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第十三章「はじめての船旅」

 海鳴り亭の料理にすっかり堪能されながら、ルナはエールをあおるマイキーに向かって口を開いた。


「マイキーさん、実は明日、ミルトさんの商会の船に乗せてもらえることになったんです。明日出発します」


「そうなのにゃ。船旅はのんびりできて、エールを呑みながら最高にゃ」


 マイキーはすでにジョッキを五つほど空けていて、目の前にはずらりと空きジョッキが並んでいる。ルナは苦笑しつつ、明日の予定を伝える。船は旅客船ではなく貨物船だが、二代目商人のミルトの好意で無料で乗せてもらえることになったのだという。


「二代目商人のくせに、気前良すぎにゃ。でも良かったにゃ。陸路と迷ってたんなら、ありがたい話だにゃ」


「はい。本当に助かってます。それで、行き先は隣国のミスティリアです。出国することになるんですよ」


「ふにゃあ、そうなのにゃ。気をつけるにゃ」


 マイキーはエールをまたひと口呑んで、気持ちよさそうに息をついた。テーブルの片隅にはすでに空いたグラスが積み重なりつつある。すると、マイキーが人差し指を立てながら、ハクのほうへ顔を向ける。


「今夜はハクのためにも肉料理、チョイスしてるにゃよ」


「わふ(おにく)」


「シーバードっていうにゃ。知ってるかにゃ?」


「あ、さっき屋台で串焼きを食べました。おかわりまでしちゃって……」


「にゃはは、抜かりないにゃね。ルナは美食家の素質があるのかもにゃ。だけど、海鳴り亭のシーバードは串焼きじゃないにゃ」


 ちょうど次の料理が運ばれてきて、話が中断される。黄金色にカラッと揚げられた大きな塊が、子供の拳くらいのサイズで山盛りになって皿に乗せられた。ハクは「わふわふわふ(はやくちょうだい)」と今にも飛びつきそうだ。


「シーバードの唐揚げにゃ。あとを引く旨さだから気をつけるにゃ~」


「わふわふ(たべるたべる)」


 マイキーは上機嫌に笑いながら、尻尾をピンと立ててエールを呑む。ルナは「ハク、熱いからゆっくりだよ」となだめるように言いながら、唐揚げをひとつ手にとってかじる。表面はパリッとした衣に包まれ、噛むとジューシーな肉汁とやわらかな旨味が口いっぱいに広がった。


「おいしい……。串焼きもよかったけど、唐揚げもすごいですね。ハク、焦らないでね」


「わふっ!」


 ハクが尻尾を振りながらはしゃぐ姿は相変わらず愛らしく、マイキーは「にゃはは、ハクはまっしぐらだにゃ」と上機嫌。ルナも思わず笑いながら、明日の船旅が控えているのも忘れて、最後の夜を惜しむかのように唐揚げを口に運んだ。夜はまだまだ続きそうだ。


 「ルナっち、ちょっと付き合うにゃ」


 マイキーが上機嫌な笑顔を浮かべながら、食堂の席でエールを飲んでいたルナに声をかけた。時計の針はすでに夜も更けようという時刻だが、マイキーはまるで気にした様子もなく「今からだにゃ」と言う。隣の席でうとうとしていたハクは「わふ(おなかいっぱい)」と低く鳴き、今はなにもせずゆっくり休みたいらしい。


「これからですか?」

「そうにゃ。近所だからすぐにゃ」

「うーん、ハクはどうしよう……」


 ルナが迷うようにハクへ目線をやると、ハクは「わふ(おなかいっぱい)」と繰り返す。マイキーが「ハクはお留守番にゃ」と軽く言うので、ルナも「じゃ、ハクは部屋で休んでてね」とひと声かけてから、ハクを海鳴り亭の部屋に置いていくことにした。ハクはまんざり気味にしっぽを振り、「わふ…」とまどろむように瞼を閉じた。


「よし、行くにゃ。すぐ戻れるから安心するにゃ」


 そう言ってマイキーは海鳴り亭を出て、隣の建物に足を向ける。ルナは「えっ、隣ですか?」と首を傾げながら、思わずマイキーの後ろを追いかける。そこには一軒家なのか別館なのか、こじんまりした建物があるだけ。まさかここに入るとは思ってもみなかった。


「そうにゃ。ここは海鳴り亭の別館で、入浴施設にゃよ。」


「あ、ありがとうございます。でも……サウナはもう嫌ですよ?」


「にゃはは、そんなこと思ってると損するにゃ。まぁ、ここのメインは風呂にゃ。サウナは入ろうと思えばあるにはあるが、強制じゃないにゃ」


 扉を開けて入ると、受付があり、そこから右手が女性専用エリア、左手が男性専用エリアに分かれているようだ。ルナは男性受付の視線を感じながら少し恥ずかしげに顔を伏せるが、マイキーは堂々とした様子で受付を済ませた。


「船旅の前にスッキリしとくにゃ。せっかく海都アクスジールに来たんだから、こういう施設も楽しんでいくといいにゃよ」


「ありがとうございます……。確かに、明日には乗船しちゃうし、汗流しておきたいかも」


 旅の途中での入浴施設なんて、ルナにとってはささやかな贅沢だ。しかも、海鳴り亭系列となれば、きっと清潔で充実した設備なのだろう。夜に別館へと入り込むことにも、少し非日常感がある。マイキーは「じゃあ、女湯は右にゃよ」と笑いながら、ルナを示してくれた。


「わたしはサウナにゃからね。まぁ、気にしにゃいでいいにゃ。ルナっちはこっちでゆっくりしてくるにゃ。何かあったら言ってにゃ」


 軽く尻尾を揺らしてウインクするマイキーに、ルナは「ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えて」と笑い返した。こうして扉をくぐると、木造の脱衣所があり、その奥にはふんわりと温かな湯気が漂っている。聞けば、名物の海藻を使った薬湯などもあるらしく、海鳴り亭が誇るもう一つの魅力がここに詰まっているという。


 さっそく服を脱いでかごに入れ、足先から湯船のほうへ進む。海の香りとは少し違う、柔らかな湯気が顔を包むたび、ルナは「これが海都アクスジール最後の夜なんだ」とほんの少し切なさを感じる。明日は船で出発して、もしかしたら長くは戻ってこないかもしれない場所。それを思うと、じっくりこの瞬間を堪能したくなる。


「よし、海鳴り亭別館……楽しもう」


 心の中でそうつぶやき、ルナは湯船へとゆっくり身体を沈めた。温かな湯が旅の疲れを溶かし、海岸を歩いた足のだるさや、未知の航路へ進む不安まで薄れていくような感覚が、身体じゅうに広がっていった。


 「ん……なんだか変な感じ。でも、じんわり効いてくる……」


 ルナが身体を沈めていたのは、一見ドロドロとした緑色の不思議な薬湯。ぱっと見は好き嫌いがはっきり分かれそうだが、実際には高い効能を求めてわざわざ浸かりにくる客が多いらしい。海都アクスジールは魚料理だけでなく、やたらと回復効果のある食材や入浴が多いような気もして、ルナは「もしかして薬膳の都市なのかな」と内心で苦笑する。


 思いのほか長く湯に浸かってしまったせいか、体にじわっと沁みわたるような疲労回復感がある。それでも、この“濃度の高い薬湯”を続けて入っていると少しクラクラしそう。   隣には湯船ごとに設置された休憩スペースがあるのがありがたい。ルナは一旦そこで息を整え、「さすが海鳴り亭、別館まで完備してて親切だなあ」としみじみ思う。


 次に挑戦してみたのは、隣のもう少しあっさり見える“薬湯”だ。ところが、湯に身体を沈めた途端、その刺激的な感覚に思わず声を漏らしてしまった。


「あ……あ、これ……し、び、れ、る………」


 軽い麻痺毒を含む薬草を使っているらしく、全身が微妙にビリビリと痺れてくる。とはいえ本格的な毒ではなく、筋肉の緊張を和らげる効能があるとのこと。慣れていないと「麻痺毒!?」と構えてしまうが、あくまでリラクゼーション目的の刺激らしい。


「む、り……」


 身体が痺れるような心地に驚きながら、ルナは慌てて湯船を抜け出して隣の“サラ湯”と呼ばれる、ただのお湯(もしくは極々控えめなハーブ入りの湯)へ飛び込むように移動する。頭からざぶんと浸かり、さっきの刺激が洗い流されるのを感じてようやく落ち着きを取り戻した。


「これは……ハクが入ったらどんな反応するんだろう」


 ふとハクのことを思い出すと、急に恋しさを感じる。いつも隣にいてくれる相棒がいないだけで、なんとなく心もとない。バタバタと湯を行き来しながら、ルナは「またマイキーさんに連れられてサウナかと思ったら、いろんな薬湯があるんだなあ……」と呆れ半分、感心半分で唇を噛み、青っぽい照明の落ちた浴室を見渡す。


「まぁ、こんな刺激的なお風呂、ハクが入ったら……嫌がるかな」


 思わず笑いながら、ルナはもう一度サラ湯でゆったり体を伸ばし、刺激の残る皮膚をなでる。明日は船旅——その前に、とびきり印象的な入浴体験で、海都アクスジール最後の夜を締めくくるのも悪くない、そう思いながら、彼女は少し冷えたタイルの縁に腰かけ、疲れた足を伸ばして深い息をついた。


 別館を飛び出して、すぐ隣の海鳴り亭へ戻ると、ルナはそのまま一気に階段を駆け上がり三階の自分たちの部屋へ向かった。心地よい湯浴みで身体がポカポカと温まっているのに、これからの船旅を考えると落ち着かない気持ちも混ざって、複雑な思いを抱えながら扉を開ける。


 ベッドの上にはすでにハクが寝息を立てていて、淡い月光を受けた白い被毛は、所々が蒼白いストライプ模様に照らし出されている。まるで夜の海面に反射する月光のように、その輝きが柔らかく毛先を踊らせていた。


「またちょっと大きくなってるかな……」


 ルナはそっとベッドの脇に近づき、寝返りを打つハクの背を撫でる。自分の身長がざっと一〇六センチほどだとすると、ハクの体長は八〇センチ前後。ついこの間までは子犬のように小さかったのに、今やルナの腰あたりまでくる大きさに成長している。フェンリルとしての血筋を引くなら、伝説的な王狼に匹敵する姿になる日も、そう遠くないのかもしれない。


「そのうち、私を背中に乗せて走り回っちゃったりするのかな……」


 そんな空想をしていると、くすっと笑みがこぼれる。ハクのまんまるに丸まった寝顔からは、すっかり食いしん坊で甘えん坊のままの愛らしさしか感じられないけれど、彼には限りない可能性と力が眠っている。ルナは少しだけロマンを感じつつ、心の奥で「いつかそんな日が来たらいいな」とほのかな期待を膨らませた。


「でも、まだまだ今はただの食いしん坊だね。大きくなっても、優しいハクのままでいてほしいけど……」


 食事の催促をねだる姿や、「わふ」と嬉しそうに返事する様子を思い出すと、自然と胸が温かくなる。ルナはベッドに腰を下ろし、ハクのやわらかな毛並みに指先を埋めるようにして、月夜の光を感じながらそっと瞼を閉じる。


 明日は船旅。出発はまだ確実な時間が決まっていないとはいえ、朝のうちにリベラ商会支部へ行けばミルトが段取りをしてくれるはずだ。初めての航海への緊張と興奮が胸をときめかせる一方で、無事に隣国ミスティリアまで行けるのだろうかという不安もある。けれど、いまはそんな思考すらふんわりとほどけてしまいそうなほど、身体が心地よく疲れていた。


「おやすみ、ハク……」


 ルナはハクのあたたかな背に頬を寄せ、夜風を受けながらまどろみへと誘われる。月の光が二人のシルエットを柔らかく包み込み、夢と現の境界が静かにほどけていく。かすかな潮騒の音だけが、遠くで夜の海を揺らしていた。


 ◆◆◆


「ルナっち、起きるにゃ」


 海鳴り亭の部屋で、朝日と潮風に包まれていると、いつものようにマイキーの声が飛び込んできた。まるでお母さんみたいな彼女の朝の呼びかけも、もうすぐ終わりを告げるのだと思うと、ルナは少し名残惜しさを感じながら、柔らかいベッドを離れるのを渋ってしまう。


「起きて、食べて、出航に備えるにゃ。今日は船に乗るんでしょ?」


「うん……わかってる。もうちょっとだけ……」


 布団にくるまっていると、せっかくの心地よい寝心地を捨てるのがもったいなく、思わず二度寝に引き戻されそうになる。けれどマイキーは「先に行ってるにゃ」と、尻尾をしならせるように振りながらあっさり出ていった。ドアが閉まる音とともに、ルナは気持ちを切り替え、ずっとベッドの上にいたハクを振り返る。


「よし、今日からまたがんばるぞ。ハク、おはよ」


「わふ(おきた)」


 ハクはのそりと体を起こし、尻尾を軽く振る。まだ眠そうな瞳だが、ルナが声をかけると「わふ」と一声鳴いてくれる。今日は人生初の船旅——しかも貨物船を使っての外国行きだ。内心で不安と希望がゆらゆら揺れている。自分で選んだ道とはいえ、“密輸”を疑われるような任務が控えていると思うと、緊張はぬぐえない。


 それでも、いまはこの部屋に感謝を示すように頭を下げて、少し鼻をくすんと鳴らしたハクと一緒にドアを開く。


「二日間お世話になったんだもんね、名残惜しいけど……ありがとう、部屋。じゃ、マイキーの確保してる“いつもの席”に行こうか」


「わふ」


 廊下に出ると、昨日までと同じ海鳴り亭の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。最後の朝食になるかもしれないという思いもあり、ルナは小さな心のはずみを感じながら階段を下りていく。ハクも鼻をひくつかせ、「もう今朝もおいしいものを食べられるんだ」と尻尾を振っている。


 食堂の空間は朝の光で淡く照らされ、釣り客や旅人がちらほら姿を見せている。マイキーが取ってくれたと思しき“いつもの特等席”には、空いた椅子とテーブルが用意されていて、リラックスした雰囲気が広がっている。これから始まる船旅の不安と期待が混ざり合う中、ルナは「さあ、食べて出発しなくちゃね」と、心を奮い立たせるように胸を張った。ハクは「わふ」とそっと鳴き、彼女の足元に並んで歩いていった。


 席に着くと、いつものように海鳴り亭の朝の名物――ブイヤベースが何の前触れもなく運ばれてきた。海鳴り亭に滞在した者としては、これでしばらくの食べ収めになってしまう。ルナは心の底から名残惜しさを噛みしめつつ、ハクに目をやる。


「ハク、お腹いっぱい食べようね」


「わふ」


 海鳴り亭の朝メニューは決まっているとはいえ、入っている海鮮の具材はその日によって変わるのが特徴だ。今日はなんだろう? 大当たりの日はロブスターがまるごと一尾入っているらしいが、そこまで豪華じゃなくとも、海老・イカ・貝類がふんだんに入ったスープは毎度のことながらボリュームたっぷりで、すべて新鮮でおいしい。ルナはスプーンを取って具材をすくい上げながら、これほど贅沢な朝食がこの宿の「日常」になっていることに、いまだ感嘆を隠せない。


 ふと視線を回すと、マイキーの目の前には空っぽのジョッキが何個も散乱していた。どうやら朝からかなりのエールを飲んだらしく、彼女は猫耳をぴんと立てながら「にゃっはっは」と上機嫌だ。そんなマイキーが、思い出したようにルナへ言葉をかける。


「大事なこと忘れてたにゃ。船に乗るときは飲み水を欠かさないことにゃよ。海が周りにあっても塩水だから、そのままじゃ飲めないにゃ。船乗りは水が足りなかったらエールを代わりに飲んだり、貴族様だとワインを日常的に飲んだりするんにゃ。貨物船なら尚更、自分のための水なんて準備してくれないかもしれないしにゃ」


「なるほど……ありがとうございます。船旅では、自分で飲み水を確保するのが大事なんですね」


 ルナは素直に感謝を述べながら、まだたっぷり入っているブイヤベースの器に視線を戻す。この後にはもう船へ乗ることになるなら、こういう細かな心構えを教えてもらえるのはありがたい。「貨物船は乗客のことは考えていない」とも言えるだけに、初めての船旅にはあらゆるリスクが潜んでいるのかもしれない。


「教えてもらえてよかった……。ミルトさんには船のことは頼んでるけど、細かい生活のことまでは……」


「ふにゃ、まあ船頭に聞けばなんとかなるにゃ。あたしも何度か貨物船に乗ったけど、飯も風呂も期待しにゃいほうがいいにゃ。エールばっか飲んでる連中もいるし」


 そんな雑談を交わしている間にも、海鳴り亭の朝ブイヤベースは熱々のまま減っていく。大ぶりのエビをかじっていると、ハクが「わふわふ」と飼い主の足をつんつんして合図を送ってくる。ルナは笑いながら、ハクにも小さくほぐした具を渡し、「焦らずゆっくりね」と声をかけた。心地よい潮風が窓から入り込む中で、こうして最後の朝を堪能できる幸せを、ルナはしみじみと感じ取っていた。


「食べたら飲み水を忘れずに準備して行くにゃ、気をつけて行くにゃ」

 マイキーはそう言い残すと、別れの挨拶を最後まで聞かぬまま、さっさと外へ向かって歩き始めた。ルナは「あの……」と声をかけようとするも、マイキーは軽く手を振って朝の雑踏の中へするりと消えていき、最後に一言だけ「また会えるにゃ」と投げかけるように残す。


「マイキーさんって、ほんと神出鬼没な人だったね」

ルナは呆気にとられながらつぶやき、ハクも「わふ(そうだね)」と賛同するように鳴く。ハクを見下ろして微笑んだルナは、「さて、行こうか」と気を取り直した。

「わふ(いく)」


 海鳴り亭の朝の賑わいを充分に楽しみ終え、荷物をまとめたルナとハクは玄関を出る。まだ朝の風が冷ややかに心地よいが、今日は船に乗る準備のために港湾エリアへ向かわなくてはならない。マイキーからもらったアドバイス通り、まずは飲み水を買い足したいし、ハクの食事分も念のため用意しておきたい。


「飲み水を扱ってる店は、港湾エリアの近くに必ずあるはず」


 潮の香りが朝の日差しを柔らかく包み、通りにはいそいそと行き交う人々の姿があった。ルナは「大丈夫、天候が安定していれば三日もかからない船旅なんだし……」と自分を励ますようにつぶやき、ハクとともに再び大通りを海のほうへ向けて歩み始める。


「船かぁ……不安もあるけど、楽しみでもあるよね」

「わふ(たのしみ)」


 ハクの短い鳴き声に力づけられ、ルナはマジックバッグを軽くなでながら足取りを進める。昨日まで見慣れた海鳴り亭の周囲と違い、朝の港湾エリアには倉庫や商会の人々が活発に動きだし、どこか独特の緊張感が漂っている。けれどルナとハクには、マイキーやガウディ、そしてミルトのような人々との出会いによる安心感があった。


「何とかなるよね。みんなが言ってたみたいに、回復効果のある食材とか、水の代わりの飲み物とか、いろいろ工夫して船旅を乗り切ろう」


 海の色を深めていく青空を見上げながら、ルナはそう胸の中で誓い、ハクは「わふ」と尻尾を振って応える。海鳴り亭をあとにした彼女たちの足音が、朝の港湾エリアの賑わいの中に溶け込んでいった。


 港湾エリアへ足を踏み入れれば、予想どおり船乗り向けの商店が軒を連ねていた。まるで市場のような通りには、「海都一安いのはうちだよー」「サービスつけすぎてクレームくるのはウチくらいだよ」「他店より安くするよー」と叫ぶ声が飛び交い、それぞれが客の取り合いをしている様子が垣間見える。実際には裏で協定でも結んで、潰し合いにならないようにしているのだろうが、とにかく客にとっては嬉しい相場になっているのは確かだ。


「どうせなら、リベラ商店で準備しようか」とルナはハクと相談し、辺りを見回す。自己主張の激しい看板が並ぶ中、目を凝らすと「リベラ」と書かれた店名が見つかった。


「よし、水とシーバードのお肉を買っておこう。干し肉もマジックバッグにはたくさんあるけど、新鮮なお肉もいいよね」

「わふ(おにく)」


 店先に入っていくと、さっそく笑顔の店員が声をかけてくる。商会の名前を出すと、店員が「おや、ミルト様の知り合いかい?」と納得したように頷き、商品を集め始める。

ルナは「水袋は五袋くらいお願いします。それと……」と希望を伝え、結局オマケの保存食までつけてくれるという過剰なほどのサービスを受けることに。港湾エリアの商店はどこも似たような対応らしく、競争が激しくてかえって客側は得をする構図なのだろう。


「それと木の実ジュースもいくつかほしいんです。あれ大好きなんですよ……」

「はいよ。うちは売るほどあるけど、いくついる?」

「うーん、じゃあ十個、お願いできますか?」

「オッケー、十個だね。こりゃ助かる。船乗りには好評だし、栄養価高いからね」


 軽く照れながらも大量の木の実ジュースをお願いすると、店員は「いい買い物だよ」と笑みを浮かべて、しっかり梱包して手渡してくれた。

 ルナはさっそくマジックバッグにしまい、ハクも「わふ」っと尻尾を揺らしながら荷物の様子を覗き込む。

船旅は何が起こるか分からないし、飲み水や非常食はいくらあっても困らないはずだ。


「ありがとうございました、助かりました。では、また」

「また来てね、リベラ商店をよろしく!」


 軽い掛け合いのあと、ルナとハクは店を後にする。これで最低限の準備は整った。港湾に潮の香りが乗った風が吹き、ルナは「ようやく出発できる」と心を落ち着かせながら、いつもお腹を空かせているハクの様子を横目で確認する。

 船乗りの買い物客が行き交う中、ふたりは港のほうへ歩を進めていった。


 怒涛のように行き交う荷馬車を避けつつ、ルナはハクを連れてなるべく道の端を選んで歩いた。ここ海都アクスジールの港湾地区は、毎日すさまじい量の貨物が出入りし、それをさばく商会が乱立している。ミルトのような商人はまさに、その“物を欲する場所”と“物が余る場所”を往来しながら、利益を生み出しているのだろう。


「商いの基本は“あるところから、ないところへ”……か」


 ルナはハクのしっぽに踏まれないように気をつけながら、考え深そうに呟く。商品が大量にある地域では安く仕入れ、不足している地域で高く売る。いかにも商いの鉄則だ。ところがこの単純な原則も、同じ国ばかりを相手にしていると、いずれ安定供給されて値崩れを起こし、利益が出なくなるというのは想像に難くない。


「だから、三カ国間での貿易……いわゆる三角貿易をするのが効率的なんだね。いつだって、どこかの国と取引しながら相手を変えていくから、需要と供給のバランスがうまく保てるわけか」


「わふ?」


 ハクはよくわからないというように鼻をひくつかせるが、ルナの視線は荷車と人の往来を見つめている。三国をぐるぐると回るうちに、いま自国では必要ないものでも、ほかの国では高値がつく、あるいは別の国ではまったく別の物資が安値で手に入る――そうしたチャンスを常に探すことで、商人たちは利益を生み出しているのだ。


「たとえば胡椒がすごく高く取引されてるのって、こういう貿易のおかげでもあるらしいけど、反対に貿易がなければ胡椒なんて存在さえ知らなかったはずだもの。だからこそ、ミルトさんみたいな商人は“どこで船を停泊させ、何を仕入れ、どこへ売るか”を常に考えて、船や馬車を動かしてるんだよね……」


 ハクは「わふ」と短く鳴き、何となくルナの考察を聞いているようなそぶりを見せる。遠くから大きな船を積み下ろししている光景がちらりと見え、積まれている箱にはあれこれと異国の文字が記されている。それを見るだけでも、世界にはまだ見ぬ商品と人々が無数に存在していることを感じさせる。


「ほんとにすごいな、海都アクスジール。それに、ミルトさんの商会も規模が大きいし……あの人は二代目って言ってたから、父親の代からこうやって商売の仕組みを受け継いでるのかな」


 考え込んでいる間に、ルナは荷馬車のわきで避けながら息をのんだ。相変わらずの喧騒の中、ハクが「わふわふ」と尻尾を揺らして先へ進もうとしている。ルナは急いで足を動かしながら、「まぁ、わたしは商売じゃなくて“秘密の依頼”を成功させることが大事なんだけど」と少しだけ背筋を伸ばし、大きな倉庫の合間を縫って進み続けるのだった。


 ◆◆◆


「ミルト様、ルナ様がいらっしゃいました」


 リベラ商店倉庫に来てみると、荷物の積み込みで倉庫内は慌ただしく、人や荷車が押し合いへし合いしている。足元には木箱があちこちに積まれ、作業員たちは絶え間なく「それをこっちへ」「急げ!」と声をかけ合っている。この混雑の中に入り込むのはさすがに危険と判断し、ルナはハクとともに倉庫の外で待機することにした。


「少し待っててくれ。いままとめてる貨物と一緒に船へ行くから」


 姿を見せたミルトがそう言うと、倉庫の奥へと急ぎ足で消えていった。途端に、周囲でバタバタと木箱を動かす音があがり、作業員が「9番の木箱が足りないぞ!」「いや、14番は向こうにある!」と叫び合っている。辺りは相変わらずの大騒ぎだ。ハクは尻尾をやや警戒気味に下げて、ルナの足元でおとなしく待機する。人の波にまぎれて走り回る作業員に合わせてルナが一歩下がると、ミルトが再び顔を出した。


「おい、8番が船に載ってないぞ。どこに置いた? 誰が担当したんだ?」


 そう怒鳴りながら、ミルトは木箱に貼られた数字を一つひとつ確認している。見るからに大忙しといった光景だが、彼も二代目商会長の名に恥じない的確な指示を飛ばしているらしい。作業員たちが「あれか? あっちか?」と慌てて走り回っている姿が、なんとも大変そうだ。


「ハク、邪魔にならないようにしとこうね」

「わふ」


 ルナはハクに軽く声をかけて、入口付近の安全なスペースで腰を落ち着ける。少し風が強いけれど、倉庫から吹き出る潮風と混じり合って、海都らしいにぎやかな匂いがする。いつも食いしん坊のハクも、さすがにこの状況を感じ取ったのか、大人しくルナの隣に座っている。


「落ち着いたらミルトさんが声をかけてくれるはずだから……ここで待ってようか」


「わふ」


 ハクは小さく鳴き、ルナも「よしよし」と微笑んで、その場の混乱が収まるのをじっと待つ。海辺の風がひときわ強く吹きぬけ、木箱の番号を叫ぶ作業員たちの声が倉庫の壁に反響している。船に積む最後の貨物が見つかって落ち着いたら、いよいよ出航の準備が整うのだろう。

 ルナは「船に乗るのは本当に初めてだな……」と胸を高鳴らせつつ、次の指示を待つためにハクと一緒に少しだけ身を縮めていた。


 やがて喧騒が落ち着き、倉庫内の騒ぎもひと段落ついたころ、外からは船の汽笛があちこちで響きはじめた。出航の準備が整った船が合図を発するように、それぞれが自分の役割を終わらせるタイミングを告げているのだろう。


「よし、これで最後だ。ルナも待たせたな」


 倉庫の奥から姿を現したミルトは、木箱を満載した荷車を連れ、勢いよく声をかけながら倉庫を出て行く。ルナとハクもその後を追いかけて倉庫街を進むと、港のほうで大小さまざまな船が並ぶ壮観な光景が広がっていた。その中でもリベラ商会の商船は、貨物船としてはかなり大きい部類に入るようだ。船体は複数のマストを備え、綿密なロープと滑車の仕組みが遠目にもわかる。思わずハクが「わふ」と小さく鳴いて、尻尾を揺らしながら圧倒された様子を見せる。


 船の横に到着すると、巨大な船体の脇で滑車やクレーンの仕掛けが忙しなく動き、最後の貨物を吊り上げているところだ。ルナは「すごい……」と口を開けて上を見上げるものの、船の本来の大きさが下からでは完全に把握できない。船上から作業員が大声で合図を送り、荷車に乗せられた木箱がゆっくりと空中へ移動していく。


「小さい船だとタラップを掛けて直接乗り降りや積み下ろしをするんだけど、ここまで大きいと荷物は滑車で吊り上げるしかないんだ。人だってハシゴやロープを使うことが多い」


 ミルトはそう言いながら、はしごを指差した。見上げれば船体の甲板はかなり高い位置にあり、波の影響を受けてわずかに揺れているのがわかる。ルナはそれを見て息を飲んだ。


「こんなに高い位置までハシゴで登るんですか……正直、この高さを登る自信ありません……」


「風で揺れるからな。慣れてる連中はひょいひょい行くけど、初めてだとなかなか怖いもんだ。ハクも不安だろう。滑車で吊ってやろうか?」


「お願いします。申し訳ないですけど、そのほうが確実に安全そうで……」


 それを聞いたミルトは「よし、じゃあ作業員に頼んで、いまのうちに君たちを吊り上げてもらおう」と言って荷役作業員に声をかける。ルナとハクは内心でひやひやしながらも、「陸路とは違うなあ……」と初めての船旅に対する緊張を改めて感じる。


「ちゃんとしっかり掴まっていれば大丈夫だ。風が多少強く吹いても、落ちないようにだけ気をつけろよ」


「はい、よ、よろしくお願いします」


 大きく漕ぎ出した船体の影には、いまだ積み込みを終えていない荷物が次々と運ばれており、作業員の掛け声と鉄具の軋む音が辺りに響き渡っている。ルナはハクの背を軽くなで、「もうすぐ船に乗っちゃうんだね……」と小声でつぶやきながら、人生初の船旅へ心の準備を高めていた。


 ルナとハクが乗った木の台は、作業員の掛け声とともにぎりぎりと滑車で吊り上げられる。下から仰いでいたミルトが「重い荷物をいくつも載せても平気なんだから、大丈夫だ!」と声をかけるが、実際に台が揺れると木のきしみ音が耳に突き刺さり、ルナは思わず強くハクを抱き寄せた。


「とても……高いです……」


「わふ(へいきだよ)」


 ハクはまったく動じない様子だが、ルナは眼下の景色が遠ざかっていく恐怖と潮風に揺られる不安とで、ほとんど目を開けていられない。台がさらに数メートルほど持ち上がり、風が何度かぐらりと台を左右に揺さぶるたび、心臓が飛び出しそうになる。


「そんじゃ、気をつけて行ってこいよ!」

下からミルトの励ましの声が飛び、間もなくガコンという音とともに滑車が止まる。台が甲板の手すりにぴたりと接すると、作業員が素早く固定用のフックをかけてくれる。


「……着いた……?」

 そっと目を開けると、そこには船の大きな甲板が広がり、海面を一望できる高い視点と潮の香りが混ざり合っている。船員たちが忙しなく行き交っているが、ルナに軽く手を伸ばして台を安定させる作業員もいた。


「あ、ありがとうございます……ハク、降りよう」


「わふ!」


 ルナはほっと息をついてハクを下ろし、恐る恐る台から足を下ろして甲板に立った。初めての船の甲板は、独特の木の香りと機材の金属音が混ざり合い、慌ただしい出港準備の活気に包まれている。


 下を見下ろせば、ミルトが手を振って見守っているのがわかる。ルナは少し呆然としながらも、ハクと一緒にぺこりと頭を下げた。


(いよいよ初乗船、これで本当に海の旅が始まるんだ……)


 船員たちのやり取りが飛び交い、潮風が一層強く吹きつける中、ルナは静かに胸の奥で気合を入れ直す。いずれ船が動き出せば、陸路の旅では味わえない体験が待っているだろう。ハクも「わふわふ」と甲板をくんくん嗅ぎ回り、早くも興味津々。ルナはその姿を頼もしそうに見つめながら、甲板を支える足元に少しだけ力を込めた。隣国ミスティリアへ渡る、まさしく第一歩を踏み出したのだ。


 甲板に降り立ったルナの目の前に、熊のように大柄な男が立ち尽くしていた。身体は分厚い筋肉に覆われ、船長帽をかぶっているにもかかわらず、どこか荒々しい印象を受ける。思わずルナがのけぞるようにして見上げると、男は豪快に笑みを浮かべて口を開いた。


「ようきたな。オラが船長だ。二代目からあんたの話はよう聞いとる。この貨物船は客の安全なんざ考えとらん船だ。だから立ち入っていいのは甲板と、そのすぐ下の階にあるリベラ家専用室だけだ。今回は特別に許可が出とるからよ」


「あ、えと……」


 威圧感に圧倒され、ルナは思わず言葉を失った。ハクもやや警戒気味にしっぽを揺らしている。それを見た船長は、がははと大きな声で笑い飛ばす。


「がはははは、ま、気楽にやれや! がはははは!」


 そう言い捨てると、大男の船長は操舵室のほうへと姿を消していく。その豪快な背中を見送りつつ、ルナはハクを振り返った。


「びっくりしたね……おっきな人」


「わふ」


 操舵室のほうからは、船長の声がさらに響いてくる。


「おまえら! しっかり仕事しやがれよ!」


「「「おう!」」」


 声が轟いた瞬間、船員たちは一斉に動き出した。錨を巻き上げる者、マストをよじ登る者、帆を広げる者、あるいは蒸気機関に燃料を投下する者――それぞれが自分の役割に集中し、息を合わせて作業を進めている。それを目にすると、なるほど“客の安全など構わない”とはいえ、プロの集団であることは一目で分かった。


 そして最後に煙突から勢いよく蒸気が噴き出し、低く鳴り響く汽笛が周囲を包んだ。リベラ商会の貨物船が、今まさに出航の準備を完了した合図だ。

 ルナは薄い振動を足元に感じながら、船がゆっくりと動き始めるのを、ハクと一緒に見届ける。人生初の船旅が、伝説のフェンリルを連れた少女をどんな未来へ運んでくれるのだろう――不安と期待がないまぜになった思いで、ルナは風になびく髪を手で押さえながら、広大な海へと船が進み出す瞬間を見つめていた。


 「リベラ家専用室……ミルトさんや、その初代が乗船したときに使うのかな。」


 甲板に立つルナは、船長に案内された「リベラ家専用室」という言葉を思い出しながら、少し身分不相応な待遇に戸惑っていた。ハクが「わふ」と鼻を鳴らしたのを合図に、ルナは「まだ出航しないみたいだし、ちょっと見に行こうか」と声をかける。


「わふ」


 甲板の中央あたりに降りる階段があり、その後方には操舵室へ続く上り階段が見える。ルナとハクはゆっくり注意を払いながら下りの階段へ向かった。船内に足を踏み入れると、思った以上に天井が高く、広い通路が続いている。少し先へ進むと、広めのスペースの奥に、扉の装飾がひときわ豪華な部屋があり、どうやらそこがリベラ家専用室らしい。


「わあ……すごい。」


 扉を開けると、部屋の中央には大きな机が置かれ、海図が広げられていた。周囲の棚には、各地の相場が書かれていると思しき書物がぎっしりと並んでいる。どれも企業秘密に違いないと察し、ルナは「見なかったことにしよう」と目をそらす。さらに奥へ目をやると、船の中とは思えないほどの豪華なベッドが置かれていた。金や銀の装飾はないものの、質のいい布が贅沢に使われており、夜になると極上の寝心地を得られそうだ。


「すごいね、ハク。」


「わふ(おふとん)」


 ハクは興味津々にベッドのまわりをうろうろしている。ルナはため息まじりに首をかしげ、「これ、本当に使っていいのかな。ミルトさんが許可してくれてるから大丈夫なんだろうけど……」と口にする。普段テント暮らしだったことを思えば、こんなに豪華な部屋を使わせてもらうのは気が引けてしまう。


 そんな思いにふけっていると、どこかから再び汽笛が鳴る音が聞こえてきた。いよいよ出航の合図だ。ルナとハクは顔を見合わせる。


「甲板に行こう。」


「わふ」


 あわてて部屋を出て廊下を戻ると、船がゆっくりと揺れはじめたのを足元で感じる。ドアを開け、上り階段を駆け上がっていくと、すでに甲板では船員たちがあちこちに配置され、帆や機関を調整している様子だ。ルナは心の奥に沸き上がる高揚と不安を抱きながら、ハクと共に本格的な船旅のスタートを迎えるのだった。

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