事態が動いたのは三日後だった。大神官とミハイルが、ルオンに会うためにパルウム宮にやってきたのである。とはいえルオンはあの後に高い熱を出して寝込み、やっと起き上がれるようになったところだ。応接室でソフィアからルオンが寝込んでいることと、その直前の話を聞かされた大神官とミハイルは顔を見合わせたが、やがて大神官が言った。
「ルオン様と少し話をさせてもらえますか? ……できれば二人だけで」
さすがにソフィアは戸惑った。パルウム宮で働く者たちはルオンの仕草の意味を理解しているが、大神官はそれを知っているわけではない。しかし大神官はソフィアの戸惑いを別のものと考えたようだ。
「ルオン様が少しでも嫌がるようであれば、無理にとは言いません」
セイザとタクマに連れて来られたころ、ルオンは他人を怖がっていた。中でも特にひどく怖がったのが、ここにいる大神官とミハイルである。ソフィアはしばらく考えて言った。
「かしこまりました。ルオン様におうかがいして参ります」
ルオンはセイザの部屋の、セイザのベッドの上で大神官を迎えた。ルオンは知らぬことであったが、ソフィアはパルウム宮において、ルオンが本当に心を許している者しかルオンの部屋に入れなかった。それはルオンの部屋をルオンにとっての心理的に安全な空間にするためだった。この部屋の中にいるかぎり、誰にも傷つけられることはない。そういう漠然とした感覚がルオンには必要だったのだ。その場所を守るためには、ルオンの部屋に客を入れるのはふさわしくない。そこで一時的にセイザの部屋とベッドを借りることにしたのである。
「何かありましたら、ベルを鳴らしてお呼びください。すぐに参ります」
セイザのベッドの上で、クッションに背中を預けて座ったルオンにそう言い置いて、ソフィアは部屋を出て行った。
「……」
ルオンは少しばかり落ち着かない様子で大神官の方をうかがう。大神官に対する恐怖心はもうなくなっていたが、それでも一対一で対面するのは初めてだ。どうしようかと考えていたら、大神官が言った。
「三日前、お倒れになったと聞きました。お身体は大丈夫ですか?」
「……」
うなずくルオン。大神官が続ける。
「実は三日前、私は神託を受けたのです。勇者の助けを求める者が東にいると。ミハイル殿下にもお伝えし、今日はその話をするためにうかがったのです」
セイザたちがルオンと出会ったときも、セイザたちは大神官からの言葉を受けて出かけていたらしい。バイナと出会ったときも、大神官の言葉がきっかけだった。つまり今回も何か、そういう話なのだろう。ルオンがそんなことを考えていると、大神官がたずねた。
「……お倒れになったとき、何かを感じませんでしたか?」
「……」
ルオンの瞳がゆれる。しばらくの間を空け、ルオンはゆっくりとうなずいた。ルオンの耳に、大神官がふうと息をつく音が聞こえる。それから大神官は、話をはじめた。神託といっても、いわゆる「神の声」が聞こえるのではないこと、予知夢や白昼夢のようなぼんやりとしたイメージで降りてくることが多いこと。セイザたちに言葉を伝える際にはその内容を分析し、手がかりを元に具体的な言葉にしていること。
そうして大神官は言った。
「今回私が見たものは、黒いモヤが迫る中で何かが助けを求める光景でした」
「……」
ルオンは、はっと目を見開いた。それはルオンが見たのと、ほとんど同じものだったからだ。しかし大神官の言葉を聞くかぎり、大神官は第三者視点から見ていたのに対し、ルオンは助けを求めていた者自身の視点に近かったように思う。
考え込むルオンに大神官が言う。
「ルオン様がお感じになられたものは、神託に近いものなのかもしれません」
「……」
ルオンの手に、大神官の手が触れた。それはとても温かかった。大神官は静かに続ける。
「ルオン様のお力は、神官の力にかなり近いものです。……もし何かお困りのことがおありでしたら、おっしゃってください。できるかぎり、お力添えをいたします」
「……」
ルオンはそれを大神官の心からの言葉だと思った。きっと大神官は、ルオンがあの光景に恐怖を覚えたと分かっているのだろう。そうは言われても、ああいうものは力の使い方でそうにかなる話ではないし、何か頼みたいことがあるわけでもない。それでも、まっすぐに真心を向けてもらえるのはうれしかった。伝わらないとは分かっていたが、ルオンは胸の前で手のひらを合わせた。それは「ありがとう」の意味だった。
ルオンと大神官の話が終わると、ミハイルとソフィアもセイザの部屋に入ってきた。ミハイルは言った。
「勇者の助けが必要だと言われている場所の目星はついている。セイザたちには伝令を出して、直接そちらに向かわせる。ルオン、君もそちらに向かってほしい。もちろん体調が回復してからで構わない」
ソフィアは目を剥いたが、ルオンとしては、思っていたよりも早くセイザたちに会えそうなのが嬉しかった。行きたいという仕草をすると、ソフィアがそれを翻訳してくれた。
ミハイルが言うには、ちょうど昨日、東部にあるオーリスという村から「黒い獣が暴れている」という陳情が入ったのだという。また、山が黒いモヤに包まれて人が近づけなくもなっているらしい。その情報と大神官の神託から、大神官が見たものがオーリスの光景だと予想したのだそうだ。
「でもルオン様お一人では……」
ソフィアが言ったが、ミハイルは何でもないことのように答えた。
「ルオンは俺が連れていく。もちろんヘンリーも同行させるが」
ますますギョッとした顔になるソフィア。ルオンもさすがにおどろく。そんな二人に肩をすくめ、ミハイルは続けた。
「表向きにはお忍びの旅行で、仲良しの従兄弟とオーリスで落ち合う予定でいることにする。遊びだからな、気まぐれに子ども一人誘ってもさほど問題にはならないだろう。お忍びとはいえ俺の外出となれば、ある程度護衛がつくのも自然だしな」
翌日にはルオンの熱も下がり、出発はその二日後になった。早朝、ヘンリーにつれられミハイルに指定された場所に行ったルオンはおどろく。馬車が用意されていたからだ。
「これでも皇太子だからな。多少好き勝手やったところで、誰も怒らん」
笑うミハイル。貴族の馬車というには質素な馬車だったが、病み上がりのルオンを移動させるという意味では、非常にありがたい配慮だった。
「言い訳のために、俺もたまには馬車に乗る。ルオンには少し窮屈をさせるが、そこは我慢してくれ」
そうしてルオンはミハイルと共にオーリスに向かった。