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第5話 10月7日:杉浦 宗吾

 杉浦宗吾はまさに典型的な村の人間である。

 村で生まれ、村の高校まで通い、村の企業に就職した。

 少年だった頃は確かに外の世界に憧れていた。

 大学進学を機に都会に出て行こうと考えたこともある。


 しかし杉浦は結局村から出ることはなかった。

 別段、村が好きだとか居心地がいいとかではない。


 多少は杉浦が出て行くことに家族が難色を示してはいたが、出て行こうと思えば出ていけた。

 結局は出て行くことの漠然とした不安と面倒ごとを投げだす性格、事なかれ主義が杉浦を村に留めた。


 会社経由でお見合いをし、結婚して子供も授かった。

 仕事でもそれなりに出世し、周りとは若干良い家と暮らしを手に入れている。

 周りから見れば幸せを絵にかいたような人生に見えるだろう。


 だが、杉浦は45歳を迎えたとき、猛烈な後悔に見舞われる。


「もっと刺激のある生活がしたかった」


 こんないい暮らしなんてしなくてもいい。

 妻だって子供だっていらない。


 もっと自由に、もっと刺激的に生きてみたい。


 そんな思いが、刺さった棘のように杉浦の心を刺激する。

 だが、行動に起こせなかったからこそ、今がある。

 簡単に変われるようであれば、杉浦はとっくに村を出て行っているはずだ。


 結局、後悔はするものの具体的な行動に起こせず、1年が過ぎていった。



 ***



「……すみません。これってどうするものなんですか?」


 会社の帰り道。

 杉浦は妻から買い物を頼まれて、スーパーに寄ってから帰宅する途中だった。

 道の脇に設置してある野菜の無人販売所の前で話しかけられる。


 話しかけてきたのは30代中盤の若く色気のある女性だった。

 しっかりと、濃くならないような自然な化粧に、派手過ぎずも適度に女性らしさを強調する服装。

 一目で村の人間じゃないとわかるくらいあか抜けていて魅力的だった。


「このにんじんが欲しいと思ったんですけど、レジもないですし……」


 困った表情をして周りを見渡す女性。

 男なら誰でも何とかしてあげたくなるような、か弱さとあざとさが混じった仕草だ。

 妻としか女性と付き合ったことのない杉浦にとっては、その仕草だけで完全に心を掴まれてしまう。


「ああ、ここの箱にお金を入れるんだよ」


 杉浦はそう言って財布を出して、料金箱にお金を入れる。


「お客が勝手に会計していくんですか。面白いやり方ですね」

「この村じゃ結構多いよ、販売所」

「そうなんですか。それならちゃんと現金も持ち歩かないといけないですね」


 人懐っこい笑みだった。

 杉浦は必死に平静を保とうとしているが、内心ではかなり緊張して動悸も激しくなっている。


「……あっ! すみません。今、いくら入れたんですか? 払います」


 女性は慌てて自分の財布を出す。

 奢って貰うのが当然と考えている会社の女性社員とも違い、好感が持てる。


「いいよ、このくらい。小銭を減らしたいと思ってたし」

「あら、優しいんですね」

「えっと……村の人じゃないよね?」

「はい、今日、村に引っ越してきたんです」

「ああ、どうりで」

「どうりで……?」

「綺麗な人だと思った」


 杉浦がそう言うと女性は目を丸くした。

 そして吹き出すようにして笑い始める。


「もう、お上手ですね」

「本当のことだよ」

「でも、それだと村の人たちが綺麗じゃないって聞こえちゃいますよ?」

「そう言ったつもりだよ」


 すると今度は大人の色っぽい笑みを浮かべた。

 その表情を見て、杉浦は抑えが利かなくなるのが自分でもわかった。


「どう? これから食事でも。いいお店知ってるんだ」


 初対面の女性にこんなことを言うなんて、自分でも信じられないと思う杉浦。

 会社内でも部下の女性には絶対に手を出したりはしなかった。

 いくら会社内のことでも、すぐに村に知れ渡ってしまう。

 一回の火遊びがこの村では致命傷になりかねない。

 いつ誰が見ているかわからないこの村で、秘密ごとは不可能に近い。

 それがわかっていたが杉浦は自分を止めることはできなかった。


「ダメですよ」

「……そ、そうか。そりゃそうだよな」


 上手くいく予感がしていた分、断られたことに正直ショックが隠せない。

 そんな杉浦に女性が買い物袋を指差す。


「買い物してたんですよね? せっかくの食材が痛んじゃいますよ」

「え? あ……」


 買い物袋からは大根が頭を出している。

 中には肉や魚も入っていた。

 確かにこれを持って食事になんか行けない。


(くそ、こんな時に限って)


 杉浦は買う物をメールで送りつけてきた妻に対して怒りを覚える。


「Keepやってますか?」


 女性がスマホを取り出して目の前で振って見せる。


「ああ、やってるよ」


 杉浦も慌てて自分のスマホを取り出す。

 社内の社員同士のやり取りをするためにKeepを使っている。

 若い人はSNSとして利用しているようだが、杉浦は仕事のためにしか使っていない。

 そのアプリのせいで休日もプライベートの時間でも平気でメッセージが飛んでくる。


 そんな煩わしいアプリでしかなかったKeepだが、登録していてよかったと初めて思う。

 杉浦は女性と連絡先を交換する。


 その女性のアカウント名は『鳳髄美弥子』となっていた。

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