トラックのコンテナに内設された司令室は、無線から聞こえてくる阿鼻叫喚で充満していた。
そんな中でも
医務官の
「これが……抗うことの出来ない天命ってやつですか。彼と……あなたの」
「…………」
ヘッドセットに遺伝子研からの緊急連絡が入り、荊は耳に指を当てた。
「どうした。……ぇっ」
荊は小さな声を上げて動揺した。それは普段の彼女を知る者から見れば有り得べからざることだった。
「確かなのか。……そうか、分かった。……いや、私から話す」
「何かあったんですか」
廣澤が問うと、荊は奥歯を噛み締め、
「あいつは……また一段、底に堕ちることになった」
―――― ◇ ――――
「はーっ……‼ はーっ……‼」
水中にいるように身体の動きが重い。神経伝達のスピードに身体の方が追い付いていないのだ。意識は、もはやあるのかないのか分からない。ただ手綱を握る何かに導かれるままに、螺旋の奥へ、そのまた奥へと。
周囲に動くものはない。床に散らばっている独特な形状の赤い塊は、もはや何ら注意を払う必要のないただの物体だ。
階段の方から気配。眞咲は渇ききった目を向ける。
あまりにも場にそぐわない人物が、階段の途中で立ち尽くしていた。栗色の髪を後ろにまとめ、シャープな顔のラインに険しい目つき。身のこなしには弾けるような若さがあり、二十代前半といったところか。細身のジャケットに革のパンツ。腰の後ろに剣のような武器を二本装着している。
彼女は眼下の光景に驚愕し、次いで眞咲に憎しみの目を向けた。
「……Monstru!!」
英語に似た発音で叫び、腰のサーベルを抜いて飛び掛かってくる。
――外国人。
眞咲の中のものはそう認識した。血が滾り、敵愾心が疲労を塗りつぶす。
呼吸を無理矢理に整え、大上段に待ち構える。外国人の女に、二の太刀は要るまい――
女はサーベルの刃を向けて突進してくる。勇猛な構えとは裏腹に、表情は紫焔のプラズマブレードに威圧されているのが分かる。
眞咲は飛んできた丸太を叩き斬るかの如く、轟然と紫の刃を振り下ろす。
凄まじいエネルギーの奔流の後、しかし斬れたのは銀のサーベルだけだった。女は直前で身体を捌き、右に避けたのだ。
真ん中から真っ二つに斬られたサーベルの断面を見て、女は驚愕した。しかしすぐにそれを投げ捨て、もう一振りの細い剣を握る。
眞咲も体勢を立て直し、踏み込みながら平突き。
しかし女は驚くべきことに前へと転がり、眞咲の懐に潜り込んできた。
「――!」
見るより前に身体を開いて顔を背ける。目の前数ミリをレイピアの切っ先が通った。あとほんの少し反応が遅ければ、目玉を串刺しにされていたに違いない。
――使い手か。
驚きよりも嬉しさが勝っていた。
しかし女はすでに眞咲の脇を抜けて背後に走り去っている。攻撃の成否にかかわらず、最初から逃げるつもりだったようだ。正面玄関の二人の隊員が制止する声が聞こえるが、止まりはしないだろう。
その背を追おうとするも、足に力が入らない。身体の方がついに限界を迎えてしまったらしい。眞咲は前のめりになり、床に手を付いてしまった。
その手の平に、温かくそして柔らかな感触。手を付いたのは床ではなく、ピンク色の内臓だった。
「あ……」
目をしばたかせ、周囲を見る。様々な形に切断された身体の一部、ロープのように伸びた小腸、切断面からどろりと流れ出る白い骨髄、あとは、血、血、血……
嗅いだことのない不快な臭いが鼻を衝く。プラズマブレードが床の血と内臓をじりじりと焼いていた。眞咲は慌てて立ち上がった。
「葉島!」
懐かしいとさえ思える声。
ハンマーを持った小峰は目を丸めて死体の山を見渡した後、なぜか救世主を見つけたかのような目で眞咲を見た。
「あいつは……逃げたか」
間宮は息を荒げながら入り口に目を向け、
「クララ・プロシュタヌ。ジニタリアの貴族の末裔だかで、『神の子供達』の象徴的戦闘員だ。幹部連中がすでに入国してるってのは本当らしいな……」
〈刺殺〉が腕の傷を押さえながら、
「あの女……自分だけ最上階に残って、他の仲間を逃がしたんだ……俺達全員を相手に立ちまわりながらよ……ま、でも……」
ちらりと床の様子に目を向け、
「無駄な頑張りだったみてーだな……てめー、できんなら最初からやれよ……」
「あ……あ……」
眞咲は聞いていなかった。乾いていた目が一気に潤み、鼻水に涎までもが口から流れ出てくる。
「……ねえ、ヤバいよあれ」
蔡羅が間宮に言った。
間宮は手のひらを眞咲に向け、
「葉島、いいか、落ち着くんだ。なるべく何も見ず、匂いも嗅がずに、ゆっくりここを離れ……待て、課長からだ」
イヤホンに手を当てる間宮。
「……はい。……えっ⁉」
間宮は驚愕した顔を眞咲に向けた。
「いえ、しかし……何も今じゃなくとも…………。はい……そうですね、分かりました……」
間宮は無線を切った。直後、眞咲の無線に荊の声が入る。
『葉島、こんな時に済まないとは思うが、先延ばしにすればするほど立ち直りは遅くなる。私達には時間もない。どうか聞いてくれ』
心構える猶予など微塵も与えてはくれず、荊は言った。
『葉島拓哉が、自殺した』
――――は?
『先ほど、研究室内で倒れているのが発見された。近くに毒薬とみられる薬物の入った瓶と、それからPCに遺書らしき文章が表示されていた。『休みます』と、一言だけ。警察にはすでに連絡してある。…………以上だ』
――――は? は?
周囲を見回す。隊員達は訝しげな顔。ただ間宮だけが心苦しそうに、
「残念だが……そういうことらしい……お悔やみを、申し上げる……」
…………
何? は? お悔やみ? 父さんが死んだから? 何で死んだって? ああ、僕が斬ったんだ……違う‼ 何考えてるんだ‼ 自殺だって言ってたじゃないか‼ ……は、はは……そうだよ。僕が殺したんじゃないんだ。勝手に、自分で……自分で……
「なん、で……?」
血の溜まった床に液体が糸を引いて落ちる。涙なのか鼻水なのか涎か。その全部か。
なんで父さんは自殺を? なんで僕はこんな所にいる? なんで僕は生きている? 人を大勢斬り殺して、父さんが自殺して、それで次は? 次はどんな責め苦を受ければいい?
右手に掴んだ紫焔の刃が、殊更に輝いて目に映る。
…………ああ、そうか。
父さんは僕に答えを示してくれたんだ。これからどうすればいいか。何をするのが正解なのかを。簡単なことじゃないか。なぜこんな簡単なことに気が付かなかったのか……
眞咲は柄を両手で持ち、刃を己の首筋に近づけた。
「葉島……!」
間宮が、他の隊員達が顔を強張らせる。耳の奥で女性の声が虚ろに反響している。
『眞咲……眞咲!』
黙ってくれ! 僕をその名前で呼んでくれる家族は、もう……!
静の顔が思い浮かんだ。しかしそれもすぐに、眼下に揺らめく紫焔の中に沈んでいった。
刃をさらに近づける。首の皮膚が焼かれる。
〈刺殺〉も蔡羅も小峰も、間宮さえも止めようとはしない。死ぬなら勝手に死ねってことか。やっぱりこの人達は僕と何もかもが違うんだ。
眞咲は息を吸い、目を閉じ、腕に渾身の力をこめ、一気に斜めに斬り下ろした。
そして全ては終わった。
――――はずだった。
「え……?」
眞咲は目を開けた。腕の位置はさっきと全く変わっておらず、言うまでもなく首は繋がっている。……無意識に
ならばと腕を振り上げ、勢いをつけて振り下ろす。しかしそれでも刃は首から一定の距離を保ってぴたりと止まり、それ以上はどうやっても動こうとしない。
……どういうことだ。
「……逆なんだよ」
間宮が深刻な顔で言った。
「逆……って……?」
「VGS手術のオフターゲット変異だ。
……まさか。
「……自殺遺伝子。現在の技術では特定も切除もできないこの遺伝子が、皮肉にもオフターゲット変異によってのみ切除できちまうってわけだ」
助けを求めるように辺りを見る。
「普通の人間は殺人ができないが、自殺はできてしまう」
間宮がさらに言う。
蔡羅は哀し気に微笑み、〈刺殺〉は憮然と横を向いている。
「俺達マーダーゲノムは……殺人ができてしまう代わりに、自殺ができないんだ」
…………そん、な……
人殺しの遺伝子に支配されて……国の敵を殺すために利用されて……
その上、それを自分で終わらせることすらできないのか――‼
「もし自殺ができてたら……」
聞いたことのない男の声。それは小峰久秀の声だった。
「……こんな部隊、存在できるわけがない」
…………
「――くっ‼ うぁあああああああああああああああ――――っ‼」
眞咲は全身全霊の力を腕に集め、刃を少しでも近づけようとした。しかしそれと同等に、全身全霊の力のこもった何かが刃を押し戻す。
その何かは身体中に異変を巻き起こした。強烈な吐き気を催し、膝がガクガクと震え、視界が点滅し、心臓の鼓動が不規則になり、意識が遠のく。
間宮が叫んだ。
「止せ! 拒絶症状だ! 遺伝子には抗えないんだ!」
膝から崩れ落ち、血の床に嘔吐した。それでも気力を振り絞って上体を起こす。
「……っごあっ‼ げぇあ……っ‼ ……ああああああああああああああ――――っ‼」
口から、鼻から吐瀉物を吹き出しながら、眞咲は刃を振るおうとした。ただ、自分の死だけを願って。
「眞咲‼ 眞咲‼」
誰かの声。赤く点滅する視界の中でこちらに向かって走ってくる、スーツ姿の小柄な影。
それが誰かを認識する前に、眞咲の力は尽きた。
血と内臓と吐瀉物の上に顔を叩きつけ、地の底へと堕ちていく。
意識が切れる直前、はっきりと思った。
――ここは、地獄だ。