どうぞ、と促されて家の中に上がると、微かな緊張が胃を締め付ける。友達の家に上がったときに感じる、他人の家の雰囲気と匂い。
そういえば、誰かの家に上がるのなんていつぶりだったか。
小学校までは覚えているけど、中学校になると数えるほどで、高校ではとんと記憶にない。
友達と遊ぶとしても、カラオケとかファミレスとか。外ばかりで誰かの家というのはほとんどなくなっていた。
ゲームもファミレスとか、それこそ公園でもできる。
時代かなぁ、と俺はいつ生まれなんだと心の中で自分にツッコミを入れる。
「義兄さん、変なこと考えてません」
「考えてます」
ぺしっと背中を叩かれながら、香坂会長が丁寧に並べてくれたスリッパを履く。そのまま2階に上げられて、やっぱり個人の部屋って2階なんだなと思う。
「ここが私の部屋です」
『凛』という簡素な四角いプレートが下げられた部屋の前。初対面ながら、なんともらしいなと思いつつ、案内されるまま部屋に入ると家とは違う石鹸のような清潔な香りが鼻腔をくすぐってきた。
芳香剤でも置いてあるのか、それとも……。
凛として、真面目な横顔をそろっと窺い、視線を部屋に戻す。
「なんか、生徒会長の部屋、って感じですね」
「どんな部屋ですか」
「いや、真面目っぽいなーって」
妹からのツッコミにふわふわした返事をする。
どんなと言われても、生徒会長の部屋だなーという、説明できない感想が第一印象だったというだけだ。
生徒会長という役職に引っ張られているのは否めないけど。
香坂会長がすまなそうに肩をすぼめる。
「来客があるとは思わず、掃除が行き届いていなくて申し訳ございません」
「いや、十分綺麗ですよ」
というか、これ以上どこを掃除する必要があるのか。
勉強机には参考書がピシっと並び、余計なものは置いていない。近くにある背丈の低い棚にも、見るからに小難しい本が詰まっていて、漫画や雑誌といった娯楽品が見当たらなかった。
それ以外にはベッドくらいで、全体的に物が少ない。ミニマリストというほどではないだろうが、生活に必要最低限の物だけ残しているという印象だった。
10代女子高生の部屋というにはあまりにも花がない。
「あんまりジロジロ見ては失礼ですよ?」
イノリの両手が俺の顔を挟み、無理やりベッドから視線をはずさせる。
「ね?」
「……まぁ、うん。そうだな」
子どもを諭すような優しい微笑みに顔が熱くなる。
確かに、ホテルのベッドのようにシーツにシワ1つないくらい整えられているとはいえ、女性の寝具を見るべきではない。
でも、それくらい言ってくれればわかる。
のけぞるように顔を後ろに下げて、イノリの華奢な手から逃れる。イノリの手はひんやりしていたのに、ホットの缶コーヒーを当てられたように熱かった。
「そうですね、男性を上げるのはようくん以外だと父親くらいで、少し……緊張しますね」
「誘ってるわけじゃないですよね?」
「……? はい」
「義兄さん?」
照れた顔にその発言。
わざとやってるのかと思うくらい、異性を意識させる。ようくん以外とか、妹がいる状況で勘違いするほどのぼせてはいないが、照れ顔も合わさって破壊力が高かった。
「部屋はお好きに見ていただいて構いませんので、どうかよろしくお願いいたします」
「義兄さん、言葉通り受け取らないでくださいね? なにかに触れる場合は、必ず許可を取るように。わかりましたか?」
「そんなに俺は信用ないのか」
「転ばぬ先の杖、ですよ」
なにか違くない、それ?
そう不満にも似た感情が心の表層に浮き上がってきたが、実際どう違うのか説明できないので口を噤む。
目を離せないやんちゃ小僧の扱いな気がする。
「じゃ、始めますか」
拍手を1回。
意識を切り替えて、部屋を見て回る。
といっても、個人の部屋だ。そう見て回るものはないし、そもそも物自体が少ない。部屋の
「大きい……」
「イノリ様も十分ですよ」
なんの話をしているのやら。
小難しい専門書やらが並んだ棚を見ている後ろで、密やかな会話が交わされている。室内の音なんて外から聞こえてくるセミの
どれだけ小声だろうと、会話は拾えてしまう。
そこ、クローゼットだよね? 開ける必要あった? いや、調査なんだから徹底した方がいいのはわかるが、でも、俺がいる状況で調べる必要あった?
外とは違って室内は半袖で過ごすには寒いくらいに冷え切っているのに、悶々としながら棚から離れて勉強机の前に移動する。
さっき香坂会長が見てたけど。
自分と他人じゃ視点も違う。失くした物を探して自分で見つけられなくても、他の人が探したらあっさり発見なんてよくある話だ。
「机調べますけど、いいですか?」
「お願いします」
私が調べました、と不平を述べることなく、香坂会長から簡単に許可が下りる。
自分で調べて終わり、とはさすがにしないか。そうするなら、俺たちが来た意味もない。
「とはいっても」
机の上はまっさら。
卓上の照明と、教材……。
「うぇ」
喉からカエルの潰れたような声が出た。
イノリから「なにかありましたか?」と聞かれて、なんでもないと首を左右に振っておく。
高校の教科書だと思ったら、大学入学共通テストの過去問とか置いてある。急に現実が目の前に飛び出してきて、現実離れした現状との落差に頭痛がする。
そうだよな、香坂会長は高校3年で卒業に向けた準備があるよな。
俺も来年。あと1年あるから平気とも言っていられない時期にきている。
香坂会長とは違って気楽そうな天文部長が、頭の中で『ぶえっくしょん!』と派手にくしゃみをする。とりあえず、見舞いくらいには行くか。
そんな益体もないことも考えつつ、机の引き出しを1つずつ確認して……して?
「開かない?」
机の下にあるキャスター付きの収納スペース。
その最下段、1番大きい引き出しを開けようと引っ張ったが、なにかに引っかかったように開かなかった。
数度試して、鍵穴があるのに気づいた。
ふむ、と考えて改めて部屋を見渡す。ベッドは1つで、他になにもない。兄弟、姉妹がいるかわからないが、一緒の部屋ということはないはずだ。
なのに、わざわざ鍵をつけているとなると、貴重品か、よっぽど人に見られたくないか。
見られたくないもの……。
考えて、男子らしいもの想像してしまう。いやいや生徒会長だし、凄く真面目だし。でもでも、真面目な人ほどそういうのは強いっていうし、むしろその方がなんかいいなと思考が脱線していく。
どうあれ確認だな、と麦茶を持ってきてくれた香坂会長に尋ねてみる。
「香坂会長、この鍵のついて引き出しって、中を見ても大丈夫ですか?」
「……、そこは」
さっきまではなんであれ二つ返事だったのに、初めて言葉が濁る。ローテーブルに麦茶の入ったグラスを置いて、そのまま結露で濡れた表面を見つめてこちらを見ようとしない。
もしかして?
と、またよくない思考が走りそうになったとき、「……かしこまりました」と香坂会長は硬い声を絞り出す。
照れとか、恥ずかしいとか。
そういう羞恥の感情とは遠い、どこか重さを伴う反応に訊くんじゃなかったと早くも反省した。
「無理しなくてもいいですよ?」
「いえ、必要なことです」
立ち上がった香坂会長が隣に並ぶ。引き出しの前で膝をついて、リボンを緩めて1番上までキッチリ閉めていたボタンを外す。
脱ぐの?
一瞬ドキリとしたが、襟元からネックレスのチェーンを引っ張り、胸元から鍵が出てくるのを見てそれかと納得する。
飾り気のない、無骨な小さな鍵。
肌身放さず持っていたのかと考えると、よっぽど大事なものなんだろうと思わせた。その鍵を手に持ち、香坂会長はそっと鍵穴に差し込む。
カチャリ、と軽い音が室内に響いた。
「開きました」
「いいん、ですか?」
「はい」
本当に? と念押ししたくなる。
でも、いまさらやめるのもなんか違う気もする。困って、イノリを見ると、調査の手をとめて体ごとこちらを向いていた。
目が合うと、小さく首を縦に振った。いいか、いいのか。
「じゃあ、失礼します」
謎に緊張感のある空気に包まれながら、慎重に引き出しを開ける。
中から出てきたのは、なにかのファイルに、車のおもちゃや押し花といった、子どものおもちゃだった。
これは、どう……というか、おもちゃ箱、みたいな?
やや肩透かし。
生真面目な香坂会長を知っていれば意外だが、かといって特別隠すようなものとは思えなかった。
それとも、これくらいの娯楽品も、彼女にとっては罪と感じるのか。
どうなのか。
香坂会長を窺うと、車のおもちゃを手のひらに乗せて、独り言のように零す。
「ここにあるのは、ようくんとの思い出なんです」
浸るような、偲ぶような、そんな声音だった。
おもちゃ箱ではなく、宝箱。
鍵をかけて大切にしていた彼女の思い出に土足で踏み込んだ気分になって、天井を仰いで『あー』と声にならない嘆きを煙のように吐き出す。