獣はヴェルと名乗った。
「本来ならばもう少し複雑なんだが、ヒトの子らの言葉にするなら、そういう音になる」
ヴェルを連れて戻った野営地、ルオンは地面に伏せたヴェルの腹に上半身をもたせ掛けるような姿勢で、毛布に包まれて眠っている。夜が遅いことに加えて、力を使って疲れたのだろう。野営地に戻り、すりむいた手のひらと膝の手当てを受けるうち、ルオンはコクリコクリと船をこぎはじめた。それを支えるようにヴェルがルオンに寄りそい、そのまま枕になってしまった形だ。
「起きたらこの子にも……いや、この子にはもう少し詳しく教えねばならぬが」
ヴェルはそう言ってセイザとミハイルたちに、話をはじめた。
この世には四柱の精霊がいる。精霊たちは世界に暗黒が訪れる際、人々の希望をつなぎ、人々に希望を授けたといわれている。その姿は、赤い龍、金色の熊、銀色の鷲、そして青い狼。ヴェルは精霊の一体で、人間の世界の伝承では「夢を紡ぎし風」ともよばれている。かつて人の世に暗黒が訪れた際、万物を構成する要素を結び直した存在であると伝えられている。
役目を終えたヴェルは、この地の、正確に言えば今は瘴気に包まれてしまっている山の中で、長く眠りについていた。しかし最近になって眠りをジャマする者が訪れたのだ。そうして気がつけば身も心も瘴気に飲み込まれ、わずかに残った理性で魔物から逃げ惑っていたのだという。そんな折、ルオンの光に気づき、助けを求めたのだと言った。
「セイザとやらが切ってくれた場所が、ちょうど我と闇との境目だった。尾が少々短くなってしまったが、致し方あるまい」
パサリと尾を振るヴェル。するとそれまで黙って話を聞いていたミハイルがたずねた。
「そなたを闇に包んだ者の姿は見たのか?」
まるで人間のように首を振るヴェル。
「眠っておったからな。……誰かが訪れていたのには気づいていたが、姿は見てはおらぬ」
ミハイルは「そうか」と肩を落とした。
「今、この世界では魔王が現れる日が近いと言われている。そんなときに精霊を攻撃するとすれば、魔王やその仲間ではないかと思ったのだが……」
ミハイルの言葉にヴェルはうなずく。
「いくら寝ていたとはいえ、並の者には我に手を出すことはかなわぬ。小さき王の推察は当たっているだろうな」
精霊とは人の世に闇が迫る際に人を救う存在だ。つまり魔王側から見れば邪魔な存在になる。そんな精霊を闇に包んだ者がいたというのは、魔王そのものか、魔王の動きを助けようとしている存在がいるという意味だ。これまで、魔物の増加や襲撃などはあっても、魔王につながる具体的な情報は何一つ入って来なかった。しかしヴェルは「魔王かその眷属が、そこにいた」とはっきり断言したのである。これは彼らがはじめて手にする、魔王につながる情報だった。
おもわず緊張が走る中、セイザがたずねる。
「精霊は四柱いるのだろう? なぜあなたが最初に狙われたのだ?」
ヴェルはあっさりと答えた。
「我が四精霊最弱だからであろうな」
精霊はそれぞれが独自の力を持つ。そのため強さを比べることに、あまり意味はないとヴェルは説明した。それでもヴェルは、敵に対する特別な攻撃や防御を持っていないという意味で、どうしても他の精霊よりも「弱く」なってしまうのだ。
「他の三柱は、我のようにかんたんに敵の手には落ちぬだろうが、狙われる可能性はあるし、心配ではあるな」
一通り話が済むとヴェルは言った。
「ヒトの子らは、もう休むとよい。そろそろ疲れているだろう。……あの山の瘴気をどうにかするのも手伝ってもらわねばならぬしな」
実際に時刻は深夜をとうに過ぎ、夜明けも近づいている頃だ。セイザもタクマもバイナも、魔物と戦って疲れているし、ミハイルや護衛騎士たちもそれぞれ疲労を滲ませている。とはいえ、全員が休んでしまうわけにもいかず、野営地を守っていたヘンリーともう一人の護衛騎士が見張りとして起きていることになった。
各々が毛布などにくるまって身体を休めていく中、ふとバイナとヴェルの視線が合う。
「ああ、この子を護った魔力はお主のものだったか……」
呟くヴェル。そしてヴェルはルオンを見るときとはまた少し違う、まるで遠くを見るような目でバイナを見た。
「魔法使いならば知りたいことも多かろう。安心しろ、この子に話すのとは別に、お主にも話をしてやる。……我が知る分だけにはなってしまうがな」
万物を構成する要素は、すなわち魔法使いが扱う力でもある。魔法使いの能力は基本的に、力を扱うスキルと、万物を構成する要素に対する知識の二つから成り立つ。つまり万物を結び直したというヴェルは、バイナにとっては生き字引にも近い。バイナはこの二年間、王宮や神殿の魔法書も読み漁ってはいたが、それでも精霊から直接聞く知識に勝るものはないだろう。
ついつい期待に満ちた目をしてしまうバイナに、ヴェルが目を細める。
「……あせることはない、今は休め」
それは、まるで子どもに言い聞かせるような優しい声で、バイナは思わず小さく笑った。
◆
朝が来ると、大人たちは眠い目をこすりながらも起き出して活動をはじめたが、ルオンはそうはいかなかった。朝食だと声を掛けても、ヴェルの腹と毛布に顔を埋めて、寝息を立てるばかりだ。
「少々無理をさせてしまったかもしれぬ。寝かしておいてやってくれぬか」
ヴェルはそう言ったが、ルオンの枕になったままではヴェルも動けない。仕方がないので、タクマが抱き上げて野営地の隅に移動させ、そのまま寝かせておくことになった。
「疲れちまったかな?」
頭をなでられ、ルオンは夢うつつの中で昨晩のことを思い出す。
パルウム宮で倒れたときに見たのが、彼のことだったというのは、すぐにわかった。どうすればいいかも、知っていた。腕の中に彼を抱き込む瞬間、腕や頰に焼けるような痛みが走った。でもこの手を離せば力は使えない。それに何よりも、この痛みは、彼がずっと感じていた痛みでもある。ならば、ためらってなどいられなかった。なぜなら、彼を救えるのは自分だけなのだから。ルオンは彼をギュッと抱きしめて、念じた。彼を取り囲む黒い力を自分の力で押し返していく。
瞑想を繰り返していて、よかったと思う。魂の記憶にあるように思い通りに力を使えるわけではないけれど、触れてさえいれば、少しずつ手を伸ばしていくように、彼の中に力を広げていくことはできる。
それは文字通り力づくの作業で、たとえるならば、地面にめり込んだ重たい岩を、体重ごとかけながら押し込んでいくようなものだった。それでもルオンは、自分を取り囲むセイザたちが、守っていてくれることを感じていた。バイナが万が一に備えて力の動きを注視しているのもわかった。
一人じゃない。
それだけで大丈夫だと思える。
みんなのためにも、彼を助けたい。
黒い力を押し返していくうち、闇の中にようやく彼の姿が見えてきた。
青く輝く光。流れる風そのものの姿。
来たか!
あのときと同じように、いや、あのときよりもしっかりと、何かがつながる感じがした。
力を貸してくれ。
うん。
では呼べ、我の名を。
教えられずとも、その音がルオンの胸に浮かんだ。
たくさんの音があったが、そのうちの特に目立ったものを心の中で唱える。
ヴェルナティウス エル=フェン ファルセライアン
青い光がひとつの形をとっていく。
ルオンはそれを犬だと思った。
ふさふさの毛並みの大きな大きな犬。
すまないな、こんな形でつないでしまって。
ヴェルがルオンの手に額を押し当てる。
別にいいよ、必要なことだから。
ルオンが答えると、彼は喉の奥で少し笑った。
ゴロゴロと猫が喉を鳴らすような音がした。
彼が目を閉じる。
彼を通じてルオンの力が引き出されていく。今までは何かに閉じ込められたかのように身体の外に出ていかなかった力が、彼に導かれるようにして、自然に流れていく。
彼を押し包み、捕らえようとする黒い力を押し返していく。
とはいえ彼から先には力は流れていかない。
どうしようかと思っていたら、セイザが彼に繋がる黒い力を断ち切ってくれた。
彼が正体を取り戻す。
「おかげで助かったぞ、小さいの」
ルオンだよ。
「うん、お前はルオンというのか」
彼を助けるために『つながった』からだろう、彼にはルオンの心の声が自然と伝わった。タクマがちょっと怒っていて、それは申し訳ないと思ったけれど、なんだかうやむやになってしまった。
セイザたちは、ルオンが力を使ったことに少しだけ驚いている様子だったが、特に何も言わなかった。それがかえってルオンをほっとさせた。