずいた。

「ルオン」

 タクマが呼ぶと、少年は、タクマにつかまる手にぎゅっと力をこめる。

 少年の名前はルオンになった。

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