行くことのできる場所は一つしか残されていない。
エレベーターで上階に上がり、鍵を開けて玄関に入る。
リビングに駆け込み、郵便物の束を床に落とし、ソファに沈み込んだ。
慣れきっているはずなのに、いつもより重く圧し掛かってくる一人の静寂。
――もうここに、自分以外の誰かが帰ってくることはない。それを再認識し、眞咲は膝の間に顔をうずめてしばらく泣いた。
どれくらい経った頃か、ふと滲む視界に郵便物の束が映った。一番上は『遺伝子検査結果のお知らせ』と印刷された封筒だった。ウェブ上だけでなく、郵送でも結果が届くらしい。
――こんなもの見て何になる。と思いながらも、眞咲は封筒に伸びる手を止めることができなかった。
封を開き、紙の束を取り出すと、表紙の冒頭部分に大きく印刷された文字が目に飛び込んだ。
『SSS 極めて優良』
IQ、勤勉性、同調性……全ての項目に歯の浮くような高評価が書き連ねられている。マーダーゲノムについては一言も触れられていない。眞咲は後半部分にある二つの項目に目を留めた。
『社会性:144/150 常に平静と穏健性を保ち、衝動的行動に走る傾向は全く認められません。また順法意識が極めて高く、反道義的行動に対して強い拒絶性が認められます。極めて道徳性の高い模範的な人物と言えます』
『利他性:148/150 他者の痛みに敏感で、常に他者のことを思いやる傾向が強くあります。また危険性のある他者に遭遇した場合でも、平和的な解決方法を採ると予測されます。どんな状況に置かれても、他者に対して暴力を振るう可能性は全くないと言っていいでしょう』
思わず紙を握りつぶした。そのまま丸めて、壁に思い切り投げつけた。
呼吸が荒くなる。目を落とすと、次の郵便物が目に入る。それは一枚の葉書きだった。全面に誰が見ても美人と思うであろう女性の写真が印刷され、余白に手書きの文字が綴られている。
『突然のお手紙失礼いたします。マッチングミームにて葉島様の遺伝子情報を拝見させていただき、その素晴らしいお人柄と能力に居ても立ってもいられず、お手紙を書かせていただきました。僭越ながら私は遺伝子検査で優良と診断されており、葉島様とのお付き合いは必ず双方にとって有益な――』
葉書きを払いのけた。その下は世界的知名度を誇るIT企業のロゴが印刷された封筒だった。封筒の表にはまたもや手書きの文章が書かれている。
『CFグループ日本法人、人事部長の山口です。葉島さんの遺伝子情報を拝見し、その能力を是非とも弊社で遺憾なく発揮していただきたいと思い、採用情報を送らせていただきました。葉島さんのような素晴らしい遺伝子は、弊社の未来を担うべき貴重な――』
封筒を掴んで投げた。その下から手紙、その下から封筒。
『私の子供に、是非あなたの遺伝子を継がせて――
『その遺伝子を明るい未来のために役立てて――
『優秀なあなたの遺伝子で、たくさんの命を救って――
『あなたのような優れた遺伝子は、絶対に後世に受け継がれるべき――
叫んだ。
絶叫した。
意味の成さないことを叫びながら、封筒を破った。
次の手紙、その次の封筒、全ての郵便物を破った。
立ち上がり、テーブルを蹴った。テレビを倒した。カーテンを引き千切った。
全身を掻きむしった。
身体の肉を掴んで、千切れんばかりに引っ張った。
喉に指を突っ込んで、胃の中の物を全て吐いた。
頭を壁に打ち付けた。何度も、何度も、何度も。
この身体の中にあるものを、全て消し去りたかった。
これのせいで、全てが狂わされた。
これのせいで、日本中が狂ってしまった。
消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ。
いでんし――