第一章 欲しがりません、勝つまでは
事務机一つと、キャスター付きの丸椅子が二つ。
そんな必要最低限の内装だけでいっぱいになってしまうほど手狭な部屋を、殊更に所狭しと歩き回る者がいた。
右へ、左へ。
行ったり、来たり。
コツ、コツ、と小気味よい軍靴の音が僅かに反響する。
足音の主たる彼女は——さながら、軍国主義日本における秩序の具象だった。
装飾の施された豪奢な軍服に身を包み、背筋をピンと立てた姿勢は見るものを律する威厳がある。その黒髪は最高級の絹糸のように輝いており、一つとして乱れた毛髪は見当たらない。黒曜石のように鈍く光る瞳は、まるで深い沼地を思わせる静謐さを秘め、理知的な視線を手元のファイルにじっと落としている。
一方、僕は体重を動かす度にキイキイと鳴る安っぽい丸椅子の上で身を縮こませ、彼女のご機嫌をおっかなびっくり窺っていた。
窮屈だった拘束具を脱がせてもらえたのは良いが、その代わりヤケに目立つ真っ白い特務兵卒の軍服を着せられた上に、手錠の拘束だけはまだ続いていた。
(特務部隊に来てもワッパと仲良しさんか~……)
ここは、陸軍の駐屯地内に新設された営舎——『東京支部』の一室だ。
冷たい手錠の感触と間取りの狭苦しさも相まって警察署の取調室を思い出す。
何だか気分がげんなりしてきて、僕は手錠の鎖を意味もなく指先でちゃりちゃりと弄んだ。
その時、間断なく鳴り響いていた軍靴の足音がピタリと止まり、代わりに芯のある低声が凛と響いた。
「
資料から離れた彼女の視線が、刃のような鋭さで僕を突き刺す。
「間違いはないか?」
「はい」
「クソの塊のような経歴だな」
「へへぇ……返す言葉もございやせん。司令官殿」
彼女は、特務部隊を統括する総司令官——
きつめの顔立ちのため老けて見えたが、年齢は二十五。僕の五コ上だという。
確かに、その身に纏う雰囲気はまだ若々しく、溌剌とした覇気を感じる。
二十五で少佐、部隊を一つ任されているとは立派なことだ。とはいえ、その若さに見合わぬ地位は親のコネで勝ち取ったものであり、「尸位素餐の謗りを受けぬよう勇往邁進する日々だ」と、竜胆は自らを戒めるように言っていた。聞いてもいないのにそんなことを自分から話すのは、保険をかけているのだろうなと何となく思った。
とにかく、そんなお偉いさんに面と向かってディスられては反論などできるはずもなく、僕はただ平謝りするしかなかった。
それに内容の方も別に間違っちゃいない。
(僕は、この怒りっぽい性格のせいで損ばかりしている)
自覚がある以上、クソと罵られようと黙って受け入れるしかなかった。
「だが——」
と、竜胆が続ける。
「同時に相反する評判も聞いているぞ。捕縛に際しては何ら抵抗する様子を見せず、少年院の矯正医官からも『他者から絡まれない限り生活態度は模範的であった』とな」
その言葉に、僕は自信を持って頷いた。
「はい! 僕は
……ネンショー基準で、だが。
「スイッチ、か。——それはまた、難儀なことだ」
僕の勘違いでなければ、そう言う竜胆の目にはかすかに憐憫の情が浮かんでいた。だが、それも一瞬のことで、すぐにまた熱を感じさせぬ鉄のような冷たい目に戻る。
「馬鹿とハサミは使いよう。ひとまず、貴様のその気性はここでは役に立つ。喜べ」
「い、いえーい……」
「本当に喜ぶ奴があるか! プライドを持て!」
「えぇ……」
「——立て!」
軍隊じみた鋭い命令に従い、僕はすっくと立ち上がる。
「これより、貴様の所属は——日本陸軍陸軍総隊隷下特殊作戦群第四中隊隷下特務部隊東京支部A班だ」
……なんて?
早口言葉?
「特務兵卒といえども日本陸軍の一兵卒。扱いは普通の二等兵とほぼ変わりない。最低限、温かい寝床と飯だけは用意してやる! 冷たい牢獄と臭い飯よりは遥かにマシな待遇だろう! この恩に報いるべく、粉骨砕身の覚悟で皇国に尽くせ!」
「サ、サー・イエッサー!」
よく分からないが、僕はこれから軍属になるらしいことだけは分かった。なので、ノリで軍隊っぽく返事をしてみたのだが、竜胆の反応は極めて微妙なものだった。
「……米風の返事はよせ。それに大体、女性相手ならば『イエス・マム』だろう。第三次世界大戦も終わった今、第二次戦中のように敵性言語がどうのとつまらぬことを言うつもりはないがな、ここでは『了解』と返答しろ」
「はい。……あ、了解で~す」
「……まあいい、付いてこい」
竜胆はクルリと踵を返し、足早に退室してゆく。
僕は慌ててその後を追いかけた