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第二話 優良遺伝子

 桜丘学園の敷地からアスファルトに足を踏み出した途端、まるで大気の層が一段分厚くなったかのような圧力を感じ、眞咲まさきは肺から息を漏らした。


 眞咲ら弘道こうどう高校ボランティア部の五人は、児童養護施設での活動を終え、渋谷駅に向かって歩いているところだった。列の先頭では奥平おくだいら悠馬ゆうまが夕雲の浮かぶ空を力強く見上げ、何やら息巻いている。


「いよいよ明日だ……明日の検査のために、俺は優良遺伝子力をこつこつと溜めてきたんだ……必ず、必ず優良を掴み取ってみせるぞ……!」


 眞咲の隣を歩くしずが、すかさず間違いを正す。

「あのね奥平君、何度も言ってるけど、優良遺伝子なんて言葉は科学用語じゃないし、ポリコレ的にも良くないの。そもそもは政府から遺伝子情報登録を委託された民間企業が勝手に言い出し始めた言葉で……」


「今はみんなが普通に使ってる。まあいつもの流れってやつ」

 と、水戸みと咲綾さあやが長い前髪の奥の目を上げ、頭上のスクリーン広告を指し示した。


 もうほとんどの屋外広告が鳴りを潜めてしまった中、ビルの上部に唯一設置された巨大な画面の中では、今現在ドラマで主演を務めている女優が道路わきのベンチに腰掛け、道行く人々を物憂げな表情で眺めている様子が映し出されている。


『運命の人なんていなかった。どれだけ探したって見つからなかった……だって、探し方が間違ってたから。探す物が間違ってたから』

 女優はおもむろに携帯の画面に目を落とす。するとそこに、『あなたの遺伝子がマッチングしました』という文字が表示される。顔を上げると、目の前にこれまた人気急上昇中の俳優が携帯を片手に立っている。女優は立ち上がり、二人は笑い合う。

『遺伝子。誰もが最初から持ってる、二重螺旋にじゅうらせんの糸。――マッチングミーム』


 渋谷の街を歩く人々は今さらそんな広告には見向きもしない。


 静は不満気にスクリーンを見上げながら言った。

「……遺伝子情報登録制度は犯罪の抑止や福利厚生の充実を目的として施行されたはずなのに」


 高村たかむら涼音すずねが携帯をいじりながら後に続く。

「でも実際犯罪は減ったし、福利厚生の役にも立ってんじゃない? 経歴詐称するバカ男も滅んだしさ。就活でも、遺伝子検査の結果提出させる企業増えてるみたいよ。面接で嘘ばっか言われるよりよっぽど信頼できるって」


「そう! 遺伝子は嘘をつかない!」

 奥平が拳を胸に当てて声高に言う。

「どれほどテストの点が悪かろうと、体育の成績が悪かろうと大した問題ではないのだ! 俺の中に眠っている遺伝子を呼び覚まし、明日の検査で評価されれば、優良遺伝子保因者と認められる可能性は十分ある!」


「オメーはどっからどう見ても劣等だよ。優良遺伝子ってのはな……」

 涼音が茶髪をなびかせて眞咲の側に駆け寄り、その腕を抱いた。

「こいつみたいな人間のことをゆーの。な、葉島」


「……そんなことに同意を求められても」

 眞咲は曖昧に笑うしかない。


 涼音は眞咲の腕をぶんぶん左右に振り回し、

「なー葉島ー。今の内に相手決めといたほうがいいぜー。優良って登録されたら、あっちこっちからお誘い来るんだからさー。もう明日からヌーの群れみたいに押し寄せてくるぜ。『アタシの子供作って‼』ってさー。ちなみにウチは前々からOKサイン出してるから」


「僕も前々から言ってるけど……そんな風に遺伝子だけを基準に相手を決めるのはよくないよ。もっとよく考えないと……」


 咲綾がずいっと眞咲の前に踏み出し、熱っぽい視線を正面から浴びせる。

「考えてる。産むとしても一生に一人か二人なんだから。ちゃんと厳選しないと」


「厳選って……」


「はいはい。そこまで」

 静がきびきびとした動きで眞咲の腕から涼音を引き剥がした。

「みんな今日ちょっとおかしいわよ。明日検査だからって浮足立ってるみたい。とにかく今日はもう早く帰りましょ」


「ウィス」

「これが正妻の余裕か……」

 涼音と咲綾は大人しく従い、奥平と合流して歩き出した。


 静はごく自然に眞咲の隣を歩きながら、そっと訊ねた。

「明日は、お父さんに会えそう?」


「どうかな……研究職らしいから表には出てこれないと思うし……」


 眞咲の父、葉島拓哉たくや拓哉は遺伝子研に勤めている。父がどういう部署でどういう仕事をしているのか教えてもらったことはないが、相当多忙なのは間違いないらしく、眞咲と二人暮らしのマンションには月に二、三度しか帰ってこない。眞咲がある程度自分の面倒を自分で見られる歳になった頃から、それは続いている。


「まあ先週は家に帰ってきたし、会えなくても別に何てことはないよ」


「そっか……もし何かあったら、またウチに来てもいいからね。昔みたいに」


 特に気負いも感慨も無く、するりと発された静の言葉。眞咲は隣で揺れる癖っ毛を視野の片隅に感じながら、ごく自然に答えた。


「ありがとう。静」

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