目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第五話 マーダーゲノム

 吹き抜け部分の二階、白衣の職員達が行き交う様を見下ろすことのできる通路の一角に、スクリーンとプロジェクタが設置されていた。


 案内係の女性はスクリーンの前に立ち、群れをなす生徒達に向かい、投影された資料をポインタで指し示しながら講義を始めた。


「遺伝子情報登録制度……それは需要の高まる非配偶者間人工授精A I Dを円滑に行うために、民間企業の間で徐々に広まっていった事業が元になっています。なぜそれが広まっていったのか、分かる方はいらっしゃいますか?」


 女性の問いかけに、高村涼音すずねはばかりもせずに答える。

「精子提供するとか言って経歴詐称する、セックス目当てのゴミ男が増えたからっすよね」


 何人かの女子が力強く頷き、何人かの男子が気まずそうな顔をした。


「そうです。自己申告などを当てにするより、その人物の遺伝子情報を参照した方が確実なのは当然。そこで国内の遺伝子産業は合同で出資し、どの遺伝子がどう組み合わさることで人間の特性が形作られていくのかを解明する発展的遺伝子行動学という研究をスタートさせました。研究が進むにつれて、IQ、勤勉性、同調性、社会性など、様々な特性の組み合わせが発見されていき、そしてついに、遺伝子研究の第一人者、金沢かなざわ藤次郎とうじろう教授は世界を揺るがす大発見をしたのです」


 そこで女性は眞咲まさきの顔を見た。眞咲は意を察して控えめに答える。

「暴力性遺伝子の発見……」


 女性は頷き、ポインタを操作して暴力性遺伝子についてのスライドを表示した。


「正確には暴力性遺伝子群。MAOA、CDH―13など、暴力的行動をもたらすとされる数多くの因子。金沢教授と研究チームはその無数の組み合わせを全て解き明かし、ついに一つの法則を特定しました。そこから当然の帰結として、その遺伝子の働きを抑えるための研究が始まったのです」


 そして次のスライド、今度は研究室の様子が映っている画像だ。

「当時すでにEXエクスCRISPRクリスパーによる遺伝子ターゲティング法は確立されており、特定の遺伝子のサイレンシングは難しいことではありませんでした。こうして……」


「VGS、暴力性遺伝子編集手術は瞬く間に日本中に、そして世界に浸透していったんですね!」


 奥平が得意げに大声を上げた。しかし女性は首を横に振った。


「いいえ、そう簡単にはいきませんでした。皆さんには信じられないかもしれませんが、当時は遺伝子編集技術は生き物の在り方を歪める行為として忌避され、法律で規制されていた時期すらあったのです。動物実験段階でも、国民の過半数が反対でした」


 スライドが次々に移り変わる。新聞の一面、テレビのニュース画像、ネットニュースの記事などだ。


『遺伝子編集、著名人が続々と反対を表明』『抗議活動、全国へ拡大』『遺伝子研内部からも批判の声』『与党は規制撤廃に意欲』『怒号飛び交う中、初の臨床実験』『優しい子に産まれてほしいだけ。中傷受ける母親の声』『欧米諸国が日本を名指しで非難』


 馬鹿げてる。イノセンティストじゃあるまいし――と奥平が憤慨した。


 女性は奥平に向かって目を細め、

「皆さんに留意して頂きたいのは、手つかずの遺伝子という意味ではほんの半世紀前まで全ての人間がイノセンティストだったという事です。皆さんのお祖父さんやお祖母さん、それより前の世代の人達全てが、暴力的な人間だったと思いますか?」


 数人が首を振り、あとの者は表情で否定の意を示した。


「日本において、VGS施術率が国民の九割に達したのはようやくここ数年のことです。日本の施術率は発祥から現在にかけて世界中で圧倒的一位であり、先進国と比べても格段に多い水準です。なぜ、日本でこれほどVGS手術が浸透したのでしょうか」


 奥平がまた大声を上げた。さっき発言を訂正された分を巻き返そうとしているらしい。

「それは日本人の平和を愛する心、そして順法意識の高さのおかげでしょう!」


 しかし今度は水戸咲綾さあやから否定の声が上がった。

「違うでしょ。日本人特有の同調圧力ってやつよ。手術を受けない親は、子供が犯罪者になってもいいって思ってるんだ――ってね」


 案内係の女性は咲綾に向けて頷いて見せた。

「恐らくそうでしょう。加えて、日本人の大半が無宗教であることも関係していると言われています。ともあれ臨床実験から二十年後には、反対派と賛成派の比率は完全に逆転していました。そうして時代が進むにつれて日本国内では暴行、傷害、殺人事件数が減少していったのですが、一方国外においては、世界的な変化が進行していきました。何か分かりますか?」


 と、女性はまたもや眞咲に向けて問いかけた。


「戦争や紛争など、武力衝突の減少……そして、大国の軍備縮小です」


「その通り。VGS手術が世界に広まると、真っ先に施術を希望したのは軍に所属する兵士とその家族達でした。政府によって手術を禁じられた国もありましたが、軍部高官の中からも大勢の希望者が出たため、結局止めることはできませんでした。これはどういう事でしょうか」


 さっきから女性が発言を求めてくるのは、自分が学年委員長だからなのだろうか。眞咲は頭の隅で思いながらも答えた。


「自分の子供に、人殺しをさせたがる親なんていない……史上類のない世界的な軍縮を実現したのは政府間の対話でも兵器による抑止力でもなく、親ならば誰もが当たり前に持つ感情だったということです」


 女性の目がきらりと光ったような気がした。


「……優秀ですね」


 得体の知れない感情のこもった視線が、眞咲の目を射抜く。


 ずいぶん長く感じられた沈黙の後、女性は唐突に講義を再開した。


「もっとも、前線に赴く軍人の数が減ったことのみを以て軍縮と言えるのかどうかは議論の余地があります。それに、テロや小規模な紛争は依然として世界各地で猛威を振るっています。またVGS手術そのものに関しても、未だ数多くの問題が残っています。それは例えば何でしょうか」


 眞咲が口を開く前に、なぜかしずが強い口調で答えた。

「自殺者の問題です。VGS手術では自殺を防ぐ事は出来ません。ですので、いじめやパワハラなど、『無形の暴力』による自殺は大きな問題として残っています」


 女性はゆっくりと視線を静に移し、

「ええ、そうですね。ヒトゲノムが余す所なく解析された現在でも、自殺という行動はどういう遺伝子のどういう働きによって引き起こされるのか、明らかになっていません。では、他には?」


「え?」

 静が戸惑う。質問を重ねられるとは思っていなかったようだ。


「VGS手術が持つ問題点は他に何があるか、分かりますか? 分かりませんか?」


 なぜか女性は静にはっきりとした圧をかけている。静は対抗するように大声を出した。


「わ、分かります! マーダーゲノムの問題です!」


 生徒達がはっとした。現代社会で最もデリケートかつ、忌まわしい言葉なのだ。


 女性はよく見ないと分からない程度に口元を歪めた。


「ではそのマーダーゲノムとは何か、説明できますか?」


「そ、それは……」

 静は口ごもった。勢いで口にしてしまったものの、説明するのも恐ろしいのだろう。すると奥平が助け船のつもりか、三度目の大声を発した。


「それはVGS手術でさえ抑えることのできない、とても強い暴力性、いや、殺人性遺伝子を持った恐ろしい人間達のことです! 親から子へと殺人性遺伝子を密かに受け継いだ、人を殺さずにはいられない、とてつもなく危険な連中なのです!」


 女性は何も聞こえなかったかのようにまるっきり奥平を無視し、またしても眞咲に目を向けた。眞咲は慎重に言葉を探しつつ、

「手術による、オフターゲット変異ではないかという記事を見たことがあります……EX―CRISPRが本来のターゲットである暴力性遺伝子と似た配列の遺伝子を切断してしまい、それに加えて、その……俗に殺人性遺伝子と呼ばれる因子を顕在化させてしまうとか……」


 女性は無言でポインタを操作し、スクリーンにオフターゲット変異についての論文を表示させた。その行動は明らかに、眞咲に更なる発言を促していた。


「そして……その殺人性遺伝子とされる因子は、とされています……」


 スクリーンに国外の事件の記事や資料が表示される。眞咲は女性の促しに乗って発言を続ける。まるで女性と眞咲の二人で講義を進行しているかのように。


「あるケースでは、同僚を刺殺して収監された男性が、出所後に結婚して受精胚にVGS手術を受けさせたところ、成長して十二歳になったその子は同級生をナイフで刺したと……。また、VGS手術を受けたにもかかわらず銃乱射事件を起こした犯人の家系を調べると、曽祖父がコマンド部隊に所属しており、多くの敵兵を射殺していたことが明らかに……」


「つまるところマーダーゲノムとは」


 女性は突如眞咲に向き直り、眞咲はほぼ反射的に言葉を継ぐ。


「ある特定の殺人技術を、遺伝子としてDNAの中に持っている人のこと……」


 静が怯えた表情で眞咲を見ている。生徒の間にも不安が広がっていくのが空気で感じられる。眞咲はその空気に押されるように質問をぶつけた。


「教えてください……その、マーダーゲノムと呼ばれる人々は、国内にどれくらいいるんでしょうか……」


「確認の方法が定められていないため、正確な数は分かりませんが、およそ数千人から一万人程度と言われています」


 静が驚きと恐怖に顔を歪めて言った。

「それだけの数の殺人者が、野放しにされているんですか……⁉」


 言った後に静はそれが失言だとすぐ気付いたらしく、狼狽して目を伏せた。


 女性は感情の読めない表情で静を見つめ、

「……ご心配なく。マーダーゲノムに関しては、遺伝子研が適宜『対応』しておりますので」

 それ以上は聞くなとばかりに言い切った。


 そして女性はプロジェクタースクリーンを切り、総括するように生徒達を見渡した。


「さて、これから皆さんは遺伝子検査を受け、数日後にその結果を受け取ることになります。自分という人間の全ての情報が書かれた設計図を、皆さんは手にすることになるのです。それは皆さんの今後の人生を左右する指標となり、社会において最も信頼できる身分証となるでしょう。ですがどうか、覚えておいてください……」


 女性は言葉を区切り、目を細めた。その途端、辺りの温度が急に下がったかのような感覚が生徒達を襲った。


「遺伝子はその編集技術が当たり前になった現在においても、未解明の部分が多く、また非常にデリケートかつ危険な情報体です。扱い方次第では、個人のみならずコミュニティの、あるいは一国の、ひいては全世界の趨勢を変えてしまうほどの力を持っています。これは決して大げさな言い方ではありません。ですので皆さん……」


 生徒達が一斉にたじろぐ。感じたのだ。その女性が発する、殺気とさえ言えそうなほどの凄気を。


「間違っても、良い子供を産むためのステータスなどではない――という事を、肝に銘じておいてくださいね」


 女子生徒の多くが、青い顔でがくがくと頷いた。


 圧し掛かっていた凄気が収まり、生徒達は息を吹き返したように深呼吸した。


「では検査に移ります。男女別かつクラス別に並んで、職員の指示に従ってください。集団検査ではなく個人検査を希望する方がいらっしゃれば、ご遠慮なくどうぞ」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?