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第十章「湖畔のドーガの宿」

 森林が開け、視界に広がったのは大きな湖。夕陽が湖面に反射して、まるで鏡のように煌めいている。その手前に建つのは、大きなログハウスのような宿屋だ。周囲の湖畔には釣り竿を手にした人々が楽しげに釣果を競い合っていて、まるで絵葉書のような光景だった。


「おお、あそこに泊まるんですね。ガウディ便もほら、馬車が何台か停まってるところに行くみたいだよ、ハク」


「わふ」


 ルナがハクに声をかけると、ハクは「早く降りたい」とでも言いたげに身を乗り出す。

やがて、乗り合い馬車がログハウスの前に止まると、ドアを開けてガウディが御者台から手綱をまとめながら声を張り上げた。


「お疲れさーん! 到着だ! ここが今夜の宿だぞ!」


 宿の前に出迎えに現れたのは、ガウディと同じか、それ以上にがっしりとした体格の男。その男はガウディを見るなり、白い歯をのぞかせて笑う。


「おお、今日も世話になるよ、ドーガ」


「お疲れ、ガウディ。今日は部屋の方が空いてるから泊まれるぞ! ほら、馬車もそこに停めてくれ」


 ドーガと呼ばれた男は元冒険者で、かつてガウディとパーティーを組んでいたらしい。頑丈そうな腕でガウディ便の馬をなだめ、馬車を停める場所を案内している。

 ガウディが後ろを振り返り、乗客たちを一瞥してから口を開いた。


「乗客は6人。全員泊まれそうか?」


「ああ、大丈夫だ。少々狭いかもしれないが、今晩は全室空きがあるからな」


 ドーガの言葉に、二代目リベラ商会のミルトや見習い商人の青年、猫獣人のマイキーらがホッと安堵の表情を浮かべる。冒険者のガイとバッツはというと、ちょっと肩をすくめて首を振った。


「いや、俺たちはテントでいいさ。せっかく湖が目の前にあるし、釣りでもしてゆっくり過ごす。夜の風情もな」


「そうそう、自由にやらせてもらうぜ。テントのほうが気楽なんでな」


 二人は意外にもアウトドア派なようだ。ガウディは「そうかい」と笑いながら、「残りは宿だな」と確認してドーガに目を向ける。


「じゃあドーガ、こっちはルナとハク、それからリベラ商会の二代目さんたちと見習い商人、合わせて四人……いやハクも入れて五人分か? ま、部屋を分けられそうか?」


「もちろん大丈夫だ。ウチは元々、釣り客で賑わうから雑魚寝用の広間もあるし、個室もいくつかある。名物の魚料理も期待してくれよ」


 ドーガは豪快な笑みを浮かべて、太い腕を組んだまま答える。

 さらに続けて、「裏手に水道ポンプがあるから顔や手を洗うなら自由に使ってくれ。あとサウナもあるぞ。身体を温めたかったら遠慮なくな」と案内してくれる。

 ルナとハクは「サウナ……!?」と目を丸くするが、こうしたリゾート的要素を備えた宿屋は、釣り客や観光客に人気なのだろう。


「ガウディ、ちょっと馬車を繋いでくるわ。飯の準備したら呼んでくれ」


「おう、頼むよ、ドーガ」


 そう言い合って、ガウディとドーガは馬を扱いながら宿の裏手へ消えていく。ルナはその背中を見送ったあと、ハクの背を撫でて「よかったね。今日はちゃんと部屋があるらしいよ」と微笑む。ハクは「わふわふ!」と尻尾を振りながら嬉しそうだ。

 傍らでは、二代目リベラ商会のミルトが周囲の景色を眺め、「いい場所じゃないか。疲れも取れそうだ」と頷いている。猫獣人のマイキーは「ふにゃ……サウナはちょっと気になるにゃ」とぼそっと呟き、見習い商人は「サウナでリフレッシュ、いいですね!」と目を輝かせた。


 湖面に夕日が反射して、オレンジ色の光が辺りを包む。釣り客たちもポツポツと道具を片づけはじめ、宿へ戻る人たちが増えてくる時間帯だ。ルナは深呼吸をして、すがすがしい湖の風を胸いっぱいに吸い込みつつ、また一つ新たな旅の夜が始まるのを感じていた。


「ルナっち、サウナ行くにゃ」


 猫型獣人のマイキーが、しなやかな動きで近づいてきた。しっぽを揺らしながら、どこか楽しそうに笑っている。ルナはきょとんとした表情で「サウナ……ですか」と返す。聞いたことはあるような、ないような――実際に経験した覚えはない。


「サウナ知らないのかにゃ? 窯でパンを焼くときの煙突から出る煙と熱気を利用するにゃ。部屋に熱気を溜めておいて、入る直前に煙だけ外へ逃がすんにゃ。残った熱気で体を温めるんにゃよ」


「えっ……パンみたいに焼かれちゃうんですか?」


 思わず仰け反るように身を引くルナ。どれだけ暑いのか想像もつかず、不安を隠しきれない。だが、マイキーは「たとえば話にゃ。焼かれたりはしないから安心するにゃ」と笑って、にゃははと陽気に尻尾を振った。


「ハクは……入らないよね?」

ルナは隣のハクに目をやるが、ハクは首を左右に振るように鼻先をくんくん動かしている。


「わふ(ぼくはいかない)」


「いいから来るにゃ!」

マイキーは半ば強引にルナの手を引き、サウナへと向かいはじめる。まさかこんな流れで、あの謎の“パンの煙突部屋”に入ることになるとは。戸惑いを隠せないルナをよそに、マイキーの足取りは楽しげで、しっぽが大きくふわふわ揺れている。

ハクは「わふ……」とちょっと呆れたように見送るも、ルナは苦笑いしながらその背を振り返った。


「ハク、私、ちょっと行ってくるからね……!」


 そんなやり取りを横目に、宿のスタッフがにこやかに「サウナはあちらですよ、お二人どうぞごゆっくり」と声をかけてくる。パンを焼くように体を温める、と聞いてルナはなおさら緊張するが、マイキーは「大丈夫にゃ~」と陽気に笑うばかりだ。


 こうして、ルナは猫型獣人のマイキーに半ば押し流される形で初サウナへ。ふわりと煙った熱気の部屋に入るまで、心拍数は上がりっぱなしだったが――少し先には、想像以上のリラックスと発汗が待っているかもしれない。


 ◆◆◆


「マイキーさん、もう無理です……。あ、暑い……」


「何言ってるにゃ、入ったばかりにゃ。ほら、もうちょっと踏ん張るにゃ。」


 半分ドアを開けかけるルナを、猫型獣人のマイキーが軽く引き戻す。木造の小さな部屋はサウナ特有の蒸した熱気が満ち、備え付けのハーブが燻されて独特の癒やしの香りを漂わせている。とはいえ、ルナにはとても“癒やし”どころではなく、汗が滴るように流れ落ちる状態だ。


「こんなに暑いの無理です……本当に……!」


「すぐ慣れるにゃ。まだまだこれからにゃ~」

 マイキーは余裕そうな笑顔を浮かべているが、獣人特有の皮膚と毛並みゆえ、汗をかいているのかどうかすらわからない。正直、ルナが羨ましいほど落ち着いた様子で、頭の上の猫耳もぴんと立っている。


 そこへ、外の宿スタッフが木扉の隙間から薪をひょいと追加。余計な気遣いなのか、その瞬間サウナの室温がさらにぐんと上がるのを、ルナは如実に感じ取った。


「どんどん暑くなってるんですけど……!」


「うにゃにゃ、まだまだこれからにゃ。ここからが本番にゃ。」


 うっすら赤くなった頬に、絞れるほどの汗が滴る。ルナはこれ以上耐えられないと判断し、限界を悟った。


「も、もうだめでーす……!」


 バッと扉を開けて外へ飛び出し、庭先の水汲みポンプのところまで一直線。まるで火照る身体を冷やすため、勢いよくポンプをガシガシと押して頭から水をかぶる。冷たい水が一気に頭から流れて、熱かった肌がじわっと冷やされていく。


「はぁぁぁ……生き返る……」


 あまりの気持ち良さに、ルナは思わずその場にしゃがみ込み、息を整えた。周囲を見れば宿のスタッフや他の客が「どうしたどうした」と不思議そうに顔を覗かせているが、そんなことを気にする余裕はない。


 一方、マイキーは扉の向こうで「にゃはは、もうちょっとだったのににゃ」と笑っている気配がする。まるで「なんで出ちゃったの?」と言いたげだが、ルナにしてみればこれ以上焼かれるのは勘弁、という思いだった。


「ふぅ……ハクにも体験させなくて正解だったかも……」


 そう呟きながら水をぽたぽた落とすルナの姿に、宿のあちこちからくすっとした笑いが起こる。こうして初めてのサウナ体験は、ほろ苦いけれどもどこか笑える結末を迎えたのだった。


 ◆◆◆


 サウナで散々な目(?)にあったルナとハクは、身体を冷ましたあと、気分転換に湖畔を散歩することにした。目指す先は、テントを張って釣りをすると言っていたバッツとガイのところ。宿の裏手から湖畔を回りこむように歩けば、すぐに釣り糸を垂れている二人の姿が見えてきた。


「お魚、釣れましたか?」


ルナが声をかけると、ガイがにやりと笑いながら「おお、ちょうど夕まずめで入れ食い状態だぜ」と胸を張る。彼の足元には何匹かの魚が並んでいて、夕陽を受けてきらきらと光っている。バッツも竿を握ったまま連続で釣り上げているらしく、手元が忙しそうだ。


「ルナもやってみるか? 今なら誰でも釣れるからよ」


とガイが予備の竿を渡してくれる。ルナは釣りなどやったことがないので戸惑うが、ハクは興味津々に「わふ(おさかな!)」と尻尾を振っている。釣り糸の先に小さな仕掛けとエサがついているのはわかるが、どうすればいいのかイマイチ掴めない。


「何処でもいいから、水の中に針を入れるんだ。んで、魚がかかったら竿で抑える。今は活性が高くて、投げ込めばすぐ食いついてくるからな」


 バッツが説明しながら、今まさにもう一匹を勢いよく釣り上げている。勢いづく湖の魚たちは水面をバシャバシャと跳ねて、その度に水飛沫が夕日に反射してキラキラと輝く。


「ええと……こう、ですか?」


 ルナは言われるまま湖面へそっと針を投げ入れる。すると、思った以上にすぐ竿先がぐぐっと引っ張られた。


「ぐ、ググン! なんかきた!」


 慌てて声を上げるルナを見て、ガイとバッツは「よっしゃ、落ち着け!」「まずは竿先を魚が動く方向と逆に向けろ!」と矢継ぎ早に助言を送る。ハクも「わふ!」と尻尾を振って応援のように声を上げている。


魚は右へ走り、水しぶきが大きくあがる。


「今度は竿先を左だ!」

「は、はいっ!」


次の瞬間、魚は左へ走って水面を割る。


「じゃあ今度は逆だ、竿を右へ向けろ!」

「大きい……! うわっ、手が攣りそう……!」


 ルナの腕に負担がかかるが、思ったよりも魚は元気で、水面をバシャバシャ叩く。少しずつ魚の動きが鈍ってきたころ、バッツが「さあ、今だ、上げろ!」と声を張る。


「ええいっ……!」


 ルナは勢いよく竿を引き上げるが、慣れぬ釣り姿勢もあり、バランスを崩してそのまま後方へ尻餅をついてしまった。竿先から抜けた魚は、びちびちと跳ねながら後ろへ飛んでいく。ハクが反射的に「わふ!」と駆け寄ろうとするが、慌ててバッツが魚を素手でキャッチした。


「おー、なかなかいいサイズじゃないか。三十センチくらいのニジマスだな!」


 ガイが興奮した声で報告すると、ルナは尻餅をついたまま「あ、ありがとう……」と息を整える。頬には赤みが差し、慌てふためいた様子が見え隠れするが、初めての釣果に思わず笑みがこぼれる。ハクは「わふわふ!」と跳ね回って喜びを表している。


「ルナ、やったじゃねえか! 初めてにしては上出来だぞ」


 バッツに称えられて、ルナは少し照れながら「こんなにすぐ釣れるものなんですね……」と魚を見る。キラキラと夕陽を反射するニジマスの姿が誇らしく、何か不思議な達成感に胸が満たされる。


 こうして、ルナの“釣り人生”とも言える初釣果は、ちょっと派手に尻餅をついたものの、無事に大物を仕留めるという嬉しい結末に終わったのだった。


 夕日が湖面を染め上げるころ、バッツとガイに勧められた大物のニジマスを手に、ルナとハクは宿へ戻った。湖畔に立つログハウス風の建物の前では、ガウディとドーガが焚き火のそばで談笑中。明かりがほのかに漏れる玄関先に近づくと、ふたりがさっそく目を向けてくる。


「お、ルナ。釣りはどうだったんだ?」


「これ、釣れたんですけど……」


 ルナが先ほどの釣果であるニジマスを差し出すと、ガウディが「おおっ」と目を見開き、ドーガも近寄って覗き込んだ。

 見れば三十センチほどの見事な魚体で、うっすら虹色の輝きがさすがに美しい。


「おお! こりゃなかなかのサイズだな。ルナ、釣りもできるのかよ」


「いえ、初めてです。バッツさんとガイさんに教わったら、偶然釣れちゃって……」


 ルナが照れくさそうに答えると、ドーガが豪快に笑う。


「ビギナーズラックってやつだな。運も実力のうちって言うし、たいしたもんだ。夕食にこいつを出してやるから楽しみにしときな!」


「わふ!(たのしみ!)」


 ハクも尻尾を振りながら嬉しそうに鳴く。ドーガは「よっしゃ」と魚を受け取って、さっそく調理のために宿の奥へと姿を消す。

 ガウディは腕を組み、ニヤニヤとルナを見やる。


「釣りにサウナに、楽しんでんなあ。こういうのが旅の醍醐味ってやつだろ? 大物釣ったならバッツとガイに自慢しときな」


「はい、さっきも言われました。いろいろ初めての経験ばかりで、なんだか不思議なくらいです……」


 森の中でダイアウルフに襲われた緊張感が嘘のように、今は湖畔の穏やかな時間に包まれている。夕闇がゆっくりと迫り、宿の周囲では他の宿泊客も釣りを切り上げたり、焚き火の準備を進めたりしている。

 ルナは改めてハクを撫でて「夜ごはん、楽しみだね」と微笑む。ハクは「わふ!」と元気に返事をして、ふたりは宿のロビーへと入った。


 本当に大きなニジマスを捌いてもらえるのか――どんな料理が出てくるのか想像が膨らみ、ルナの胸は高まるばかりだ。旅先でのささやかな出来事こそが、一人と一匹の思い出をまた一つ彩っていくのだろう。


 宿の食堂は、夜の帳が降りはじめるとともに、一層の活気であふれていた。釣り客や旅人たちが所狭しと席を埋め、それぞれに酒や食事を楽しんでいる。

その一角では、見習い商人とミルト・リベラ二代目がテーブルを囲み、甘いミードを酌み交わしながら商いの話を交わしていた。どこか熱っぽい議論らしく、テーブル上にはメモや図面らしきものが散らばっている。


「ルナ、あそこだ」

ガウディが指差すほうを見れば、ちょうど彼らのテーブルが見える。

「もう始まってるのかな?」


ルナはハクとともに、指し示された席へ向かい、ガウディと隣り合わせで椅子に座る。見習い商人が「ああ、ガウディさん」と気づき、軽く頭を下げた。ミルトも「お疲れ」と頷いてくれるが、その手にはすでに金色の液体――ミードの器が握られている。


「いたいた、さっぱりしたにゃ~!」


 そこへ、サウナ上がりか、しなやかな猫耳を揺らすマイキーがすっと姿を現す。まだ髪先に水滴が残っているような様子だ。彼女はテーブルに近づくと、見習い商人のミードの器を横からひょいと取り上げてしまった。


「ちょ、マイキーさん、勝手に……」

「ふにゃ? いいじゃにゃいか、ちょっとくらい。ぷはー、うまいにゃー!」


 一気に飲み干したマイキーは気持ち良さそうに声を上げ、返す頃には器の中身がすっかり空になっていた。見習い商人は「ああ……」と呆気に取られているが、周囲の冒険者や商人たちはそれぞれ笑っている。どうやらこの程度の“乱入”は、彼女の常套手段らしい。


「こっちはもう始まってるんだな。商売の話か?」

ガウディがテーブルの上の紙資料を見て問いかけると、ミルトが「うむ」と肯いて返す。


「ちょうどアクスジールでの取引案件を検討していたところだ。船を手配するか、それとも陸路で一部物資を運ぶか……海賊の名残がある街ゆえ、警戒も必要だしな」


 真面目な商談の空気のなかに、マイキーが「にゃー」と身を突っ込む。そのしっぽがテーブルにのせられた地図をちらりと撫で、「ふにゃ、面倒そうだにゃ」と軽く口を尖らせている。ガウディは苦笑しながら、ルナにも目線を送った。


「ルナは何か食べたいもんあるか? ドーガがあのニジマスを料理してくれるって言ってたから、そろそろ出てくるかもしれないぜ」


「楽しみですね。ハクもわくわくしてるみたいです」


「わふっ(たべたい)」


 ハクは尻尾をぱたぱたと振り、すぐにでも料理が来てほしい様子だ。マイキーはそんなハクの頭をぽんぽん叩き、「ふにゃ、ニジマスかー。あたしも期待してるにゃ」と上機嫌である。

 見習い商人は仕方なく空になった器を持ち、「おかわりを……」と席を立った。ミルトはテーブルに伸びた地図をルナたちにも見せるように角度を変えながら、「アクスジールに着くまでに検討しておきたいことは山ほどある」と話を続ける。


「そちらも大変なんですね。私たちはただ馬車に乗って行くつもりだから……。でも、町の様子とか、海の物流の仕組みとか、どんな感じなんでしょうね」


 ルナが穏やかに問いかけると、ミルトは「海賊に由来する街だが、いまは商業が中心で……」と説明を始める。海と船を通した交易のダイナミックさや、そこで起こるトラブルのリスクなど、聞けば聞くほど興味深いが、ルナは少し複雑そうな表情を浮かべる。危険と隣り合わせだという話も少なくないからだ。


「まあ、心配するな。俺たちで安全を確保するのが仕事だからな」


 ガウディが豪快に笑って言い、さっきまで黙っていた見習い商人が「僕もどんな商機があるか楽しみですよ」と加える。マイキーはそんな話は上の空といった風に、さっそくお代わりのミードが運ばれてくるのを待っているらしい。

 こうして夜の宿の食堂で、にぎやかなテーブルを囲む彼ら。ルナも「おいしい魚料理が来るんだ……」とワクワクしながら、ハクの頭を撫でて、その時を待った。夕暮れはすでに夜の帳へ変わりつつあり、湖畔のログハウスに、穏やかでちょっぴり賑やかな夜が降りてくるのだった。


 食堂がさらに賑わい始め、人々の笑い声や食器の音が混じるなか、宿のスタッフたちが夕食を続々と運んできた。まずテーブルに並んだのは、トラウトの切り身を小麦粉で軽くまぶし、フライパンで両面をこんがりパリッと焼いたもの。そこにタマゴ・香草・ピクルスをみじん切りにした、タルタルソースのような具材がたっぷりとかけられていて、魚の香ばしさと爽やかな酸味が食欲をくすぐる。


 続いて運ばれてきたのは、トラウトをざっくりと一口大に切り、豊富な根菜とともに煮込み、ミルクと小麦粉でとろみをつけたシチュー仕立て。野菜の甘みと魚の旨味がやわらかく溶け合い、深いコクが感じられる一品だ。


 そして最後の大トリとして、ドーガ自身が頑丈そうな手で抱えてやってきたのは、ルナが釣り上げたニジマスのパイ包み焼き。サクサクのパイをナイフで切り開けば、ふわりとした魚の身が湯気とともに現れ、豊かな香りと脂ののった身の輝きが食欲をさらに刺激する。釣り上げたばかりの新鮮さをそのまま閉じ込めた贅沢な料理に、ガウディや冒険者たちも思わず歓声を上げるほどだ。


 色とりどりの魚料理がテーブルに並ぶ光景は、まるで小さな祝宴。宿の食堂は香ばしい香りと人々の笑い声で満たされ、ルナとハクも「こんなにいろんな料理があるんだ……!」と驚きと喜びを噛みしめていた。


 ガーガーダックの骨付きもも肉の丸焼きを「まだ終わりじゃないぜ、ハク。おまえさんにはこいつだ!」と宿のオーナー・ドーガが運んできたとき、すでに名物のトラウト料理を堪能していた食堂の空気は、一段と盛り上がりを見せた。


 香ばしい焼き色のついた骨付き肉から漂う食欲そそる匂いに、ハクは「わふわふ(おにくおにく)」と目を輝かせる。   先ほどまでトラウトのシチューをたっぷり味わっていたルナも、その丸焼きの迫力とおいしそうな香りに思わず笑みをこぼした。トラウトのホイル焼きやほうれん草とトラウトのグラタン風など、想像するだけでも心が躍るが、たった今目の前に運ばれたガーガーダックの骨付きもも肉のインパクトには、やはり目を奪われる。


 ルナはパンを片手にしながら、そっと視線を周囲へやった。少し固めのパンをちぎってはトラウトのシチューへ浸し、パクパクと食が進む。仲間たちの席ではミードからエールへ移行した大人たちが、さらに深い夜の宴に突入していて、話し声と笑い声が食堂に満ちていた。


 ガウディは少し酔いの回った頬をほころばせながら、「ルナ、好きなだけ食べな。明日にはまた馬車に揺られるんだ、いまのうちに栄養を蓄えておけ」と声をかける。


 見習い商人と二代目リベラ商会のミルトも、食事をしながら海岸での商談や、海都アクスジールでの予定をあれこれ語り合う。途中で猫獣人のマイキーがフラッと寄ってきて、彼らのエールを横取りしつつ、「ふにゃあ、まだまだ飲めるにゃ」と笑顔を見せるたび、笑いが絶えない。


 ルナはそばに置いたマジックバックをちらりと見て、旅の支度はほぼ整っているのを確認しつつも、いまは目の前の料理に集中する。釣りあげたトラウトをパイ包み焼きにしてもらったものも絶品だったし、シチューにホイル焼き、グラタン風の一皿にまで手を伸ばしたいが、すでにお腹はいっぱいに近い。ふと視線をハクにやれば、骨付き肉にかぶりついて「わふわふ」と尻尾を振っている。その様子が微笑ましくて、ルナはまたほんの少しだけパンをシチューに浸した。


 食堂には絶え間ない笑い声と湯気、そして食事の香りが立ち込めて、さながら小さな宴会場と化していた。外では湖面が月明かりを受けてしんと静まっているというのに、こちらはまだまだ夜が続く気配が濃厚だ。ミルトはエールを片手に苦笑しつつ、「商談に響かなきゃいいがな」と肩をすくめた。


 ルナは満腹と眠気の境界で、ふわふわとした気分になりながら、「やっぱりトラウト料理もガーガーダックも両方味わえるなんて贅沢だなあ」と感慨深く思う。ほんの少し前までは、生きるだけで精一杯だった。そんな自分が、こんなに豪華な食事とにぎやかな仲間たちに囲まれていることが、どこか夢のように感じられた。


「いい匂いがずっとしてたから、もしかしてこれで終わりかと思ったら……ああ、さすがにもう何も入らないや」

「わふ……(もう十分)」


 ハクもすっかり満足げで、骨から外した肉片を平らげては、のんびり眠たそうに頭を垂れる。ルナはその柔らかい毛並みを撫でつつ、周囲を見回した。人々の笑顔や談笑が広がっているこの場所は、一時の安心と幸せが約束された空間のようだ。


 そんな夜の喧騒の中、ルナは「明日はまた馬車で移動か……」とわずかな切なさを抱えながら、同時に次の街への期待に胸を弾ませる。海辺の街アクスジールでは、どんな風景と出会えるのだろう。ハクが小さく鼻を鳴らして顔を上げ、ルナを見た。


「わふ……(たのしみだね)」

「うん、楽しみだよ」


 そう小さく囁きあい、彼女たちは、この夜の宴を最後のひとときまで満喫しようと心に決めた。


 ◆◆◆


 湖畔のログハウス、冒険者や釣り人の間では「ドーガの宿」として知られている場所は、とにかく朝が早い。宿泊客の大半を占める釣り人たちは、朝まずめを逃すまいと夜明け前から起き出し、釣り竿やルアーなど道具一式の準備に余念がない。

 時間、季節、温度、風など、あらゆる要素が魚のいるレンジ(深さ)やストラクチャー(遮蔽物)への付き方を大きく左右するからだ。

 この日の朝もまだ暗闇が残るうちから、人々は桟橋や湖の周囲に散り始めている。


 バッツとガイも例外ではなく、大物狙いの仕掛けを寝る前に組み立てておき、朝の一番活性が上がる時間帯に備えていた。


 朝日が昇りきらない今こそ、表層を意識する魚をトップウォーターと呼ばれる仕掛けで狙うのがセオリー。わずかな物音や水面の波紋すら見逃さないよう、湖面を凝視しながら繰り返しキャストを行い、水の流れ込みや木のオーバーハング、湖に設置された桟橋などへルアーを投げ込んでは、わずかな動きに集中する。

 表層で食わせる釣りは釣り人の興奮を最もかきたてると言われるが、それが証拠のようにバッツとガイは朝の冷たい空気などものともせず、生き生きとした表情で釣り糸を結んでいた。

 光が少しずつ湖面を照らし始めると、あちこちで同じように竿を振る人たちが増え始め、見慣れた釣り客同士が言葉を交わしながら腕を競い合っている。夜のにぎやかな宴が嘘のように静かな湖畔には、ルアーが水面を割る音と、小さな歓声が時折響いていた。


 湖畔のあちこちで釣り人たちの掛け声や小さな歓声が聞こえるころ、ガウディはいつものように愛馬を丹念にブラッシングしていた。朝の冷たい空気の中でも、その動作はまるで儀式のように落ち着いていて、愛馬も心地よさそうに鼻を鳴らす。


「今日も頼むぞ」


そう言いながらガウディが愛馬のタテガミを撫でていると、いつの間にか宿のベッドに寝かされていたルナとハクが、少し眠たそうな顔で起きてきた。ルナは目をこすりながら、ハクも大きくあくびをして馬車のそばへ足を運ぶ。


「おはようございます、ガウディさん……昨日はすみません、いつの間にか寝落ちしちゃってたみたいで」


「おはようさん。気にすんな。昨日は大人たちに付き合って遅くまで騒いじまったからな。ベッドに運んどいたのも、ハクと一緒に寝かせてやりたかっただけさ」


そう言ってガウディは笑ってみせる。ルナは「ご迷惑をおかけしました……」と頭を下げたが、ガウディはなおさら楽しそうに肩をすくめた。


「迷惑なんかじゃないさ。むしろ楽しかったぜ。俺たち大人の宴会に巻き込んじまって悪かったな。さっきまで湖で釣りの連中が大騒ぎしてたけど、バッツとガイがまた大物狙いらしいぞ」


「そうなんですね。私もちょっと見に行きたいけど……ひとまず、顔を洗ってきます。ハクも一緒に……」


 まだどこか寝ぼけたような顔をしているルナが恥ずかしそうに言うと、ハクは「わふ」と返事するように尻尾を振る。ガウディは「行ってこい行ってこい」と手をひらひらさせて、また愛馬に向き直った。


 ルナは裏手にある水道ポンプのところへ急ぎ、冷たい水をバシャッとかぶって眠気を完全に吹き飛ばす。ハクもそばにちょこんと座りながら顔を振る仕草を見せ、それを見たルナは微笑ましく笑った。


 朝の光が湖に差し込むころ、馬車の周りではガウディ便が出発する支度を始めようとしていた。ルナは顔を洗って目をぱっちりさせながら、改めて今日という日に期待を膨らませるのだった。


 湖畔から突然、ひときわ大きな歓声が上がった。どうやら七十センチはあろうという大物が釣り上げられたらしい。ルナも思わず「またバッツさんかガイさんがやったのかな?」と期待して湖に視線を向けたが、竿を高々と掲げていたのは、齢七十六にして釣りキチで名高い伝説の老人だ。

 その爺さんはこの湖で何度もランカーサイズを釣り上げているらしく、周囲の釣り客からは大きな喝采とため息を同時に受けている。バッツとガイも「くそー、負けた」「悔しいぜ」と悔しそうに唸りながらも、いつもの慣れた手つきで素早く撤収作業を始めた。ほんの数分で釣り具をまとめ終え、後ろ髪引かれつつも宿へ足を向ける姿はさすが手慣れた冒険者だ。


 一方、商人のミルトと見習い商人も起床し、ガウディ便のメンバーは全員が宿の正面に集まり始めた。猫獣人のマイキーは、なぜか朝から食堂でミードを飲んでいたらしく、顔をほんのり赤くしてふらりと合流してくる。ガウディは「さて、そろそろ行くとするか?」と声をかけながら、愛馬の様子を確かめている。


 そこへ、宿のオーナーであるドーガがスタッフと一緒に朝食を運んできた。「うちの名物のもう一つは、こいつだ」と誇らしげに指し示したのは、大きめのバゲットをこんがり焼き上げ、その上にトラウトの燻製をほぐした身と、シャキッとした葉野菜を混ぜ合わせてチーズを乗せ、軽く炙った特製トースト。朝の冷たい空気のなかで、チーズの香ばしい香りと燻製の旨味がふわりと広がり、誰しもが思わず鼻をくんくんさせてしまうほどそそられる。


 ルナは「うわあ……おいしそう」と瞳を輝かせ、ハクも「わふわふ(たべる!)」と尻尾を大きく振る。バッツとガイも「こいつは反則級にそそられるな」「釣りのリベンジはできなかったが、最後にいいもん食えるなら満足だ」と、あっという間に席についてトーストにかぶりつく。見習い商人は「これも勉強になります!」などと言いながら、しっかり味を堪能している。ミルトやマイキーもそれぞれエールやミードを手にして気だるそうにしつつも、その香りに抗えないようだ。


 こうして、ガウディ便の出発前の朝は、まるで小さな宴会のような雰囲気に包まれる。湖畔の宿らしい新鮮な魚料理と、山盛りのバゲットトーストの香ばしさに満たされながら、ルナとハク、そして仲間たちは次なる旅路への活力をしっかりとチャージしていた。


 ◆◆◆


 今日のガウディ便は、湖から川沿いに下流へ向かって森林の中を下る行程が中心になる。昼までには森林地帯を抜けて、広々とした草原に辿り着く見込みだ。宿の前には馬車が整然と並び、ドーガとスタッフたちが名残惜しそうに手を振っている。


「ドーガ、今度はアクスジールから戻って、数日後にまた来るぜ。そんときは頼むな」

「おう、気をつけていけ。ハクもルナも、元気でな」


 ドーガは馬車の横まで来て、ハクの頭を軽く撫でる。ハクは「わふ」と嬉しそうに尻尾を振り、ルナも「ありがとうございました」と深く一礼した。昨日はしっかり食べて、今朝も名物トーストで腹ごしらえができたおかげで、旅に出る心構えも万全だ。


「よーし、出発するかー」

ガウディの声に応えるように、冒険者のバッツとガイ、二代目リベラ商会のミルト、見習い商人、猫獣人のマイキーら乗客がそれぞれ席に落ち着く。馬が鼻を鳴らして待っていたところに鞭が軽く当たると、ガウディ便の乗り合い馬車はスムーズに動き出した。


「しゅっぱーつ!」

ルナは元気よく声を上げながら、今回は御者台の隣に腰を下ろす。いつもなら車内の席に座るところだが、せっかくなら森から草原へ移り変わる風景を思いきり楽しもうという気持ちだ。ハクはリードを首輪につけた状態でルナの足元にちょこんと居場所を見つけ、揺れる馬車の合間に周囲を好奇心いっぱいに見回している。


 宿のスタッフたちが手を振って見送る中、ガウディ便はゆっくりと木造のログハウスをあとにして湖畔を走り出す。やがて道は山あいの森へと続き、昨夜と同じように深い緑が覆いかぶさるようになってきた。だが今日は下流沿いに道が伸びているからか、馬車の揺れは幾分ゆるやかで、朝の光を浴びた緑の葉がきらきらときれいに見える。


 ルナは「どんな草原が待っているんだろう」とわくわくしながら、川のせせらぎを耳に感じつつ御者台からの景色を眺める。ハクも同じように鼻をひくつかせ、風に乗る森の香りを味わっているようだ。ガウディはそんな二人の様子を横目に、得意げな口調で言う。


「このまま順調に進めば、夕方には森を抜けて草原に出るはずだ。いまは川沿いを通るから道も比較的平らで走りやすい。ダイアウルフの心配も昨夜ほどじゃねえだろ」


 軽快に馬を操りながら話すガウディの顔は、どこか誇らしげだ。馬たちも昨日の疲れを感じさせず、リズミカルに足並みをそろえて進んでいく。ミルトや見習い商人は車内で何やら商談の続きをしているらしく、たまに笑い声が聞こえる。マイキーは酒の残りがあるのか、ガイたちと冗談を飛ばしているようだ。


 木立の先から差し込む日差しが次第に強くなり、林道の土がやや白っぽく輝きだすころ、ガウディ便は森の奥へ奥へと悠然と進む。ルナは「わふ」と鳴いているハクを軽く抱きかかえながら、「ああ、今日も素敵な旅になるといいな」と静かに願う。馬車は川から少し距離を取りつつ、ゆるやかな下り坂を続けていく。森林地帯と草原が交わる境目は一体どんな風景なのか――そんな期待を胸に抱きながら、ルナは心地よい馬車の振動に身を任せ、旅の次なる章へと足を踏み入れていった。


「ガウディさん、ドーガさんとはどんな冒険をしてたんですか?」

御者台に腰掛けていたルナは、ハクをなだめながら何気なく尋ねた。昨夜の宴の後も、ガウディとドーガが旧知の仲だと聞かされ、どんな冒険を共にしてきたのか興味が湧いたのだ。馬車はちょうど森の中を下り坂でゆっくり進んでいて、遠く川の流れがかすかに聞こえている。


 ガウディは手綱をさばきながら、少し照れくさそうに鼻をこする。「どんなと聞かれても、別に普通だぞ。ギルドからの依頼をこなし、たまにダンジョンに挑戦しながらいつの間にかBランクになってたってだけだ。特別な大冒険があったわけじゃない」


 すると、馬車の後ろから猫型獣人のマイキーの声が飛んできた。「そんな簡単なわけないにゃ。Bランクなんてそうそうなれるものじゃないでしょ」


「そうだそうだ!」と続いてバッツとガイも乗り出してくる。「俺たち、まだDだってのに……Bランクになるには相当な依頼をこなして実績積まないと無理だろう」


 彼らは冒険者として三年の経験を持つが、未だDランク。その苦労を思えば、ガウディがさも簡単そうに言うのが信じられないらしい。ガウディは肩をすくめながら、「まあ、ドーガが凄かったからな」とぼそりと一言添えた。


「ところで、ルナはいくつにゃ?」と、マイキーが横から首を突っ込む。いつの間にか御者台のすぐ後ろまで来ているらしく、そのしなやかな尻尾が視界の隅をかすめた。


「私は……Eです」


 そう言うと、ガイが驚いたように「なに! その歳でEだと?」と呆気に取られた様子を見せる。ルナは少し気恥ずかしそうに、Eランクに上がった経緯を簡単に話した。もともとFランクだったのに、なぜかDランクの依頼をミスで受理され、しかも石化治療に必要な月花草の群生地を偶然発見してしまったことで特例のランクアップが認められたのだという。


「月花草、か。そりゃ納得だな」ガウディが妙に感心したように頷く。

「月花草ってのは月夜にしか見つからない厄介な薬草でな、それが群生してる場所を見つけるなんて並大抵じゃない。コカトリスをソロで倒すより難しいくらいだ」


「コカトリスくらい倒せるっての!」とバッツが言い返すと、ガウディは「夜ならな」と鼻で笑う。ガイまで「昼に出くわしたら尻尾の蛇に睨まれて石化するか、毒まみれになるか……それ考えると厄介だよな」と苦笑し、マイキーも「にゃはは。気をつけるにこしたことないにゃ」と尾を揺らした。


 ルナは「そんなに難しいんですか? コカトリス討伐って……」と不安げな眼差しをするが、マイキーが「大丈夫にゃ。あたしも一緒なら何とかなるし、行くことになったら協力するにゃ」と笑って声をかけ、ハクは「わふ」と一声鳴いてルナを見上げた。


 馬車は川沿いの道をゆるやかに進んでいき、森の密度がわずかに薄れてきた。遠くで鳥の声が響き、空には朝日が広く射し込む。ルナはハクを少し抱き寄せながら、まだ旅は続くのだと改めて思った。Eランクになったばかりの自分とハク。それにガウディ便や仲間たち。次の目的地アクスジールへの道中は、まだまだ何が起こるかわからない。だが、こうやっていろんな人に支えられながら前に進むのは、悪くない感覚だった。

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