「奥平となに話してたの?」
「……別に」
思い出したくもない。
咲綾は長い前髪の隙間から視線を向け、話を切り出した。
「今まで言ってなかったけど……私の兄貴、遺伝子研の支部で働いてるの。関西の方の。よく知らないけど、結構上の研究グループにいるみたい」
「……そうなんだ」
嫌な予感がした。
「それでさ、昨日兄貴から電話がかかってきて……葉島眞咲には、絶対近づくなって言われた」
心臓がキュッと縮まる。
咲綾は目を光らせ、
「……マーダーゲノム、なんでしょ?」
眞咲は目を伏せた。学校に来たことを後悔した。次は何を訊かれるか。人斬りゲノムのことか、等活部隊のことか、警察署で何人も斬ったことか、父親の自殺のことか。
しかし咲綾はそれ以上は何も訊いてこず、
「心配しないで……誰にも言わない。葉島君は誰彼構わず襲ったりするような人じゃないって、知ってるし」
とだけ言った。眞咲がマーダーゲノムだということ以外は知らないようだ。
「だけど、お願いがあるの。……私の家にいる男を、殺してくれない?」
「……え?」
眞咲は顔を上げた。咲綾の目はこれ以上ないほど真剣だった。
「あの男……遺伝子上は、父親なんだけど……生きる価値のないゴミなの。死んで当然の鬼畜なの。だから殺して……。大丈夫、警察に絶対バレない方法は考えてある。葉島君は、ただ殺してくれるだけでいいから……」
「何言ってるんだ……するわけないだろ、そんなこと……」
震え声で言う。
しかし咲綾は目に強い憎しみを込め、
「あの男……昔、私をレイプしようとしたの。あいつ、『隠れイノセンティスト』なのよ。一度だけだったけど、忘れない。忘れたことない。酔って帰ってきて、私を……。それ以来、忘れたような顔して、いい父親ですみたいな外面で……」
「それは……辛かっただろうけど、でも殺すなんて……。どこか、相談できる所に……」
「試さなかったと思う? いろんな所に相談した。でもあいつはその度にのらりくらりと乗り切りやがった。母さんまで騙されてる。あの人がそんなことするわけないでしょって、逆に怒られるの……」
咲綾は縋るように一歩踏み出す。
「……ねえ、助けて。あいつがまだ生きてるなんて耐えられない。あの男が死なない限り、私はどこにも行けない。お願い、あいつを殺して」
もうたくさんだ。なんで学校に来てまでこんなことを言われなきゃならないんだ……!
「もちろんできる限りのお礼はする。少しなら、お金も用意できるから……」
眞咲はたまらず叫んだ。
「するわけないだろ‼ どうして僕がそんなことを引き受けると思うんだ‼」
咲綾は逆に不思議だと言わんばかりの顔をした。
「どうしてって……」
殺人者の遺伝子、なんでしょ?
眞咲は頭を抱えた。
「……やらないよ。絶対に」
咲綾は悲し気な声で、
「委員長は助けたんでしょ? なのに私は見捨てるの? ……私が優良遺伝子じゃないから?」
まただ。どいつもこいつも遺伝子遺伝子遺伝子……いい加減にしてくれ‼
刀が欲しくなった。
直後、そんな欲望を抱いた自分にぞっとした。
眞咲は咲綾の顔を見ないように横を通り抜け、廊下を全速力で駆け抜けた。
咲綾は呼び止めなかった。
―――― ◇ ――――
「眞咲……大丈夫?」
教室に戻ってきた眞咲の顔を見て、
「……別に、大丈夫」
それ以外に言いようもない。
先に戻っていた奥平が自分の席で恨めし気な目を向けてきているが、眞咲は無視して席に座った。
咲綾は始業チャイム直前に教室に戻ってきた。眞咲には目もくれず、何事もなかったかのように
――話に聞いたほど本人にとって深刻な状況じゃないのか? それとも頼むだけ頼んでみるかって感じだったのか、あるいは押し殺しているだけなのか。もう何が何だかさっぱりだ。
チャイムが鳴り、五時間目が始まる。通常の授業ではなく、担任の
木戸井はふくよかな腹を突きだし、いつもの温和な態度で話し始めた。
「さて、あの日は大変なことがあったけど、まあそれは置いといて、この時間はちょっと遺伝子の話をしよう。皆、遺伝子検査の結果はもう見たかな」
クラスのほとんどが頷く。
「皆それぞれ思うところはあるだろう。もしかしたら思ったより評価が低くて、がっかりしてる人もいるかもしれない。俺の人生、お先真っ暗だー! なんて思ってる人もいるかもしれないね」
数人が笑い、奥平が下を向く。
「だけどね、人生は遺伝子一つで左右されるものじゃない。左右されるべきじゃないんだ。これは綺麗事なんかじゃなく、ちゃんと法律で決まってることなんだよ」
奥平が顔を上げた。
「俗に遺伝子憲章って呼ばれる法律があってね。その中にちゃんと書かれてるんだ。要約すると、国は遺伝子による差別を容認せず、遺伝子によって人権が制限されるようなことは絶対にない。……とね。君達がどんな遺伝子を持っていようと、君達はどんな仕事に就くのも、誰と結婚するのも自由なんだ。そうじゃないと国に怒られるからね」
クラスの全員が顔を輝かせた。……ただ二人を除いて。
「そう、この国では誰一人、遺伝子によって差別される人間はいないんだ。少なくとも国は絶対にそんなことはしない。国が遺伝子で人を判断したり、遺伝子によって仕事を強制したりするような、そんなことは絶対に有り得な――」
空気を震わす衝撃音が木戸井の声を遮った。
木戸井、そして生徒達が驚いて視線を一点に集中させる。
音の出どころは、眞咲が後ろに飛ばした椅子だった。眞咲は両手を机に叩きつけながら、勢いよく立ち上がったのだった。
「………っ」
下を向き、歯を食いしばる眞咲。
「眞咲……!」
静が気遣わし気に腰を浮かせる。
しかし眞咲は堪えきれずに机から離れた。教室の後ろのロッカーから鞄を引っ掴み、逃げるように教室を出た。
背後から静の追い縋るような声が聞こえる。しかし眞咲は、二度とこの学校に足を踏み入れる気はなかった。