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第32話 10月15日:杉浦 宗吾

 誰もいない会議室で、杉浦は頭を抱えていた。


(なんでだ? 誰がこんなことを?)


 杉浦と美弥子の不倫写真はなぜか村中に広がっていた。

 部下である田中も、奥さんから送られたメールに写真が添付されていたと言っている。


 お互い、妻子がいる身でありながらの不倫。

 しかもそのことが村全体に知れ渡っている。


 そうなれば会社の方も問題にせざるを得ない。

 まずは話が聞きたいと重役に言われ、こうして会議室で一人、待たされている。


 夢じゃないかと、何度も頬や頭を叩いてみるが目が覚めるどころか、痛みで現実だと突き付けられるだけだった。


 混乱が収まらない中、ドアがゆっくりと開く。

 杉浦の直属の上司である田代が入って来て、杉浦の正面に座る。


「杉浦君。説明してくれるか?」

「いや、部長、違うんです! これは誤解なんです!」

「誤解?」


 田代はノートパソコンを開き、画面を杉浦の方へ向ける。

 そこには美弥子との写真が大きく表示されていた。


「どう見ても腕を組んでいる。妻子持ちの男が、奥さん以外の女性とすることじゃないと思うんだが?」

「待ってください! 本当に違うんです! これはあの女が勝手に……」

「杉浦君。そういうことじゃないんだ」

「……え?」


 田代は大きくため息をついて、背もたれに寄りかかる。

 そして天井を見上げながら、話を続ける。


「実際は君が言うように誤解かもしれない。だが、重要なのは世間にどう見えるかだ」

「……」

「この写真を見て、不倫じゃないと思う人間は、100人中、何人いるだろうな?」

「部長。私はクビですか?」

「不倫自体は犯罪じゃないからな。解雇にはできない」

「……」

「ただ、取引先の目もある。君には誰の目にも入らない、倉庫番をしてもらうと思う」


 倉庫番とはいわゆる窓際の部署だ。

 これで杉浦は出世から外れるどころか、一番下まで降格することが確定した。


「今日はもう帰っていい。……奥さんとも色々、話さなければならないだろう?」



 ***



 杉浦はどうやって家まで帰ってきたか、記憶がない。

 おそらくは歩いて帰ってきたのだろう。

 外はもう暗くなっていた。


 家まで歩いている間は何も考えられず、何が起こったのかさえわからないという状態だった。


(なんで、こんなことになったんだ?)


 それだけが頭の中で何度も繰り返される。


 妻への言い訳を考えようとしても、全然頭が回らない。


 杉浦は既に家のドアの前に1時間ほど呆然と立っている状況だった。

 時折、後ろからひそひそ話が聞こえてくるが、気にもならなかった。

 頭の中が真っ白で、何をどうしていいのかわからない。


 そのとき玄関のインターフォンに妻の顔が写った。


「何してんの?」


 今まで聞いたことのない冷たい声だった。


「早く入ってよ、恥ずかしい」


 そう言って、ブツッとインターフォンが切れる。


 杉浦はまるで操り人形のようにぎこちなくドアを開けて家の中へと入った。


 リビングに行くと顔をしかめ、まるで汚いようなものを見るような目で杉浦を見る妻の姿があった。

 こんな表情も、見たことがない。


 杉浦はとりあえず誤解だと言うしかないと思う。

 村中が信じなかったとしても、妻だけは説得しないとならない。


「聞いてくれ、あれは……」

「これ書いて」


 そう言って出したのは離婚届だった。

 既に妻の名前は書かれている。


「ちょっと待ってくれ! 違うんだ!」

「書き終わったら出て行って。着替えは持って行ってもいいけど、早くね。健吾に部屋から出ないように言ってあるから」

「待ってくれ。話し合おう。聞いてくれ」


 すると妻が杉浦の目の前まで歩み寄り、思い切り頬を叩いた。


「最低」


 頬の痛みよりも、侮蔑の言葉が杉浦の心に刺さる。

 そしてじんわりと目に涙が浮かんでくる。


「泣きたいのはこっちよ!」


 そう言うのと同時に妻の目からボロボロと涙があふれ出す。


「10歳も年下の人となんて……。汚らわしい!」

「それは……」


 杉浦はなんとか妻を落ち着かせようと、両肩を掴む。

 しかし、その手が払いのけられる。


「お願い。出て行って」

「……」

「お願いします」


 妻が深々と頭を下げた。


 杉村は言う通りにするしかなかった。

 離婚届に名前を書き、そのまますぐに家を出る。


 着替えなんていい。

 とにかく、居場所のなくなった家にいたくなかった。


 逃げるようにして家から出て、あてもなく歩く杉浦。


 すると携帯に受信が来る。

 開くと、美弥子からのメールだった。


『会いたい』


 たった一言だったが、今の杉浦の心を救うには十分だった。


(俺にはまだ美弥子がいる。……そうだ。美弥子と一緒に村を出よう。そしてやり直すんだ)


 今まで何度も思い描いた、新しい刺激のある人生。

 平凡でつまらなかった人生からの脱却。


 杉浦は美弥子が待つ、離れへと向かう。

 そして、その足取りは軽かったのだった。

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