医師の診断は重めの貧血とのことだった。
「よく休ませて、よく食べさせてやってください」
医師に言われて、セイザはうなずく。出会ってからはきちんと食事をさせてはいるものの、ガリガリに痩せた身体は、まだまだ栄養が足りていないのだろう。医師を見送り、セイザがルオンが眠るベッドの側に座っていると、タクマが戻ってきた。
「今そこで医師とすれ違ったが、何かあったのか?」
寝かされた、意識のないルオンを見てギョッとした顔をするタクマ。セイザは膝の上で手を握りしめながら言った。
「すまない、私がうかつだった」
「そんなに思い詰めるな」
タクマは、一通り話を聞くと、茶が入ったカップをセイザに差し出しながら言う。
「ミハイル殿下がこちらにいらしたのは、お前のせいじゃないし、ミハイル殿下だって悪意があったわけではない」
そうしてタクマはため息をついた。
「神殿にいる間も、ずっと緊張していたからな」
タクマに視線でうながされ、セイザは茶を口に運ぶ。温かく、いい香りのするお茶が、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。
ルオンがどれくらいの間、人買いのところにいたのかは分からない。けれども人買いに買われてから今まで、状況はめまぐるしく変わり続けたはずだ。ルオンにとっては、心から落ち着ける時間など、きっとほとんどなかったのだろう。
「医師だって、ただの貧血だって言ってたんだろう? これからは少し休めるはずだし、食事だって十分に与えてやれる。心配しすぎると、かえってルオンが不安になる」
タクマに言われ、セイザはうなずいた。
それから少ししてルオンは目を覚ました。しかし、すっかりおびえてしまっていて、遊ぶことはおろか、食事ですら口をつけようとしなかった。
さらに、ルオンは夜になると高い熱を出してしまった。セイザはルオンに薬を飲ませ、寝かしつけようとした。しかしルオンは、ウトウトしはじめたかと思うと、すぐにうなされ、目を覚ましてしまう。それを何度か繰り返し、ついにルオンは起き上がって、寝るのはイヤだというように大粒の涙をこぼしながら首を振るようになってしまった。そんな様子にセイザもさすがに困り果ててしまう。
「大丈夫か?」
ちょうどそのとき、用事でしばらく部屋を出ていたタクマが戻ってきた。タクマは二人の様子を見て目を丸くする。タクマはセイザから話を聞くと、ルオンの髪をくしゃくしゃとなでた。
「怖い夢を見るから寝たくないのか?」
タクマに聞かれ、ルオンはうなずく。
「そっかそっか……」
そうしてタクマはポイポイと靴をぬぐと、当たり前のような顔でルオンのベッドに上がり込んだ。枕元に置いてあったぬいぐるみをルオンに持たせると、ルオンを抱え、ルいっしょにゴロリと横になる。
「調子が悪いときは、ヘンな夢を見やすいもんなんだ。俺も熱があるときに、目の前の人間が大きくなったり小さくなったりする夢を見たことがある」
毛布を引き上げ、ルオンと一緒に毛布に包まるタクマ。
「寝ようとしなくていいから。俺といっしょに、こうしていよう。それならいいだろう?」
ルオンはぎゅっとタクマにしがみつき、小さくうなずいた。
「ん、いい子だ」
タクマはルオンの背中をとんとんとやさしく叩きながら、穏やかな声で話を続けた。小さいときに好きだった食べ物、出かけた先で大雨に降られた話、よく聞く童話。
しばらくするとルオンの瞳がゆっくりと閉じていき、やがてすうすうと寝息を立て始める。
ほっとすると同時におどろいた顔をするセイザに、タクマはルオンの背中をなでながら言った。
「貴族だと、こういうのはあんまりしないか? 庶民とか孤児院ではよくやる方法だ」
タクマが言うとおり、貴族は親子であっても、基本的に同じベッドで眠る習慣はない。具合が悪いときには、ベッドの横に座って手を握っていてくれたりはするし、それはそれで十分な愛情だったと認識している。しかしセイザには、いっしょに寝てしまうという発想はさすがに出てこなかった。
タクマは言う。
「孤児院は、どうしても不安を抱える子も多いからな」
物心つく前に孤児院に預けられる子もいるが、事故や病気など、両親や家族との別れを経験している子も少なくない。そのため、嵐の夜や病気になったときなどに、不安から眠れなくなってしまう子どもも、それなりにいる。そんなときに、大人や面倒見のいい年上の子どもが一緒に寝てやるのは、別に珍しいことではなかったのだ。
「君にもそんな夜があったのか?」
セイザがそう聞くと、タクマは口の端で笑った。
「思い返せば黒歴史だ。顔から火が出る」
それでもタクマは今、こうやって笑って話し、その時に受けた優しさを次に手渡している。セイザはタクマのそんな姿を改めて尊いと思う。
「俺は今夜はこのまま、ここで寝るよ」
ルオンの背中をなでながら、少し眠気が混じる声でタクマが言う。セイザはうなずいた。
「わかった。何かあったら呼んでくれ……おやすみ」
「ん。おやすみ」
◆
「皇太子殿下」
その呼びかけに、ミハイルが応えた。セイザに「殿下」と呼ばれていたから、ルオンもミハイルが王族なのだろうとは思っていた。しかしまさか皇太子だとは思っていなかったのだ。ルオンはミハイルの突然の訪問にもおどろいたが、何よりもミハイルが自分に興味を持っているらしいことに恐怖を覚えた。なぜなら、これまでルオンに興味を持つものは、ルオンをいじめようとする者ばかりだったからだ。その上、それが皇太子だったとは。
魂の記憶がよみがえる。
重傷を負って運ばれてきた皇太子。必死に治癒を行ったけれども、力尽きて途中で気を失ってしまったこと。意識を取り戻したときには皇太子はすでに命が果てていたこと。そうして皇太子殺しの罪人にされたこと。首を跳ねられる瞬間のヒヤリとした金属の感触。
身体の記憶と魂の記憶。両方の恐怖が身体の中で激しく渦巻いて、息が詰まる感じがした。頭がグラグラと揺れて、座っていることさえ難しくなる。セイザはミハイルを見送るために離れていってしまった。助けを求めることもできないまま、ルオンは床に倒れ、意識を失った。
目が覚めても恐怖は抜けていかなかった。身体がぞわぞわとして、震えが止まらない。セイザとタクマが「熱がある」と言っていたが、そんなものはどうでもよかった。眠りそうになるたびに、悪夢が追いかけてくる。憎しみをぶつけてくる両親が、傷つけようと迫ってくる村人が、治癒しても治癒しても尽きない血塗れの兵士が、罪人だと自分をののしる声が、繰り返し波のように押し寄せてきておぼれそうになる。セイザが何度もやさしく声をかけてくれたけれど、そうすると今度は涙が止まらなくなってしまった。そして、そのことに、さらに怖くなる。彼の両親は、彼が泣くとよけいに怒って暴力を振ったし、魂の記憶でも神殿では泣くのを禁じられていたからだ。
「そっかそっか……」
セイザから事情を聞いたタクマの声は、なんだか少し諦めるような音を含んでいて、ルオンは見捨てられてしまうのかと思った。だけどタクマはルオンを抱いて、やわらかな毛布で身体を包み、静かに話をしてくれた。どうでもいいような話、けれども目が見えないルオンにも想像しやすそうな話。タクマの穏やかな声に耳を傾けているうちに、ルオンは自分の中の恐怖が少しずつ薄れていくのを感じた。
両親も村人も、ここにはいない。もしもいたとしても、きっとセイザとタクマが守ってくれるだろう。冷たくて厳しかった神殿も、自分の力不足で死なせてしまった皇太子も過去のもの。今の大神官は穏やかそうな人だったし、今の皇太子はセイザと仲がよさそうだった。
タクマの手が背中にある。タクマの力強い鼓動が聞こえる。セイザもすぐそばにいる。その全てが「大丈夫だ」と言ってくれているようだった。ぞわぞわした感じが少しずつおさまってきて、ルオンはいつの間にか眠りの中に落ちていった。