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第十二章「美食家マイキー」

 海都アクスジール、この都市を最後に隣国へ向かい魔導都市ミスティリアに辿り着かなければならない。ルナはハクの背を撫でながら、改めて行き先を考える。陸路を乗り合い馬車で行くか、あるいは海路を船で行くか。どちらも一長一短で、危険が伴うのは同じだ。陸路なら盗賊や魔物のリスク、海路なら海賊や海の魔物、そして天候の恐ろしさが加わる。どちらを選んでも安全が約束されるわけではない。


「日程とか、どこで聞けばわかるかな……」


 ルナがそう漏らすと、ハクは「わふ」と返事をする。見知らぬ大きな海都の通りを歩いていても、土地勘がまるで無い。自然と心細さを覚えるが、それならば——


「困ったら、やっぱり冒険者ギルドだよね」


 ハクが「わふわふ」と尻尾を振る。冒険者風の人を追いかければ、彼らはきっとギルドへ向かうに違いない。ルナは「行こう、ハク」と声をかけ、通りを闊歩しているいかにも屈強なパーティーの後を少し離れつつついていく。前後にも多くの冒険者らしき人たちが歩いているので、この流れに乗れば間違いないと確信する。


「たぶん大丈夫だよ。きっとギルドがあるのはあっちの方向だろうし……」


「わふ」


 ハクの小さな鳴き声を聞きながら、ルナはマジックバックを背負い直し、まばゆい日差しの差す海辺の大通りを進んでいった。頬を撫でる潮風には、これからどんな冒険が待ち受けているのかをそっと予感させるかのような、甘くほろ苦い匂いが混じっていた。


 大通りへ出ると、ひときわ目立つ大きな木製の看板が視界に入った。盾と剣のシンボルが掲げられ、隣り合うどの建物よりも一回り大きい。まさに海都アクスジールの冒険者ギルドといった風格だ。木造の扉と頑丈そうな壁、出入り口の傍には剣や斧を携えた冒険者らしき人々が出たり入ったりしている。


 入り口の正面にある掲示板には、ずらりと並ぶお尋ね者や懸賞首の顔写真が貼り出されていた。どれも目つきの鋭い悪党や魔物のシルエットが描かれていて、ルナは「こんなの相手にしたら大変そう……」と思わず息をのむ。一方でハクは「わふわふ(だいじょうぶ、やっつけるよ)」と自信満々な様子を見せるので、ルナは軽く肩をすくめて苦笑した。


「関わりたくないなあ……でも、これも冒険者の仕事なんだよね」


 ちらりと建物の中へ視線を送ると、思った以上に混雑している気配がする。カウンターに列ができていて、受付の職員が慌ただしく書類をやり取りしているのが遠目にもわかった。人の波に飲まれるのはごめんだとばかりに、ルナは一度足を止める。


「少し待ってから入ろうか。今入っても並ぶだけだろうし」


「わふ」


 ハクも同意するように短く鳴いた。大通りの風に乗って魚や海藻の香りが微かに流れてくる中、ルナはギルドの巨大な看板を見上げながら、次にすべきことを考える。ここでルートや日程の情報を得て、そして魔導都市ミスティリアへ向かう行き方を決める――新しい冒険がまた目の前に広がっているのだと、ルナは胸の奥で静かにわくわくを膨らませた。


 ギルドの入口から見える屋台で朝の仕込みが始まったのか、ハクの尻尾が忙しなく動いている。フェンリルの血を引くからか、普段からけっこうな量を食べるのは確かだが、魚でも肉でも野菜でも、人間の感覚でいえば雑食のように何でも食べるのは、ルナにとってはありがたいような、少し怖いような気分でもある。いつか本当に大きくなったら、狩った魔獣をそのまま食べてしまうんじゃないかと想像して、ルナは思わず苦笑いした。


 ふと目をやると、朝日の角度のせいか、ハクの背中の毛並みに淡い蒼白いストライプのような色が浮かんで見える。成長してきた証拠か、あるいは魔力がさらに色濃くなっているのかもしれない。そう考えると少しだけ不安もあるが、ルナは小さく笑ってハクに声をかける。


「ハクは今のままでいいんだよ」


「わふわふ(おおきくなるよ)」


「狼より?」


「わふ(もっと)」


「馬より?」


「わふわふ(もっともっと)」


「……ほどほどにしてね」


 そんな軽口を叩き合いながら、ルナはハクの背を撫で、そっと笑う。地平線から強くなり始めた朝の光が、その二人を柔らかく包み込み、青いストライプがちらりと揺れるハクの後ろ姿をふんわりと照らしていた。


「わふわふ(しってるひとくる)」

 ハクが小さく尻尾を揺らして鼻を鳴らしたかと思うと、ルナは周囲を見渡して「え、誰だろう?」と首をかしげる。すると、後ろから聞き慣れた声が響いた。


「おう、元気でやってっか?」


 振り向いた先には、バッツの姿があった。いかにも冒険者らしい革鎧を着こなし、軽く伸びをしながらルナとハクへ近づいてくる。


「バッツさん、おはようございます」

「おはよう。ギルドにちょいと手続きでな。ガイは海岸で釣りしてるよ」


 やはり彼らは海辺で釣りを満喫するようだ。ルナは納得したように頷き、「やっぱり、マイキーさんと話してたんです」と切り出した。バッツは「マイキーと一緒なのか?」と少し驚いた表情を見せる。


「宿を教えてもらったんですよ。『海鳴り亭』に泊まってて……」

「海鳴り亭か。そりゃ間違いねえな」

「マイキーさんもそう言ってました」


 バッツは「ふーん、あいつらしいな」と笑いながら、あたりを見回す。喧騒の中、冒険者ギルドの大きな看板がそびえ立ち、行き交う人や屋台が混在している。


「で、何してんだ?」

「次の目的地の行路を調べたくて。陸路か海路か迷ってて……」


 そう言いながらルナはちょっと困ったような表情を浮かべる。バッツは「簡単だろ?」と肩をすくめた。


「乗り合い馬車で行くなら御者の寄宿所で直接聞けばいい。船で行くなら港湾事務所があって、そこで聞けばスケジュールもわかるし舟券も買えるぞ」

「なるほど、ありがとうございます。で、その場所はどこにあるんでしょう?」


 バッツは「ははは、だよなあ」と大きく笑い声を上げる。そしてルナの背後にある大通りを指し示しながら言った。


「今いる場所がほぼ街の中心地だ。南に行けば海鳴り亭があるだろ? さらに海側へ進めば港湾事務所のある大きな建物が見えてくる。そっちで船の情報は全部わかる。んで、陸路なら西門方面へ行けば乗り合い馬車広場があるから、そこの近くに御者の寄宿所があって、行き先の馬車情報が集まってる。分かったか?」

「はい、ありがとうございます、助かります。行ってみますね」


 ルナが軽く頭を下げると、バッツは「おう、気をつけてな」と手を振った。ハクも「わふ」と一声鳴いて尾を一振りする。


「バッツさんも、ガイさんにもよろしくお伝えください」

「了解だ。またな、ルナ、ハク」


 そうして別れの言葉を交わしてから、ルナはハクと並んで西門のほうへ足を向ける。朝の日差しが白い石畳に反射し、海風の混ざった街の喧騒が後ろで混ざり合う。お互いが次の行き先へ歩き出す背中を見届けながら、海都アクスジールの一日はますます活気を帯びはじめていた。


「わふわふ(にしにし)」


「うん、西門、西門……」


 人混みの中を縫うように歩くハクは、大人の足元すれすれをすいすい抜けていく。ふさふさの尻尾がちらちら視界に入り、ルナはそれを目印にして慌てて追いかける。バッツに教えてもらった方角がなければ、この広い街で迷子になるところだったかもしれない。西門を目指すとわかっているだけで、なんとなく気持ちに余裕が生まれていた。


 しばらく進むと、ふと目の端にとまる屋台があった。左手のほうで、「木の実ジュース」と書かれた看板が揺れている。大きな青緑色の実を山積みにしているらしく、見たことのない形状にルナの好奇心がくすぐられる。


「わあ、木の実のジュースだって。飲んでみたいな」


「わふ?」

 ハクは首を傾げるだけで、ジュースにはさほど興味がないらしい。さらに「わふ(おにく?)」と小さく鳴くので、ルナは苦笑しながら「食べ物屋さんはまだやってないっぽいし、我慢しよ?」とハクをなだめた。


「すいませーん、一つください」


「はいよ、銅貨五枚だ。お嬢ちゃん初めてかい? うまいよ、これ」


 屋台の店主に銅貨を渡すと、二十センチほどある丸い木の実をひとつ手渡される。てっぺんに小さな穴が開いていて、どうやらそこから飲むらしい。ルナは両手で木の実を支えながら口に近づけると、穴から無色透明でややとろみのある液体が流れ出した。


「……あまーい!」


 想像以上の甘さが口中に広がり、ルナは目を丸くして驚いた。とろみの感じは、かなり糖度が高い証拠だ。まるで完熟した果汁そのものを飲んでいるようで、思わず頬が緩む。ハクは「わふ(たべものがいい)」と拗ねたように鼻を鳴らすけれど、ルナは「ごめんね、食べ物はまだ開いてないからもう少し待ってね」と頭を撫でてあやす。気づけば一息にごくごくと飲み干し、あっという間に殻だけが残ってしまった。


「ごちそうさま……すごい甘さだった。こんな甘いジュース、初めて。なんだか元気が湧いてくる気がするよ」


 店主に殻を返しながら微笑むと、「その木の実、運動してもバテにくくなるって評判なんだよ」とウインクしてくる。ルナは「へえ、ありがたい」と礼を言って、再びハクとともに西門を目指して歩き始める。


「よーし、ハク、甘いのに目覚めちゃったかも。もう少し進んだらお肉もあるだろうし、がんばろうね」


「わふ」


 優しい日差しと潮風が入り混じる街路で、ルナは先ほどの甘みを思い出しながら足取りを軽くする。にしにし、とハクが念話で囁くような気もして、二人は楽しげに進んでいった。


 ◆◆◆


 やがて開けた空間の広場に出ると、そこには何台もの馬車が止まっていた。どうやらこれから別の街へ出発するために整列している乗り合い馬車のようだ。ハクが「わふ?」と首をかしげるたび、ルナは心の中で「今からでも行けるけど、まだ心の準備が……」とつぶやく。


「もう少しここにいたい気もするし、どうしようかな」

 ルナは微かにため息をつきながら、近くに見える寄宿所の建物に目を移す。隣国ミスティリアへ行くならば、ここで御者たちに話を聞くのが一番早いはず。海都アクスジールの西門そばにあるこの寄宿所は、冒険者ギルドに比べてはるかに小規模で、入り口を入るとこじんまりとした食堂と簡素な受付カウンターが見える。受付の奥にはいくつかベッドが並んでいるらしく、御者としての仕事の合間に寝ている人もちらほらいるようだ。


「よし、聞いてみようか」

 ハクの頭を撫でてから、ルナは中へ入ってカウンターへ足を運ぶ。受付には落ち着いた表情の中年男性が座っていて、周囲の御者たちがちらほら準備をしている姿が見える。


「おはようございます。隣国ミスティリアへの乗り合い馬車があれば、日程や行程を知りたいんですけど……」


 男性は「ミスティリア行き? ちょうど今出発準備中のが一台と、それから三日後にももう一台あるな」と答えながら、手元の書類をめくる。ルナが少し緊張気味に耳を傾けると、「今のやつ」は本当にもう行ってしまいそうだし、自分もハクも心構えができていない。まだこの街での用事を済ませるつもりもあるため、少し考えることにした。


「じゃあ三日後の便に乗るとしたら、どれくらいかかるんでしょうか?」


「そうだな、途中何度か寄る街があるし、順調なら五日ほどで着く。料金は食事つきで銀貨十三枚、従魔がいるならそれに銀貨二枚追加ってとこだ。計十五枚だな」


「十五枚か……ありがとうございます。ちょっと考えてみますね」


 御者が提示してくれた料金は、1日につき銀貨2枚+雑費としては決して高すぎるわけではない相場だが、実際に払うとなると悩ましい額でもある。五日間もの馬車旅はハクも退屈してしまうかもしれないし、そもそもルナ自身も道中の危険を考えて、海路にするかどうか迷っていた。


「よし、一旦失礼します」

ルナは頭を下げて御者の寄宿所の外へ出る。ハクが「わふ?」と不思議そうに首を傾げるので、「五日間馬車で揺られるって、大変だよね」と話しかける。ハクは「わふわふ」と応えるが、まだ判断がつかないというようす。


「船のほうが道中は楽かもしれないけど、海には海の危険もあるし……。でも馬車だって盗賊や魔物が出るし……うーん。」


 頭をひとつ振って気を取り直し、「とにかく次は港湾事務所を調べようよ。船は出発時間や費用もバラバラみたいだし、まずは聞かないとね。ほら、南に行けばいいって言ってたから行ってみよう」とルナはハクの背を軽く叩いた。


「わふ」


 ハクは納得したように短く鳴き、ふたりは再び街の中へ足を向ける。真昼の日差しが石畳を照り返し、港からの潮の香りがますます強く漂ってきた。


 ◆◆◆


 寄宿所から大通りを東に戻ってくると、朝見かけた冒険者ギルドがまた視界に入った。人通りもじわじわ増えてきて、ハクが待ち望んでいた屋台も続々とオープンし始めている。


「わふわふ(おにくおにく)」


 ハクが鼻先をひくつかせ、尻尾を勢いよく振りながら、道沿いに並ぶ屋台のほうをじっと見つめている。海都アクスジールには魚の屋台が多いが、さすがにお肉が恋しくなったのだろう。ルナは「お魚ばかりじゃさすがに飽きたかな」と苦笑しつつ、看板をひとつひとつ見て回る。


「どの肉にしようか? ハクがあそこ……って、何て書いてある? シーバード? 海鳥かあ。鳥だけど海からの恵みを受けて育つってことだよね……」

「わふ(おにく)」


 ハクが無言の圧をかけるように尻尾を振りまくっている。どうやら「シーバード」という名前に食いついたらしい。ルナは「じゃあ行こうか」と屋台へ足を運び、「シーバード」と大きく描かれた看板の前に並んだ。まだオープンしたばかりの屋台なのか、並んでいる人はほとんどいない。おかげで焼きたての串をすぐに買うことができた。


「シーバードって、小魚を主食にしてるだって。だから鳥自体に軽い塩気があるって話……あ、タレもかかって照り焼きになってるみたい」


「じゃ食べようか。いただきます」

「わふ(いただきます)」


 ルナがハクの前でひとくちかじると、鳥肉らしい弾力が歯ごたえとなって返ってきたあと、濃厚な肉汁がじゅわっと溢れる。甘辛いタレとの相乗効果で、何とも言えない旨みが口に広がり、思わずルナは「おいしい……!」と声を上げる。ハクも負けじと噛みつきながら、「わふわふ(おかわり)」とさらに尻尾を振る。


「おじさーん、追加で2本お願いします!」

「はいよ。従魔もいい食いっぷりだねえ。そりゃ商売冥利に尽きるってもんだ」


 串焼きを焼いているオジサンは、にこりと笑いながら新たな串を炭火に乗せる。焦げ目がつくまでタレを塗り重ねる様子に、ハクは「わふわふ」といっそうテンションを上げている。ルナは申し訳なさそうに肩をすくめた。


「食いしん坊で困ります……でも、こうして一緒においしそうに食べてくれるのは嬉しいですね」


 オジサンは「そりゃいいことだ。お嬢ちゃんもどんどん食べてな」と笑い、じゅわっと滴る鳥の脂と甘辛ダレの香りを広げる。そんな香ばしい空気に誘われ、ほかの通行人たちも思わず屋台を振り返っていた。こうしてルナとハクはアクスジールの大通りで、またひとつ美味しい思い出を刻んだのだった。


 「ハク、行くよ」


 シーバードの屋台の前からなかなか離れようとしないハクを促しながら、ルナは南へと足を向けた。何度も後ろ髪を引かれそうになるハクに「また今度来ようよ」と言い聞かせつつ、先ほどまで口にしていた鳥肉の余韻を名残惜しそうに噛みしめて歩く。


「お魚もお肉もジュースも美味しくて、最高の街だね」

「わふ(さいこう)」


 ハクはしっぽをぱたぱた振りながら、まだ途中にある屋台にも興味津々な様子だ。ルナもつい、横目でチェックしながら通りを進む。やがて見覚えのある建物、海鳴り亭が視界に入ってきた。朝食を済ませたばかりのこの宿をもう遠目に見下ろしているということは、すでに朝の出発地点に戻ってきたらしい。


「海鳴り亭から船が見えてたもんね。ってことは、港湾事務所までは、そう遠くないね」

「わふ」


 潮の香りがぐんと強くなってきて、鼻腔をくすぐる。ルナは海鳴り亭を横目に確認しながら、先に伸びる道へと進んでいく。大型の船の甲板が建物の合間からちらりと見え始めたころには、すでに周囲の景色が港の雰囲気をまとうようになっていた。


「よし、もう少し頑張って歩こう。きっとあそこが港湾エリアだよ、ハク」


「わふ」


 大通りの先には、波止場を思わせる石畳や帆柱が点々と見えだし、人々の活気がまたひとつ変わった空気を生み出している。箱を積み下ろしする港湾労働者や、様々な商会の幟が翻る船のマストが視界を彩る。ルナは潮気に混じる魚や海藻の匂いを鼻いっぱいに吸い込み、ハクも「わふわふ」と嬉しそうに歩調を速めた。


「さあ、港湾事務所まで、あともうちょっとだね」


 日差しを受けて煌めく海面が、高く立つマストや大きな帆を背にして視界に広がる。ルナの胸には、ここからさらに先の海路が開かれる期待と、ほんの少しの不安とが入り混じったまま、ハクの足取りに合わせて港湾エリアへと踏み出していくのだった。


 広がる倉庫街を前に、ルナは思わず立ち尽くしてしまった。まさに「行けばわかる」などというレベルではないほどに、海都アクスジールの港湾エリアは巨大な倉庫で埋め尽くされている。多種多様な商会がそれぞれ倉庫を保有しているのだろうが、その数がこんなにも多いとは想像以上だ。


 見渡す限りの倉庫が林立し、その間を縫うように荷馬車や人足が行き来している。馬の鳴き声と木箱を積んだ車輪のきしみ、積み下ろしを指示する声が入り混じり、まるで雑踏を通り抜けるような騒々しさだ。ルナは一歩足を踏み出すだけでも、人の波を避けなければならない。


「ハク、轢かれないでね」と注意を促すと、ハクは「わふ(まけないよ)」と短く鳴いて、尻尾を振った。


「戦わないでね」と思わず苦笑いしながら、ルナは慎重に周囲を見回す。このあたりで「港湾事務所」という看板でも出ていれば良いのだが、大きな建物がいくつも同じように並んでいて、どこが目的の場所なのかさっぱりわからない。


 人足たちが荷車を押して通りすがる際、「すまない、通るよ!」と声を掛けられ、ルナとハクは慌てて脇に寄った。木箱や樽が山積みされた荷車が重そうに軋みを上げて通り過ぎる。その先にはまた別の倉庫が並び、同じように積み下ろしの風景が繰り返されていた。


 これほどのスケールで物流を行っているということは、商会にとって海都アクスジールがいかに大事な拠点かをまざまざと見せつけられるようだ。ルナは多少圧倒されながらも、一人と一匹でさらに歩を進める。魔導都市ミスティリアへ行くための海路の情報を得るには、船舶の運行を管理する港湾事務所に行かなくてはならない。それがどこにあるのか、聞き込みが必要かもしれない。


「もう少し先かな。ハク、気をつけて進もうね」


「わふ」


 ハクが「まかせて」というように鼻を鳴らし、ルナは港湾エリアのさらに奥を目指す。積み上げられた木箱の隙間を抜けたり、運搬に使われるレールが敷かれた箇所をまたいだりしながら、人の流れを読んで器用に歩く。あちらこちらで聞こえる「ほら、早くしろ」「この荷はどこに置くんだ」なんて声に、思わずルナは「大変そう……」とつぶやいた。


 けれど、その港湾事務所とやらを見つけなければ、ルートを決められないのだ。ハクがときどき立ち止まり、鼻をくんくんさせて別の方向を見やるたび、「戦わなくていいよ」「わふ」などと小さなやり取りを交わしながら、二人は荷物の山の合間へと足を進めていった。


 倉庫街を歩いていると、幾つもの商会名が看板に刻まれた倉庫の数々が目に入ってくる。ルナはハクと一緒に見上げながらゆっくり足を進めていると、その中に見知った名前を見つけた。


「オーベル商会……支部だね」


 この旅の依頼元でもあるオーベル商会は、本部がオーベルの街にあり、各地に支部を展開している。魔導都市ミスティリアにも支部があるのは、すでにルナも知っていた。だからこそ、ここで軽々しく接触するとややこしいことになるかもしれない。ルナは「何かあっては困るし、控えておこう」とハクに呟くと、ハクは「わふ」と短く同意するように鳴いた。


 さらに進んでいくと、今度は別の看板が視界に入る。読んでみればリベラ商会支部と書いてあった。乗り合い馬車で一緒だった二代目ミルト・リベラの商会だ。


「ハク、あそこ行ってみよう。ミルトさんに会えるかも」


「わふ」


 ミルト・リベラはたしかこの海都の支店で商いをするはずだと言っていた。ルナは「ちょうど話が聞けるかもしれないし」と思い立ち、倉庫の隙間を縫うようにしてリベラ商会の倉庫へ向かう。荷車や木箱の山を避けながら、ハクとともに倉庫の入り口を探し出すと、大きな扉が開け放たれていて、内側にはスタッフらしき人々が忙しなく動いていた。


「すみません、リベラ商会のミルトさんは……いらっしゃいますか?」


 ルナが入口近くにいた職員に声をかけると、その人は「ミルト様なら、奥の事務所にいると思いますよ。どうぞ」と軽く挨拶を返してくれた。ルナはハクと一緒に礼を言いながら倉庫の奥へ足を踏み入れる。中には数多くの木箱が積み上げられ、魔導具なのか海産物なのか、多種多様な品物が所狭しと置かれていた。港町の喧騒を思わせる独特のにおいが、倉庫の薄暗い空気に混じり合っている。


「さあ、ミルトさんに会えるといいね」


「わふ」


 二人はリベラ商会の支部の一画を進みながら、懐かしい面影に再会できるかもしれないと、ほんの少し胸を弾ませて奥の事務所を目指していった。


 「ミルトさーん」


 高く積まれた木箱の間を抜けるようにして進んでいくが、まるで迷路のように入り組んでいる。しかも、そこかしこで作業員が木箱を運んでいて、中には大柄な男性も多く、ルナとハクがすれ違うたびに潰されそうで少し怖い思いをする。と同時に、これだけの商品を保管し、しかも売れる当てがあるリベラ商会の規模を改めて思い知らされる。


「わふ(いた)」


 ハクが低く鳴き声を上げて尻尾を振った瞬間、行き止まりかと思ったその先から、ちらりとミルトが姿を現した。人足らを指示しながら淡々と業務をこなしつつ、立ち止まったところだったようだ。ルナを見つけるなり、ミルトは顔をほころばせる。


「こんなとこまでどうした? 何か用か」


「お力を貸していただきたくて……ルナです。覚えてますか?」


 ハクも「わふ」と小さく声を上げて挨拶するように身を揺らす。ミルトは「当然だろう。乗り合い馬車で一緒だったじゃないか」と柔らかい笑みを浮かべて、周囲の作業員に「少し中へ入る」と告げる。


「よく来たな。ちょうどいい、おいしい菓子と紅茶があるから、奥の事務所で話そう。ここは物騒だし、落ち着かん」


 ルナは背伸びをして周囲を見渡すが、木箱の上にいる作業員まで見えてしまうほどの混沌ぶりだ。ハクがしっぽを左右に振りながら、ここから早く抜け出したそうな気配を見せる。ミルトは先導するように歩き出し、ルナとハクがその後を追うと、木箱の壁を抜けて少し広いスペースに出た。


 そこには、しっかりした扉が取り付けられた部屋が一つだけあり、扉の上には「事務所」の小さなプレートが掲げられている。はた目には倉庫の奥まった場所にこんな“秘密基地”のような空間があるのが不思議だが、大商会ともなればこれくらい大掛かりな管理が必要なのだろう。


「さあ、入ってくれ」


 ミルトが扉を開けると、中には地図や書類が所狭しと並んだ机があり、壁際には魔道具らしきランプも見える。そこだけは比較的整頓されており、外の倉庫の喧噪がまるで嘘のように静かだ。ルナはハクとともに足を踏み入れ、期待と緊張の入り交じった気持ちでミルトを見上げる。


「それで、何を相談したいんだ?」


 そう声をかけるミルトの隣の机には、甘い香りが漂う菓子と、湯気の立つ紅茶がセットされている。どうやら彼も一息ついていた最中のようだ。ルナは「ありがとうございます、お邪魔します」と頭を下げ、ハクも「わふ」とおとなしく隣に控える。まもなく、商会の二代目との対話が始まることに、ルナの心は小さく高鳴っていた。


「魔導都市ミスティリア行きの船を探してるんです。どこで尋ねればいいのか、なかなか見当が付かなくて……」


 ルナが緊張ぎみにそう切り出すと、ミルトは意外なほどあっさりした口調で答えた。


「ミスティリアなら、うちの船に乗っていくといい。ちょうど明日出航だ。貨物船だけどな。大きい船だからそこまで揺れないぞ」


「え……そんなに簡単に?」


 ルナは思わず拍子抜けしてしまう。海都アクスジールの港で客船を探すとなると、煩雑な手続きや費用がかさむかもしれないと想像していた。それに、もともと乗り合い馬車か船か迷っていたところに、こんな形で話が進むとは予想外だった。


「船、乗ったことがないんですけど、大丈夫なんでしょうか」


「小さい船は波に影響されやすいし、かなり揺れる。ときには転覆のリスクだってある。でも大きい船は陸路に近い安定感があるからさ。もっとも、まったく揺れないわけじゃないけどな。風のある日は大きく揺れるけど、緩やかな揺れだから体も慣れやすいはずだ」


 ミルトが言うには、まぎれもなく貨物船だが、リベラ商会が保有する大型船だから乗せていく余裕は十分あるらしい。しかも――


「それで船賃はどれくらいかかりますか? あと、日数は?」


「船賃はいらねえよ。うちは旅客船じゃないからな。それに今回の便は積み荷にまだ空きがあるから人が増えたってかまわない。日数は天候次第だが、通しで三日もかからないはずだ。陸路みたいに夜ごとテント泊するわけでもないしな。海が荒れなきゃ早いぞ」


「そんな……ありがたいです! でもミルトさんは乗船されるんですか?」


「俺は今回は乗らねえよ。次の船に載せる荷物の手配があるからな。だけど船長には話を通しておくから、遠慮はいらんさ。ハクも一緒に乗せてやる」


「……ハクも一緒にいいんですか? ありがとうございます!」

ルナが思わずハクを見下ろすと、ハクは「わふ」と小さく鳴いて尻尾を振る。こんなにすんなり話がまとまるとは夢にも思わなかった。実際に乗るまではまだ心配もあるが、天候や海賊の脅威さえなければ、陸路よりも早くて快適そうだ。


「ありがとう、ミルトさん。それじゃ遠慮なくお願いしちゃいます。明日の出航なんですよね?」


「ああ。朝から動いてるけど、早朝に乗る必要はないから、ここへ来てくれれば荷を積む船長を紹介する。出航の時間もそんなに早くはないはずだ」


「わかりました。じゃあ、朝にまたここ(リベラ商会の支部)に来ますね」


 ルナは少しお辞儀をしてから、ハクとともに扉のほうに向かう。ミルトも笑顔で「気をつけて帰れよ」と送り出してくれる。こうして海路でミスティリアへ渡る手段が思いがけず整い、ルナの胸には安心感とわくわくとした期待が入り混じる。ハクも「わふ」と足取りを弾ませながら事務所を出ると、倉庫の隙間から射しこむ日差しが、一段と眩しく見えた。


 思いがけず、明日には船に乗り込むことが決まってしまった。海都アクスジールでの滞在はもう少し続くと思っていたから、ルナはどこか寂しさと名残惜しさを感じながら、でもこうして計画が急に進むほうが「秘密の旅」には都合がいいのかもしれないと考える。長く留まれば留まるほど、余計な目につく可能性もあるし、何より余計なトラブルに巻き込まれるのは得策ではない。


「ハク、海鳴り亭での夕食と、屋台での夕食、どっちがいい?」


 海鳴り亭の豪華で満足度の高い料理か、屋台で気軽に歩き食いか。どちらも捨てがたいが、ルナがそう問いかけた瞬間、ハクはちょっと考え込む仕草を見せてから、はっきり「わふ(うみなりてい)」と答えた。予想通りだったのか、ルナは微笑んで頷く。


「やっぱりね。あそこは味も量も最高だから。よし、夕飯は海鳴り亭にしようか」


「わふわふ」


 食いしん坊のハクは、足を軽く踏み鳴らすようにして尻尾を揺らし、すでに今夜のメニューに思いを巡らせているかもしれない。ルナはそんなハクを見て、再び微笑むと、今日は最後の夕方を使って少し街を歩いてみるつもりだ。


「それじゃあ先に、何かお土産になるような雑貨を見に行こうよ。お世話になった人にも、ちょっとしたお礼ができればいいよね」


「わふ」


 まだ日中の光が残る時間帯。ルナは、覚えたての道を確かめるように大通りへと足を向ける。観光客が多いせいか、雑貨を扱う店もいろいろあると聞いたし、屋台とは違った品揃えも期待できるはずだ。ハクが「わふ」と鳴いて尻尾を振るたびに、次々と通りすがる屋台をちらりと横目で見送りながら、中央の通りへと歩を進める。


「さて、どんなお店があるかな。ハク、食べ物の屋台は我慢だからね?」


「わふわふ」


 いつものように「お腹空いた」というよりは、「今は雑貨より食べ物が良いのに」といった雰囲気を醸し出しているハクだけれど、夜には海鳴り亭でごちそうを食べられるのをわかっているのだろう。少し拗ねたような尻尾の動きを見せながらも、素直にルナの足並みに合わせてくれている。


 港のほうで少し赤みを帯びた空が広がり出し、石畳を照り返す夕日がやわらかく二人を包みこむ。この街での最後の夜が、素敵な思い出として残るように。ルナは胸を弾ませながら、ハクとともに雑貨店の並ぶ通りへ向かうのだった。


 露店の棚の奥を覗き込むと、魚の形をしたブローチが目を引いた。バッツとガイの姿を思い出しながら、「魚といえば、あの二人にぴったりかな」と、ルナはくすりと微笑む。クローズアップして見ると、思った以上に精巧なつくりで、細かいウロコ模様まで彫り込まれていた。


「魚と言えばバッツさんとガイさん、こんなの似合いそう……でも、自分たち用にも何かいいのが欲しいなあ」


 売り子のおばさんと目が合い、軽く会釈すると、おばさんはにこやかに「ほかにもいろいろあるよ」と声をかけてくれる。その一角にクローバーの形をした小さなブローチもあり、ルナは少し考えたあと、ふと口をついた。


「すいません、お肉の形をしたのは……ありませんか?」


 いろんなモチーフのブローチが並んでいる中、意外なリクエストにおばさんが「あいよ、骨付き肉のブローチならこっちだね」とごそごそ探し出してくれたのは、可愛らしく骨が飛び出た肉の形をした金属製の小さなブローチ。肉の部分はほのかな赤みを帯びて彩色されていて、骨の部分は白い。思わずハクの姿と重なって、ルナは「これはハクによく似合いそう」と大きく頷く。


「おばさん、それください」


「はいはい、銅貨三十枚だよ。そこの魚のブローチも欲しいなら言ってね」


 ハクが「わふ?」と首をかしげながら見上げると、ルナは「ハクにつけたら可愛いかなと思って」とブローチを手にとって笑う。支払いを済ませ、装身具に小さな骨付き肉のブローチを取り付けると、ハクは不思議そうに鼻を鳴らしてお肉ブローチをしきりに嗅ごうとしている。


「うん、ぴったり。ハクらしくていいね」


「わふ(おにく)」


 ハクはちょっと納得したように尻尾を振り、ルナは「魚のブローチ、買っておけばバッツさんたちへのおみやげになるかも」と再び棚へ視線を投げる。しかし、今はまだ迷う気持ちもあったのか、いったん保留してお肉ブローチだけにしておくことにした。まばらな人の波を避けながら、ルナはブローチの輝きを確認して「やっぱりかわいい」と満足げに頷き、ハクとともに通りを先へ進んでいく。


 「ハクにお似合いのブローチが買えたし、そろそろ海鳴り亭に帰ろうか」


 木製の骨付き肉のブローチをハクの装身具につけ終えたあと、ルナはそう呟きながらくすりと笑う。ハクは「わふ(ごはん)」と鳴き、尻尾を大きく揺らしながら先へ進もうとせがむような様子を見せる。


「じゃあ、中央通りを南へ行けば海鳴り亭だから……。日が沈む前には着くはずだよ。今夜もおいしいもの、いっぱい食べようね」


 そんなふうに会話を交わしつつ、ルナとハクは夕暮れの中を歩き始める。オレンジ色の空は海のほうでさらに赤く染まり、潮風が肌を心地よくかすめていく。街道を見下ろすと、一日の仕事を終えた人たちがぞろぞろと宿や屋台に向かうところなのか、それとも夜の賑わいが始まろうとしているのか、どことなく活気が混じり合っている。


 海鳴り亭に戻る道の途中、通りには路地から顔を出す屋台がちらほら、早くも夜の商売を始めている光景が見える。ルナはふとハクの方を見て、「ダメだよ、さっきお肉のブローチを買ったばかりだから」と念話がわりに言い聞かせるが、ハクはちょっとだけそっちへ寄ろうかと視線をやるたび、「わふわふ」と返事をしてはすぐに歩調を合わせてくる。


 沈みかけの夕日が路地の石畳をまっすぐ照らし、二人の影をうっすらと長く伸ばすころ、海鳴り亭の木の看板がようやく見えてくる。ルナが玄関扉に目を留めて「戻ってきたんだなあ……」と軽く息をつくと、ハクはそのまま一目散に扉のほうへ向かおうとする。


「落ち着いてってば、ハク。まだお店の人も準備してるでしょ。……でも、わたしも楽しみなんだ」


 テント暮らしだった頃に比べ、豪華な海鮮料理や魚介スープに舌鼓を打てる宿の存在は、ルナにとってもハクにとっても夢のようだ。この海都アクスジールでの滞在は思いがけず短くなったけれど、せめて今夜は、そのおいしさと思い出を堪能できればいい――そう願いながら、ルナは夜風に揺れる扉の取っ手に手をかけた。


「ルナ、こっちに来るにゃ」


 海鳴り亭の入口をくぐった途端、賑わいの只中から猫獣人のマイキーがルナとハクを呼び止める。どうやらいつもの如く、当たり前のように良い席を確保し、エールを手にして盛り上がっているらしい。ルナは「ありがとうございます」と会釈しながら、ハクと一緒にマイキーの隣へ腰を下ろした。


「料理はもう頼んであるにゃ。座るにゃ」

「ありがとう。助かります」

「わふ(ごはん)」


 ちょうどタイミングよく運ばれてきたのは、大きな器に入れられた木の実のジュース。さっきまで歩き回って火照った身体がほっとする香りだ。


「これは飲んだかにゃ?」

「はい、この街に着いた朝に飲んで、すごくおいしくて一気に“好きな飲み物ランキング”入りしました」

「にゃはは。あれはポーションの材料にも使われるくらいで、少しだけど回復効果もあるにゃ。美味しい上に体にもいいなんて、いい薬だにゃ」


 ルナは「なるほど」と頷きながら、また口を近づけてごくりと飲む。甘くとろみのある果汁が喉を潤し、一日動いた体が癒されるようだ。

 マイキーはエールのジョッキを傾けながら、「たまに粗悪なポーションが出回ることがあるけど、あれは飲めたもんじゃないにゃ」と呆れたように話していると、横から白いエプロンをつけたスタッフが最初の料理をテーブルへ運んできた。


「マイキーさん、これは……」

 ルナは運ばれてきた器を覗き込んで、首をかしげる。具材が何も浮かんでいない、ただ透き通ったスープだけが並々と注がれているからだ。スプーンですくう前には色味すらわずかで、本当に味があるのか疑問に思ってしまうほど。だがマイキーは「騙されたと思って味わうにゃ」といたずらな笑みを浮かべる。


「海鳴り亭らしくないなあ……。それじゃ、いただきます」


 ルナはそっとスプーンを差し込み、黄金色に光るスープをすくって口に運ぶ。唇に触れた瞬間、さっと広がるうまみと微かな潮の香り、それでいて嫌な生臭さなど一切ない。一口で「あっ、おいしい……」と声に出た。


「にゃはは、騙されたにゃ? これは海藻を干してじっくり出汁を取ったあと、湯どうしした数種類の貝を加えてアクが出ないようにコトコト煮込むんだにゃ。で、すっかり味が出ちゃった貝や海藻は全部取り出して漉しちゃうにゃ。最後に残るのがこの澄んだスープにゃよ」


「見た目はシンプルそのものだけど、いっぱい具材が使われていたんですね。しかも具材を抜いてしまうなんて、よっぽど自信がないとできないやり方……。ほんとにすごいです!」


「わふわふ(おいしい)」


 ハクも「これどこに具材が……?」と言わんばかりに鼻をくんくんさせながら、「わふ!」と喜びの声を上げる。味がしみきった具はすべて排除し、澄んだ旨味だけを残したという大胆な手法。それだけでも海鳴り亭の料理に対するこだわりが感じられる。


 マイキーはエールのジョッキをカラカラと振りながら、「ここがアクスジール一の宿と呼ばれる理由がわかるにゃ?」と得意げだ。昨日とは違って舌がよく回るのは、もうだいぶ酔いが進んでいるせいかもしれない。ルナはハクの背を撫で、「この街も名残惜しくなってきたなあ……」と思わずつぶやく。


 そんな感慨深さを一瞬胸に抱きながら、ルナは再びスプーンを取り、澄んだ黄金色のスープを味わった。いつもの食事よりずっと繊細なのに、ガツンと心を鷲掴みにされるような風味がある。海と塩と貝の“うまみ”が、透明な一杯に凝縮されているのだろう。


「よし、これなら明日へのパワーになりそう。ハク、たくさん食べて体力つけようね」


「わふ!」


 海都アクスジールの最後の夜は、そんな上品なスープの驚きとともに、ゆっくりと更けていきそうだ。

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