事前に聞いていた通り、検査はごく簡単なものだった。血液採取、口中の粘膜及び唾液の採取、身体測定、問診、それだけだった。
一足先に検査を終えた一組の男子七名は問診室の前にある長椅子に座り、他のクラスを待つことになった。
奥平は採血された腕をさすりながらぶつぶつと呟いている。
「ずいぶんあっさりしたものだったな、葉島……。こんなので俺達の一生が決まるのか……。葉島? おい」
「え? あ……何?」
「さっきから落ち着きがないぞ。どうかしたのか」
「いや、別に何も……」
実は検査の間も移動中も、眞咲は密かに父親の姿を探していたのだが、それと思わしき姿は全く見えなかった。
奥平は急に真面目な顔になって眞咲を覗き込み、
「ひょっとして、お前も気づいたのか? この施設がどこかおかしいということに」
「え? おかしい?」
「ああ、考えてもみろ。日本どころか世界の遺伝子研究の中心地のはずなのに、たった三階建てってのはショボすぎないか。職員の数も想像より少ない。お前は何か気にならなかったのか?」
そう言われると……
「僕が気になったのは……あの案内係の女の人かな……」
「ああ、あの人な。確かに美人だが、性格キツそうだぞ。お前ああいう人が好みなのか?」
そんな訳がない。なぜか眞咲は頑としてそれを否定したくなった。
「違うよ。ただ、あの人……うーん、何て言ったらいいのか……」
その時。
突如として空気を切り裂くようなサイレンが耳朶を叩いた。
「っ……⁉」
火災報知機のようなベルの音ではない。人の危機感を否応なく煽るような不快な電子音だ。
「な、何なんだ……⁉」
奥平の大声も、このけたたましい音に霞んでほぼ聞こえない。
眞咲は立ち上がる。これが何らかの警報なのは間違いない。生徒達をまとめて、身を守る行動を取らせなければ――
と思うや否や、鳴り始めた時と同じく唐突にそれは鳴りやむ。代わって、緊急性のあまり感じられない事務的なアナウンスが響き渡る。
「受診者の皆様にお知らせします。只今、当施設内において暴力的行為が認められました。お近くの職員の指示に従い、速やかに避難行動を取ってください。繰り返します……」
(暴力的行為……?)
いくら社会全体が暴力に対して過敏になったとはいえ、一施設丸ごと警報を発令して避難させるほどのものなのだろうか。
ちょうどそこへ、数人の警備員が駆け寄ってきた。
「こ、こちらへ! 非常口の方へ退避します! 落ち着いて、でも急いで!」
彼らも高校生に負けず劣らず浮足立っている。眞咲はクラスメイトに向けて叫ぶ。
「みんな! 指示に従って避難して! 僕は後から行くから!」
「え⁉ おい葉島……!」
奥平の制止も聞かず、眞咲は逆方向へ駆けだした。左右の受診室から、一般の受診者や他のクラスの生徒達が続々と駆け出してくる。眞咲はその流れに逆らいながら指示を出す。
「皆さん! あっちにいる警備員の指示に従って避難してください!」
廊下を曲がると、女性受診者の群れに出くわした。その中に
「高村さん!
「どこにもいねーんだよ! いつの間にか列からいなくなっちまってて!」
眞咲は声を失う。咲綾がいつになく緊迫した様子で、
「ひょっとして……個人検査の方に行ったんじゃ……」
「あ! そうか……!」
眞咲は思い当たった。静は中学の時のトラウマから、人前で肌を見せることに抵抗があるのだろう。
「二人は避難して! 静は僕が連れてくる!」
返事も待たずに眞咲は駆け出す。しかし個人検査室というのがどこにあるのか分からない。
携帯を取り出し、静の番号を呼び出そうとしたところで、眞咲は廊下の先の光景に目を見張った。
金属バットを手に持った男が一人、すぐ前方でこちらを見ている。出で立ちからして、施設外で抗議活動をしていたイノセンティストの一人だろう。だがサングラスは足元に転がっており、片耳にはマスクが引っ掛かっている。その顔は髭面で窪んだ眼窩に灰色の目を持った――白人の顔だ。
「For the children's future…!!」
男は英語で何か叫びながら飛び掛かってきた。唸り声と共に、金属バットが眞咲の顔に襲い掛かる――
とっさに持っていた携帯を掲げる。バットが指に当たって激痛が走り、携帯が吹っ飛んで壁にぶつかる。
男と一瞬目が合った。その顔はどこまでも冷静で、自分の行動に一片の疑問も抱いてはいないようだった。
バットが唸りを上げる。もはや眞咲は手を頭の横にかざすことしかできない。再び手に激痛が走るとともに、側頭部にとてつもない衝撃。眞咲は壊された携帯の後を追うように壁に激突し、世界がぐるりと一回転したような感覚を覚えた後、意識の沼に沈んだ。
――笑って、眞咲。
暗黒の意識に優しい声が届く。
――笑うの。辛い時こそ、苦しい時こそ、あなたは笑うのよ。
今度ばかりは無理だよ、母さん。僕だけが殴られて済むような状況じゃないんだ……
――起きろ、眞咲。
いや無理だって、母さん……
「起きないか。葉島眞咲」
「母さん、今はそっとしといて……」
「…………。ぷっしゃああああああああああああああああぁぁぁぁぃくっそ‼」
「⁉」
眞咲はびくんと跳ね起きた。すぐ横に、タイツに包まれた華奢な足がある。見上げると、小柄で可愛らしい顔立ちの女性が、充血した目を険しく吊り上げて鼻をすすっていた。
「ずび……お前は見境なく母親扱いする趣味でもあるのか」
「え……」
それはあの案内係の女性だった。ただし白衣は脱いでおり、下に着ていたスーツのみの格好になっている。ただそれだけのはずなのに、講義の時とはずいぶん印象が違って見えた。
「とにかくさっさと起きて、これを受け取れ」
眞咲は痛む頭を手で押さえながらなんとか立ち上がり、女性が差しだしている物を見た。黒いプラスチックのような材質で出来た細長い棒状のもので、緩い弧を描いている。
「な、何ですか……?」
「訓練用の模擬刀だ。今の段階では、貸与できる武器はこれが限度だ。だがお前にはこれで十分だろう」
「は……?」
女性の言っていることが何一つ飲み込めなかった。
その時、女性のすぐ背後にあるドアの向こうから、布を切り裂くような悲鳴が聞こえた。
「静‼」
駆け出そうとする眞咲。しかし女性は立ち塞がるように模擬刀とやらを差し出す。
「武器が無ければ、クラスメイトを救うことはできないぞ」
「っ……!」
考える間もなく、眞咲は持ち手と思しき部分を握る。
その瞬間、身体の奥底に眠っていた赤黒い何かが頭をもたげる。それはまるで歓喜しているかのように全身を駆け巡り、眞咲の感情までをも喜色に染め上げてゆく。
――やれる。
眞咲は弾むように駆けた。女性の横を通り過ぎ、その背後にある引き戸を一気に開いた。
目に映ったのは恐ろしい光景。壁際に座り込んで恐れおののく静。そこに覆いかぶさるように金属バットを振りかぶる、外国人の男。
「Fuck off!! Genetic monster!!」
「やめろ――‼」
それは眞咲であり眞咲ではない何かだった。その何かは眞咲に代わって手綱を握り、眞咲はそれを良しとした。
素早く、なめらかに身体が動く。今まで一度もやったことがないにもかかわらず、何度も同じことをやってきたかのように。
走りながら刀を大上段に振りかぶり、右足を前に、左足は後ろ。男の首筋に狙いを定め、脇を締めつつ心胆を込めて振り抜く。
模擬刀を通して腕に伝わった。人体にとって重要な部分が砕け折れる、恐ろしい感触が。
男は床に叩きつけられ、地響きを立ててバウンドした。二、三度身体を震わせた後、ぴたりと動きを止めた。
「はぁっ……はぁっ……!」
眞咲は堰を切ったように激しく呼吸した。
静が動かなくなった男を恐怖の表情で見つめ、そのままの表情で眞咲を見た。
「『
声に振り向くと、例の女性が部屋に入ってくるところだった。
「全ての人間は無垢な遺伝子に戻るべきだと主張し、力ずくでVGS手術を止めさせようと、世界各国の研究所や病院を襲撃している。とうとう本丸を落としに来たようだな」
眞咲と静は呆然と見返すことしかできない。
女性は唐突に片耳に指を当て、何か話し始めた。よく見ると、耳に骨伝導イヤホンが掛かっている。
「いや、ここはいい。正面からの侵攻に対応しろ。来診者はすでに避難させてある」
そして眞咲に向かって、
「二人とも来い。ひとまず地下に退避させる」
「ま、待ってください……! この……この人の、手当てを……」
眞咲は外国人の男を見下ろした。首は不自然な方向に折れ曲がり、目玉が飛び出そうなほど瞼が大きく見開かれている。
「……そいつは死んだ。お前に頚椎を叩き折られてな」
静が口元に手を当ててえずく。眞咲は模擬刀を落とし、頭を抱える。
「うそ……嘘だ……! だって僕は、手術を……!」
VGS手術を受けたにもかかわらず、暴力を……殺人を犯してしまう人間、それは――
「……気付かないふりをしたところで、苦しみが長引くだけだ」
違う。僕は違う。しかし眞咲の身体は確かに感じている。未だ蠢いている、赤黒い何かを。
「いずれ全て説明してやる。……全てな。今はとにかく私と来い。その娘の身を守るためにも」
眞咲と静は互いに縋るような視線を交わし合った。