ソフィアは成人してから今まで、家庭教師や乳母として、さまざまな家の子どもたちをみてきた。ソフィアがみてきた子どもの中には、ミハイルのような要人の子もいたし、病弱で癇が強く両親が困っていた子、大人の前だと急に態度が変わる子など、色々な子がいた。ルオンのように厳しい環境で育ち、肉体的にも困難を抱えた子どもはさすがにはじめてだったが、それでも、長い間子どもをみてきた経験と、積み上げてきた知識は伊達ではない。ルオンがソフィアを怖がらなくなるまで、それほどの時間はかからなかった。三日もすると、ルオンはセイザやタクマがいなくても、ソフィアと共に一日を過ごせるようになった。
ルオンがソフィアに慣れてくると、ソフィアはルオンに自分のことはできるかぎり自分でやらせるようにした。着替えや身支度はもちろん、ベッドメイキングや食器を並べることもさせた。どうせ時間はあるのだ。すぐにはできなくても、のんびりと待った。散歩や遊びなどに誘うときには、できるだけ選択肢を用意し、ルオンに選ばせた。
ソフィアがルオンの右手に触れて言う。
「おうちの探検と……」
それから左手に触れる。
「おもちゃで遊ぶ」
手を離してソフィアは問う。
「どちらにしましょうか?」
ルオンは少し考えて右手を上げた。
「探検ですね」
ソフィアはルオンと手をつないで部屋を出る。だが手を引いていくことはしない。
「どちらに行きましょうね?」
ルオンがとまどっていると、ソフィアは言う。
「ルオン様の行きたい方向に進みましょう」
そうしてソフィアは、ルオンがソフィアの手を引いて自分で歩き出すまで待つ。階段や段差があるときには声をかけるが、ルオンがそちらに進むのを止めはしない。
「ここは物置ですよ。入ってみますか?」
「こちらは使用人用の通路ですね、入っていっても大丈夫ですよ」
「あら、ここは私のお部屋です。ここも探検されますか?」
そんな具合に、とにかくルオンが自分で行動するようにさせた。
さらにソフィアはルオンに「お手伝い」もさせた。洗濯物を畳ませたり、台の上を拭かせたり、荷物を運ばせたり。もちろんどれも長くはかからないものだし、ルオンでもできるような、かんたんなものばかりだ。お手伝いはルオンに身体を動かさせる理由にもなったし、使用人たちとふれ合い、なれていくきっかけになった。
夕方、仕事に出ていたセイザがパルウム宮に戻ってくる。図書室でソフィアに本を読んでもらっていたルオンが、ぱっと顔を上げ、図書室から顔を出した。
「ただいま。元気に過ごしてたか?」
セイザがルオンを抱き上げる。そしてソファに腰掛けると、ポケットから紙の包みを取り出した。セイザが手の上でそれを開くと、美しい花の形をした干菓子が出てくる。
「父上のところに来ていた外国の客が持ってきたお菓子だ。きれいだったから、ちょっともらってきた」
ルオンの手に干菓子を持たせるセイザ。触ってごらんとうながされ、ルオンが指先で菓子の形を確かめる。
「お花の形をしていますね。……何のお花でしょう?」
横から見ていたソフィアが聞く。
「ハスというらしい。水の上に咲く花らしいが、私も見たことはない」
答えるセイザ。それからセイザはルオンに向かって言う。
「菓子だから、食べてごらん」
ルオンはほんの少し何かを考えるような顔をしてから、それをパクリと口に入れた。ルオンの目が丸くなる。口の中であっという間に崩れていく、ほんのりと甘い食感に驚いたのだ。
「美味しいか?」
セイザに問われて、ルオンはこくこくとうなずいた。
パルウム宮に引っ越してから二週間ほどたった頃だ。セイザとタクマが王宮での仕事を終えて戻ってくると、ソフィアは二人をティータイムに誘った。食堂にティーセットが乗ったワゴンが運ばれてくると、ソフィアはルオンの手を引いて立ち上がらせる。
「さあ、お茶の準備を手伝ってくださいますか?」
手探りではあったし、少しばかり位置がずれるものもあったが、ルオンはセイザたちの前に皿やカップをきちんと並べ、さらには焼き菓子をトングで皿に乗せることさえした。貴族として育ったセイザから見ると、乳母が子どもにそれをやらせるとは驚くべきことである。しかし子どもに慣れているタクマは、ルオンの頭をぐりぐりとなでて言った。
「上手いじゃないか。ありがとう」
ルオンは、頬を赤くして、照れたようにほほえむ。
「お二人がお仕事に行かれている間に、練習したのですよ」
誇らしげに言うソフィア。セイザも同じようにルオンを褒めると、ルオンは今まで見たことがないような、うれしそうな顔をした。
それからソフィアも含めて四人で茶を飲んでいると、不意にルオンがゆるく握った両手を胸の前で打ち合わせるような仕草をした。
「あら、おかわりですね?」
ソフィアに言われてうなずくルオン。
「おかしとお茶、どちらですか?」
ルオンの皿にはまだ菓子は残っており、逆にカップは空になっている。しかしソフィアはそう聞いた。するとルオンはコップを持って水を飲むような仕草をする。
「わかりました。お茶ですね」
ソフィアが立ち上がってルオンのカップに茶を注ぐ。今度はルオンは、胸の前で両手を合わせた。
「どういたしまして」
一連の様子を見ていたセイザとタクマは驚く。
「手が言葉の代わりになっているのか?」
セイザが問うと、ソフィアがうなずいた。
「少しずつ増やしていきますから、お二人も覚えてくださいね」
ルオンが寝入った後、報告を求めたセイザに対し、ソフィアは言う。
「私が思うに、ルオン様の『人見知り』の原因の一つは、自信のなさです。目が見えないから、声が出せないから、自分には何もできないと思いこんでいらっしゃるのでしょう。ご自身でできることや、人に感謝されることが増え、ご自身の意志を表せるようになれば、きっとお変わりになられるはずです」
ルオンを怯えさせているのは、過去に酷く扱われたのが主な原因ではある。しかしソフィアが言うとおりでもあった。目が見えなくても、少しだけ時間をかけたり、ていねいに教えたり、あるいは少しだけの工夫をすれば、できるようになることも多い。けれどもルオンの両親は、そういった配慮を一切しなかった。何も教えず、工夫もせず「ほれ見ろ、何もできないじゃないか」とあざ笑い、ごくつぶしだのゴミだのと罵ってきたのである。
自分でもできた、人の役に立てたという経験は、ソフィアが狙ったとおり、乾いてひび割れた地面にやわらかく雨が降るように、ルオンの心に少しずつ力を与えていた。