ソフィアはそれらの取り組みとあわせて、少しずつではあるもののルオンに作法やマナーも教えはじめた。もちろん全てをお手本通りに行えるわけではない。リタースが公式の場でどのように振る舞っていたかを参考にしたり、ルオンに合わせて考えることも多かった。
一方でソフィアは、あいさつなどの対人マナーは後回しにした。それらを教えるためには、まずルオンが人に怯えなくなる必要があると考えたからだ。その代わりにソフィアは、ルオンにミハイルやセイザの子どものころの話を聞かせたり、ルオンの前で使用人と楽しげに言葉を交わしたりした。そうやって、周りの人々が恐ろしい人ではないことを伝えようとした。
ソフィアやセイザたちの予想に反し、ルオンはあっという間に作法を身につけていった。彼らは知らないことだったが、ルオンには魂の記憶がある。神殿は作法にも厳しかったため、すぐに思い出せたのだ。これまでは身体の記憶に引っ張られて、作法を意識することもなかったが、やろうと思ってみれば、自然とできる。もちろんルオンの魂が記憶している作法と今の作法には違いもあったし、うまくできないこともあった。かつての神殿では作法を間違えると罰がまっていたが、ソフィアはルオンが作法を間違えても、少しも怒らない。だからルオンは安心して行動することができた。
作法を意識し、行動を落ち着かせてみると、不思議と気持ちも落ち着くようになった。ルオンには他の者の仕草は見えない。そのため気づいていなかったが、ルオンの魂の記憶にある作法は古く、今の者から見ると、とてもていねいで品がある仕草に見えたのだ。そんな事情もあり、作法が身についてくると、ルオンの立ち居振る舞いは、目に見えて落ち着くようになった。
しかしある夜、みなで夕食を食べていると、不意にセイザがソフィアに向かって言った。
「作法を教えるペースが、少し早すぎるんじゃないか?」
「……そう、でしょうか?」
首をかしげるソフィア。タクマも少しおどろいてセイザを見る。タクマの目から見て、ソフィアがルオンに無理に作法を教えているようには見えない。むしろルオンが身につけるペースが早すぎて、ソフィアの準備が追いつかないように見えるくらいだ。ソフィアがとまどっている気配を感じたのだろう、ルオンがソフィアの袖口をつかんだ。そんなルオンの様子に、セイザがはっとした顔をする。
「すまない。ルオンやソフィアが悪いという意味ではないんだ」
こめかみを揉み、少し考えながらセイザは言う。
「ただ、そんなに急いで成長しようとしなくていい。ゆっくりでいいと……そう言いたかったんだが……」
歯切れの悪いセイザの言葉。ルオンが小さく肩を落とした。
その夜、タクマはセイザの部屋を訪れて言った。
「ああいう言い方は……ルオンにはかわいそうなんじゃないか?」
「……あぁ……ちょっと。まずかったと思っている。ソフィアにも悪いことをした」
頭を抱えるセイザ。ただの失言ではなさそうな雰囲気を感じ、タクマはセイザの部屋のソファに腰を下ろした。
「なんか理由があるのか?」
セイザがはーっと息を吐き出す。そうして己の髪をクシャクシャとかき混ぜてから言った。
「ルオンが祝福であることは、しばらくは内密にしておくことにはなっている」
「ああ」
うなずくタクマ。セイザは声を落として続ける。
「ただ、私個人としては、その期間をできるだけ長くしてやりたいと思っている。できれば、いつかルオンが自分に課せられた使命の意味をきちんと理解できるようになるまで」
「……」
タクマは軽く眉を上げた。
ルオンを最初に神殿に連れて行ったとき、セイザはルオンに自分たちと一緒に来るかどうかを聞いた。タクマとしては、あの状態でルオンにそれを聞いても、それがルオンの心からの選択とはいえないと思っていた。だからセイザを止めようとしたのだが、セイザはセイザなりにタクマと同じように考えていてくれていたようだ。
セイザが続ける。
「今はまだ、ルオンの『人見知り』を理由に、公表を避けられているが……。それがなくなれば、伏せる理由もなくなってしまう」
「……公表されちまったら、もうルオンは使命から逃げられない、か」
タクマはうなずいた。とはいえ、せっかく成長しようとしているルオンを押しとどめるのも違う。
「……どうしたものか」
セイザが頭を抱えてうめく。だがタクマはそんなセイザの姿に、少しほっとしてもいた。そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。セイザがムッとした顔でタクマを睨むから、タクマはあわてて言った。
「いや。セイザは本当にいいヤツだなって思ってただけだ」
孤児院育ちなタクマとは違い、セイザは大公家の長男である。セイザが正義感が強く、優しい人間であることは、引き合わされた直後から感じてはいた。それに、セイザがタクマに「勇者として共に戦う仲間なのに遠慮されては困る」と言うし、タクマのことを同じ立場として扱ってくれるから、タクマもセイザに対して構えることなく接してはいる。それでも歴然としている身分の差や、いかにも貴族らしい育ちのセイザに対し、どこか遠い存在であるような気持ちを完全に消すのは難しかった。しかしセイザのルオンに対する態度を通し、タクマの中ではセイザに対する距離は少しずつ埋まり、代わりに信頼のようなものが生まれつつあった。
タクマに言われたセイザが唇をゆがめる。
「褒められても、何の解決にもならないな……」
その言い方に、タクマは思わず笑ってしまった。
「状況は変えられなくても、セイザがそう思っていることは、ルオンの救いになるはずだ」
彼らは気づいていなかった。となりの部屋のルオンが、まだ寝入っていなかったことに。もうベッドの中には入っていたのだが、何か心の中がザワザワして眠れなかったのである。夕食時にセイザが口にしたことも気になっていたが、それ以上に、遠くから誰かに呼ばれているような気持ちがするのだ。それで、毛布に包まれたまま寝返りばかり打っていたのである。セイザたちが話す声は決して大きくはなく、ふつうならば、となりの部屋まで声が聞こえるものではない。
だがルオンの聴力は、他の者たちよりもするどい。
ルオンは彼らの会話を全て聞いていた。そうしてルオンなりに考え、あることを心に決めていた。