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第九話 アーヴィング・バラシュ

 眞咲まさきいばら由布里ゆうりから説明を受けていた同じころ、楢原ならはらしずは同じ遺伝子局内にある医務室で一人、携帯の画面を見つめていた。


 映っているのは動画配信サイト。そこに投稿された、一本の動画だ。


 それは野生動物の映像から始まる。サバンナを駆けるチーター、海中を泳ぐクジラ、山岳地帯を飛ぶ渡り鳥の群れ――


 映像に合わせて男性のナレーションが入る。聞き馴染みのないその言語は東欧のとある小国のものらしい。丁寧なことに、画面下部に日本語字幕が表示されている。


〈私は父の顔を知りません。私がまだ母親のお腹の中にいた頃、戦地に行って死にました。母は私が歩き出す前に、故国を侵略しに来た軍に撃たれて死にました〉


 続いて、真っ白な照明の中で母親が赤ん坊を抱いている映像。


〈神は我々人間を自身に似せて作りました。ならば我々が争いを繰り返すのもまた神のご意思でしょう。我々人間も他の動物達と同じく、母なる自然より産まれた子供達の一人だからです〉


 次に静にとって馴染みのある、日本国内の様子を映した映像が流れる。都心の交差点を行き交うまばらな人々。病院で手術を受けている母親の様子。生徒が数人しかいない学校の教室。


〈ですがあなた達はそれを歪めました。自分達を産んだ母なる自然を辱めた挙句、母もそれを望んでいるはずだなどと妄言を吐くのです。あなた達の有り様を表現するのにぴったりな、ある有名な言葉があります。それは――〉


 映像は男性のアップに切り替わった。どこかの事務所のような部屋で、窓からは高層ビルが覗いている。高価そうなスーツ姿で、豪奢な机の上に両手を組んだ学者風の男性は、目元に憂いを込めて厳かに口を開いた。


〈マザーファッカーめ〉


 ジニタリア国立平和大学名誉教授、アーヴィング・バラシュ。というテロップが、画面下部に表示された。


〈ですが我々『神の子供達コピー・ルイ・ドゥネゼゥ』は、あなた達に救いの手を差し伸べます。異形の子に産まれてしまったあなた達を、元の自然な人間の姿に戻す手助けをしてあげましょう〉


 映像が切り替わる。どこか薄暗い施設で、日本人と思しき数人が外国人に囲まれ、拳銃を無理矢理持たされている映像だ。片言の日本語で「撃て‼」という声が響くも、日本人達は嘔吐し、次々に床に倒れ、身体を痙攣させた。彼らが狙わされている標的はカメラに映っていない。


 静は携帯から目を背けた。今日一日、何度こんな気分を味わえばいいのだろう。


〈彼らは自らの行いを悔い、進んで我々のもとに来ました。遺伝子手術に抗うことのできた例は今のところありませんが、いずれ必ずや打ち勝てるでしょう。強い正義の力と自然の長い時間をもってすれば、異形の力で捻じ曲げられた遺伝子も元の姿を取り戻すに違いありません〉


 さらに映像が変わる。戦闘服姿でアサルトライフルを構えたどこかの特殊部隊のような男達が、カメラに向かって歩いてくる。


〈異形の子らよ、歪められた遺伝子に抗うのです。さもなくば神の子供達は正義の力を以て、あなた達に人間の本質を思い出させることになるでしょう〉


 カメラは再度アーヴィング・バラシュという男に戻った。そして画面下部にURLとバーコードが表示される。


〈私は今日本にいます。この日本で、異形の力に苦しむあなた達を目の当たりにしているのです。敵に備えることをすっかり忘れたこの国に潜り込むのは難しいことではありませんでした。異形の子らよ、どうぞ我々にご連絡ください。門戸はいつでも開いています。神の御業を思い出し、母なる自然に帰るのです。――未来の子供達の為に〉


 静は動画配信サイトを閉じ、深く息をついた。


 部屋のドアがノックされ、見知らぬ男が隙間から顔を覗かせた。

「入っていいかな?」


 静は慎重に頷いた。


 男はドアを開けて全身を露わにした。小太りの身体を白衣に包み、歳は三十代後半に見える。


「どうも、楢原静さん。僕は廣澤ひろさわと言います。いばら課長に言われて君を診させてもらいに来ました。特に怪我はないみたいだけど、一応ね」


「あの、眞咲は……?」


「まだ課長と話してると思うよ。その後みんなの所に行くだろうから、今日はちょっと会えないんじゃないかなぁ」


 みんな、という言い方に、静は疑念を抱いた。

「あの……ひょっとして、あなたも……?」


 廣澤は快活に頷いた。

「ああ、そうだよ。何十年か前にニュースになったんだけど、まあ知らないよね。えっと、ある医者がいてね。それなりに良い腕だったらしいけど、ある時から安楽死ってやつをやり始めた。重篤患者にどうしてもって頼まれて、致死量の薬品を処方して楽に死なせたんだ。それを裏で何十件もやっちゃって、刑事事件に問われて医者はクビ。裁判中にヤケ起こして馴染みの女の家に逃げ込んだ挙句、自殺。で、めでたく僕が産まれたってわけ。一応〈毒殺ゲノム〉ってことになるのかな」


 静は椅子の上で身を引いた。


 廣澤はそれを見て哀しげに笑い、

「人を殺せる道具を持ってるってだけで罪に問われちゃあ、医者も料理人も廃業だよ」


 しかしすぐに快活な表情に戻って、

「そうだ、面白い話があるよ。これマーダーゲノム擁護論者がよく持ち出す話なんだけど、三国志に出てくる劉備って知ってるよね。その劉備の臣下に簡雍かんようって人がいてね。ある時、日照りが続いたせいで劉備が禁酒令を出した。それだけならまだしも、酒造りの道具を持ってるってだけで罰を与えたりしたんだ。それである日、劉備と簡雍が連れ立って外を歩いてた時、一組の男女がいちゃついてるのを発見した。それを見た簡雍は劉備に言ったんだ。親分、あの男女にも罰を与えなきゃいけませんぜ。なぜかって……」


 とまで言って廣澤は顔を曇らせた。

「……いや、よく考えたらこの話はまずいな。ごめん、気になったら自分で調べてね」


 何のことやら静には分からなかったが、自分の態度については反省した。今や眞咲もこの廣澤と同じ状況なのだ。


「……すみませんでした」


「全然気にしてないからいいよ。とにかく、問診だけでもさせてもらえないかな。じゃないと僕が課長に怒られちゃうよ」


 静は頷き、廣澤は椅子を引きずって静から少し離れた位置に座る。


 問診の合間を見て、静は恐る恐る質問した。

「マーダーゲノムは……単なる道具に過ぎないんでしょうか」


「人それぞれとしか言えないな。マーダーゲノム保因者はそれを隠しながら、ほとんどが普通に生活してる。もちろん監視付きでね。ただ、殺人嗜好者みたいになっちゃう人もいるにはいる。だからこそ、その暴走を防ぐための部隊があるわけだし」


 静は金髪にメッシュが入った少年の姿を思い出した。眞咲には、絶対にあんな風になってほしくない。


「納得いきません……マーダーゲノムだからと言って、無理やり戦わせようとするなんて……眞咲だって、絶対そんな事したくないはずです……」


「だからこそ、彼には君が必要なんじゃないかな」


 静は目を上げた。廣澤は真剣な表情で、

「彼の側にいてあげるんだ。彼が遺伝子に飲み込まれないように。もし飲まれそうになったら、君が彼を引き戻してあげるんだよ」


 廣澤は微笑み、

「愛の力があれば、遺伝子にだって抗えるさ」

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