王宮にあるセイザの部屋に戻り、昼食も済ませた昼下がりのことである。ルオンは床に座って膝のうえにクマのぬいぐるみを抱え、毬を床にバウンドさせて遊んでいた。すると不意に部屋を訪ねてきた者があった。
扉が外からノックされたかと思うと、セイザの返事も待たずに扉が開いて誰かが入ってくる。青みがかった黒髪と、セイザによく似た濃紺の瞳を持った青年だった。
「邪魔するぞ」
入ってきた人物を見たセイザの眉が寄る。しかし彼は訪問者に対してていねいに頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました。ミハイル殿下」
そして扉が完全に閉まったのを確認すると顔を上げ、にやっと笑いながら言う。
「邪魔するならお帰りください」
その言葉にミハイルがははっと笑った。
「お前たちが子どもを連れ帰ってきたと聞いてな。どんな子なのか見に来たんだが……」
セイザはそんなことを言うミハイルの肩をあわてておさえた。
「ちょっとまってくれ、ミハイル」
そうしてセイザはルオンの方をちらりと見た。セイザの予想通り、ルオンは完全に固まってしまっている。手から転がり落ちた毬を拾うこともせず、引きつった顔でこちらの様子をうかがっていた。
「ルオンはその……少し人見知りなんだ」
ミハイルも、ルオンの顔に浮かぶ恐怖に気づいたのだろう。さすがに少し驚いた顔をして静かになった。
「まずはそこに座ってくれ。ちゃんと紹介はするから」
セイザは部屋のソファを指してミハイルにそう言うと、ルオンに近づき、その身体を抱きあげた。ルオンがセイザにしがみつき、セイザの胸に顔を伏せる。セイザは転がったままになっていた毬も拾ってやった。しかしルオンはぬいぐるみとセイザをぎゅっと抱えていて、毬は持てそうにない。仕方がないので、セイザはそれを窓際のクッションの上に置く。それからルオンの背中をなでて言った。
「驚かせてすまない、彼は私の従兄弟で友人だ。少し騒がしいが悪いヤツではない」
ミハイルは何かを言いたそうな顔をしたが、ここで声を出せばまたルオンを怯えさせると察したのだろう、黙って二人の様子を見守っている。
「君に会いたくて押しかけてきたそうだ。君にとっても、きっといい友人になるはずだ。君を紹介してもいいかい?」
セイザが言うとルオンは小さくうなずいた。
セイザはルオンを抱いたまま、ミハイルの向かいのソファに座った。
「落ち着いて色々準備をしてから、ちゃんと紹介をするつもりだったというのに、まったく……」
ぶつぶつと文句を言うセイザ。
「すまない」
ミハイルは素直に謝罪の言葉を口にした。このほんの短い時間でも、セイザの少年に対する態度から、少年がいわゆるふつうの子どもとは異なる事情を抱えているのは十分に察せられた。セイザの「準備をしたかった」という言葉は、本当なのだろう。
セイザがルオンの顔を覗き込んでたずねる。
「何か食べるかい? 菓子でも持ってこさせようか?」
しかしルオンは首を振った。今日は神殿といい、ミハイルの訪問といい、ルオンのこんな姿ばかり見ている気がする。とはいえ、いくら仲がいいとはいえ、ミハイルを追い返すわけにもいかない。ならばさっさと紹介を済ませてミハイルを帰らせたほうがいいだろう。ため息を一つついて、セイザはミハイルに向き直る。
「この子はルオンだ。……私たちに会う前に色々あったらしくて、少し人見知りをする」
それからセイザはルオンに言った。
「ルオン、彼にあいさつできるかい?」
「……」
ルオンが顔を上げて、ミハイルがいるあたりに目を向ける。そうしてルオンは小さく頭を下げた。
「うん、よくできたな」
ルオンの頭をなでるセイザ。その様子にミハイルは首をかしげる。
セイザは礼儀正しい男だ。従兄弟であり幼馴染という関係から、二人きりのときには、さっきのようにふざけた態度も取るし文句も言う。しかし、ふだんのセイザであれば今のようなルオンの態度を見れば必ずたしなめるだろう。人に抱かれたまま、軽く頭を下げるだけなどというのは、幼児ですら叱られるような行いだ。ましてやそれを目上の者、しかもミハイルに対してするのは、厳しく罰されかねないことである。それなのにセイザは、ルオンという少年に対し、叱るどころか褒めさえした。これは何か、よほどの事情がありそうだ。
じっと見つめるミハイルに対し、セイザが小さくうなずく。その視線は事情は後で話すと訴えていた。セイザにうなずきを返し、ミハイルはルオンの顔を覗き込んだ。
「ルオンか。俺はミハイルだ。そこのセイザの従兄弟で……お互いに悪ガキだったころからの友人だ。よろしくたのむ」
ルオンが小さくうなずく。そのときミハイルは、不意にルオンの顔をどこかで見たことがあったように感じた。だがすぐには思い出せない。
そうこうしているうちに、セイザが言う。
「さあ、これで紹介は済んだだろう」
その声は明らかに「さっさと帰れ」と言っていた。やれやれとため息をついてミハイルが立ち上がったときだ。外から部屋の扉がノックされた。
「失礼いたします。こちらに皇太子殿下はおいででしょうか?」
ミハイルの従僕の声だった。
その瞬間、ルオンの身体がギクリと強ばった。セイザはそれをいつもと同じ、他人への警戒なのだと思った。だとすれば、むしろ従僕とルオンを対面させないほうがいいだろう。そう考えてセイザはルオンをソファに座らせ「ちょっと待っていてくれ」と声をかけてから、扉を開けに行った。開けられた扉の向こうで、従僕がミハイルを見つけてほっとした顔をする。扉を出ていくミハイルとセイザの目が合った。うなずくセイザ。
「あとで私の部屋に来てくれ」
ミハイルが言うと、セイザは「かしこまりました」と頭を下げる。セイザはそのまま、扉の外に出てミハイルを見送った。
ミハイルが廊下の角を曲がり、その姿が見えなくなると、セイザは部屋の扉を開けた。
「すまない、おどろかせたな」
中にいるであろうルオンに声をかけながら部屋に戻るセイザ。しかしセイザの目に飛び込んできたのは、ソファの足元に倒れこんだルオンの姿だった。
「……ルオン!」
あわてて駆け寄り、その小さな身体を抱き起こす。
「ルオン、大丈夫か?」
しかし、ルオンは青白い顔でぐったりと目を閉じたままだ。セイザはルオンの口元に耳を寄せる。呼吸はしている。そのことに少しだけ安心したが、ルオンが倒れた理由も、ルオンの体調も分からないままだ。セイザはルオンをベッドに寝かせると、大急ぎで医師を呼びに行った。