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第16話 10月10日:杉浦 宗吾

 杉浦がそっと家のドアを開けると、玄関には既に妻の靴があった。

 小さく舌打ちをして、ゆっくりと音を立てないように靴を脱ぐ。


「お帰りなさい」


 妻に声をかけられて、杉浦は驚いてかなり大きく体を震わせた。


「急に声をかけるな」

「そんなにビックリしなくても」


 今夜、というか今朝は妻とは顔を合わせたくなかった。

 先ほどまでの美弥子との温もりと高揚感を台無しにしたくなかったのだ。


 まるで夢のような時間。

 今まで生きてきた中で一番と言っていいほどの幸福感。


 それを一気に現実に戻されたかのような感覚だった。


「そういえば、どこに行ってたの? 集会場には来なかったみたいだけど」

「向かっているときに、河本さんから電話があって、違う場所を探してた」

「そうなんだ」


 あの後、杉浦は公園から美弥子を連れ出し、村外れの廃墟となった家に向かった。

 そしてそこで美弥子との情事に及んだ。


 よくテレビのニュースで芸能人が不倫をして大騒ぎになっている。

 今まで杉浦は人生を棒に振ってでも不倫をすることに全く理解ができなかった。

 せいぜい、2、3時間のためにこの先の何十年の生活を犠牲にするなんて意味がわからなかった。


(今ならわかる)


 まさに人生を投げ売ってでもいい。

 そのくらい刺激的な時間だった。


 本当ならもっと一緒にいたかったが、子供が見つかったという連絡が入ってしまった。

 美弥子は「旦那が子供の死亡届を貰いに行くから来い、ですって」と、ため息交じりに言った。


 捜索が終わりとなれば、村の人たちが帰ってくる。

 そうなれば美弥子と一緒にいるところを見られる可能性も高くなる。

 なので、このタイミングで解散しておく方がいいだろう。


 そして帰り際に美弥子が「またね」と言って軽くキスをしていった。


 杉浦の心は完全に美弥子に握られてしまう。

 ただ、それもまた心地良かった。


 またね、ということはまた会いたいということだ。

 それまでにどこか密会できる場所を探さないとならない。


 そんなことを考えながらシャワーを浴び、歯を磨き、寝間着に着替える。

 そしてリビングを通って寝室に向かうとすると、妻がソファーに座ってコーヒーを飲んでいた。


「寝ないのか?」


 今は早朝の5時。

 2時間くらいは寝る時間はあるはずだ。


「……眠れなくて」

「そうか」


 杉浦はそう答えて寝室へ向かおうとした。


「私、死体見ちゃった」


 祥太郎のことだろう。

 妻も発見された場所にいたということだ。


「……あの子、健吾の同級生だったんだよね」

「ああ、そう言ってたな」

「そんな子が亡くなるなんて、怖いわ」


 杉浦は妻の言わんとしていることはわかる。

 だが、所詮は他人の子供だ。

 子供が亡くなるなんてことはニュースでだって流れる。

 それとなんの違いがあるのかと思った。


「健吾、なんか変なことに巻き込まれてないよね?」

「馬鹿な。考えすぎだ」

「でも、ほら、蓮くんとのこともあるし」

「蓮くんは関係ないだろ」

「でも……」

「とにかく俺はもう寝る。今日も仕事なんだ」


 そう言い残して寝室へと向かう。


「……最近、冷たいね」


 そんな妻の声が後ろから聞こえてきたが無視する。


 先ほど杉浦自身が言ったが、あと2時間もすれば起きて出社しなければならい。

 少しでも寝ておきたかったのだ。


 布団に入ると、やはり疲れが噴き出してくる。

 それはなんとも心地の良い疲れだった。


(すぐに寝られそうだ)


 そう思って目を瞑ると美弥子とのことが思い出される。

 結局、杉浦は悶々として2時間の間寝ることはできなかったのだった。



 ***



 昔は2日ほど徹夜しても平気だった。

 だが杉浦ももう46歳だ。

 さすがに徹夜明けの仕事は辛い。

 何度も欠伸が出てしまう。


 だが、それは他の社員も同じだった。

 夜に召集がかかり、捜索に参加した者も多い。

 そのため、部長もそんな社員たちの状況に何も言わなかった。


(どうせなら休みにしてくれればいいのに)


 そんな子供じみたことを考えながらも、眠い目を擦りながらパソコンに向かう。

 すると携帯が振動した。

 Keepにメッセージが届いたのだ。


 もちろん発信者は美弥子だった。

 メッセージには写真が添付されていて、どこかの部屋にベッドが置いてあり、その前で美弥子が自撮りをしたものだった。

 そしてメッセージには『いいところ見つけました』と書かれている。


 それを見た杉浦は一気に目が覚めた。

 眠気が吹き飛び、逆に気分が高揚していく。

 というより興奮を抑えるのに苦労するくらいだ。


 杉浦は人生の絶頂を迎えているのだと実感する。


 カレンダーを開き、会えそうな日を見繕い始めるのだった。

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