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第十五話 荊由布里

 ――笑って、眞咲まさき


 母さん……僕は死ねたのかな。


 ――笑うの。辛い時こそ、苦しい時こそ、あなたは笑うのよ。


 死んだ後だったら笑えるよ……


 顔の見えない母はただ、同じ言葉を繰り返すだけだった。眞咲の記憶にある母の思い出はそれしかないからだ。けれど確かに、眞咲は夢の中で母に対面していた。


 その夢はいつになく鮮明だった。明るい光に満ちた部屋、柔らかな床、隅に散らかっているおもちゃ。それらがはっきり目に映り、匂いまで香ってくるような気がする。ならば母の顔も――


 眞咲は顔を見上げ、懸命に靄の向こうを見通そうとした。


 ―――― ◇ ――――


 いつから覚醒していたのか、目を開けたまま寝ていたのか。


 見つめている天井は木目調で、病室のようには思えない。


 寝かされているベッドからはシャンプーか香水か、微かに桜のような香りがする。


「あれから二十七時間後だ」


 冷厳な女性の声。眞咲は深く息をついて上体を起こした。


 十二帖ほどの一人部屋だ。生活感は限りなく抑えられ、窓は一つもない。落ち着いた色合いの照明、壁面クローゼットの扉、ベッドわきのサイドテーブルにはタオルと水のボトルと流動食のパック。


 壁際のパソコンデスクでこちらに背を向けて座っているいばら由布里ゆうりは、静かなタイピング音を鳴らしながら言った。


「遺伝子研内にある私の自室だ」


「……センターに、住んでるんですか」


「……まあな」

 しばしの沈黙の後、荊は言った。

「葬儀の手続きはこちらでやっておいた。……お前は、出たくないだろうと思ってな」


「葬儀なんて……するんですね」

 皮肉めいた口調が出てしまう。


 荊はタイピングを続けながら、

「警察の捜査は続いている。自殺で間違いないだろうとのことだが、動機は不明だそうだ」


「動機……? そんなの明らかでしょう……!」


 眞咲はシーツを跳ねのけて叫んだ。


「僕ですよ‼ 僕のせいで父さんは死んだんだ‼ 僕があんな……あんな風になるって分かってたから‼ 父さんは耐えられなかったんだ‼ 自分の子が、大量殺人者になることに……‼ 親として、耐えられなかったんだ‼」


 タイピング音が止まった。


 眞咲は膝を丸め、顔をうずめた。

「父さんはきっと……ずっと苦しんでたんだ。僕がマーダーゲノムだって分かった時から……誰にも相談できずに、たった一人で苦しんでたんだ……」


 それからしばらく、一切の音は聞こえてこなかった。


 眞咲は八つ当たりをするようにシーツを両手でぐしゃぐしゃに握り締めた。しかしそこから漂う桜の香りは、不本意ながら眞咲の心を落ち着かせ、癒していった。


 ずいぶん時間が経った後、荊は言った。

「……明日は、楢原ならはらしずさんと学校に行くといい」


「……え?」

 学校。そんなものがあることも忘れていた。


「彼女に散々頼まれてな。明日一日ぐらいはいいだろう」


「でも……僕はここから出ちゃいけないんじゃ……」


「監視付きであれば、ある程度の外出は認められている。……が、まあ明日は特別だ。監視は付けないし、学校でも家でもそれ以外でも好きに行動して構わない」


「……僕がそのまま、戻ってこなかったら?」


 荊はそれには答えず、逆に質問してきた。

「楢原さんとは、何年になる」


「え? 何が……」


「付き合って何年になるのかと訊いてるんだ。あれで一年未満ということはないだろう」


「つ、付き合ってなんかないですよ。ただの幼馴染です……」


 荊はしばらく黙った後、深く息をついて言った。

「……そうか、付き合ってはいないのか……」


 心底ホッとしたかのような、でも少し悲しんでいるかのような、そんな声だった。


「しかしあの娘も強情だな。送迎車を出すと言っているのにバスを使うと言って聞かない。私達のことを全く信用していないようだ」


「それは……当たり前でしょう」


「それもそうだ」


 そう言ったきり、荊はPC作業に戻った。


 静かなタイピング音を聴きながら荊由布里の後姿を眺めている奇妙な時間。

 その時間は、不思議なほど眞咲の心を穏やかにしていった。


 ―――― ◇ ――――


 照明が落とされた会議室。


 荊由布里はたった一人で部屋の中央に立ち、大型モニターに映し出されたリモート会議の画面に向き合っていた。


 画面の大部分を占めるのは遺伝子研所長、金沢かなざわ法春ほうしゅんの渋い顔。モニターの端には白衣を着た研究員達を映した小画面が連なっている。


「聞かせてもらおうか荊君、なぜ彼の外出を許可したのかね。監視もなしに」


 画面の中から目を尖らせる金沢法春。荊はそれ以上に目を尖らせ、


「立て続けに起こった襲撃に身内の不幸まで重なり、彼の心身は限界をとうに超えています。これから激しさを増すであろう任務のためにも、一時だけでも休息は不可欠と判断しました。言うまでもないことですが、彼が問題を起こした場合は私が全ての責任を負います」


「私が訊きたいのは」

 金沢は苛立たし気に机を指で叩いた。

「なぜ彼にさらなる絶望を味わわせようとしているのか、ということだよ。君も知っているだろう。一度マーダーゲノムに血を吸わせた人間は逃れられないのだ。彼は自らの遺伝子に飲み込まれ、絶望に打ちひしがれながら戻ってくることになる。君はそれでもいいのかね」


 荊は目をぎらりと光らせる。

「私は、彼が遺伝子に操られて戻ってくるとは思っておりません。彼が遺伝子を自分の力とし、自分の意志でここに戻ってくれるだろうと信じているのです」


 金沢は画面越しに荊の目を斜めに見て、

「……君にそこまで彼のことが分かるというのかね。……この私よりも」


「本人以外で、葉島眞咲のことが分かる人間がいるとすれば……」


 荊ははっきりと憎しみのこもった目で金沢を睨んだ。


「それは私です。私だけです。断じて――あなたではない……!」


 リモートを通して荊と金沢の視線が衝突する。


 数秒後、先に視線を外したのは金沢だった。

「……まあいい。今の彼については、君に任せるという約束だ。その調子で次のフェーズも、きっちりこなしてくれたまえ。では比企田ひきた博士、あとは頼む」


 金沢の映像がフェードアウトし、代わってモニターの端に連なる画面の中から、瘦せこけた中年の女性研究員の映像が拡大される。


「官邸への根回しはおおむね完了。局長からは多少見切り発車だが行け、とのこと。第一個体が帰還次第、直ちに第二フェーズを開始しますので、そのつもりで」


 荊は声を落とし、

「……他の提供者を探すという提案は、どうなりましたか」


 比企田は小馬鹿にしたように、

「ああ、一応予備は集めたけどね、でもダメ。本命はあれよ。一昨日の戦闘で、あの個体の有用性は十分証明された。近交弱勢きんこうじゃくせいのリスクなんて今時どうとでもなる。あのゲノムを恒常的に生産することが第一なんだから。ま、要はインブリードよ」


 荊は目を伏せた。比企田は一人で喋り続ける。


「まったく、時間稼ぎなんて姑息な真似を。もし脱走したらどうするのよ。連れ戻すにも時間と労力がかかるのよ。私の評価が下げられたらどうしてくれるの」


 と比企田は愚痴を言った後、下卑た笑みを浮かべた。


「とにかく、あれが戻ってきたらさっそく取り掛かってね。方法は任せるわ。自己採取させるなりあなたが採取するなり、何なら『直接』でもいいわよ。結果は同じだから」


 荊は顔を上げ、不快感を露にした。


 比企田は見下した目で、

「何その顔は。今さら人間ぶるつもり? 化け物になることを選んだのはあなたでしょう」


 比企田のみならず、他の研究員も荊に侮蔑の視線を向ける。


 荊は拳を震わせ睨みつけるが、返すことのできる言葉は、ない。


「実験動物の気持ちなんて考えてる暇はないのよ。ま、せいぜい化け物同士仲良くね」


 そう言って比企田は一方的に映像を切り、他の者も一斉にリモート会議から退出していく。


 荊由布里は広い会議室にただ一人、長い時間立ち尽くした。


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