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第十九話 受け継ぐ者たち

 白い光の中に落ちていく。


 夢なのか幻覚なのか、どちらにせよ眞咲まさきはもう覚醒することを望んでいなかった。どこまでも落ちていきたい。地獄のさらに下には何があるんだろう。ここより辛くたっていい。ここじゃないだけマシだ。


 白い光景が形を成し始めた。揺れる視界、畳と汗の臭い、大勢の話し声、目の前に誰かがいる。


「……二千六百年祝典しゅくてんの頃、横浜で飲んだショコラの味が忘れられない。あれがまた飲めるようになるなら、占領も悪くないかもな……」


 目の前の白い影が言った。その輪郭が徐々に明らかになる。テレビでしか見たことのないようなカーキ色の軍服を着た男。他にも五、六人ほどが輪になって茣蓙の敷かれた床にあぐらをかいている。その向こうにはもっと大勢の人がひしめき合うように座っており、その光景は絶えず揺れていた。船の中だろうか。


 眞咲は視線を動かそうとした。が、自分の身体が何一ついう事を聞かない。ひとりでに口からため息が漏れ、ひとりでに視線が下がった。そこに映った自分の足にはゲートルが巻かれていた。


(……これは、僕じゃない)


 眞咲は、眞咲でない別の誰かの中にいた。


「何呑気なこと言ってやがる」

 別の男が言った。

「占領ってなぁ悲惨なもんだ。特に米英ってのは俺達を動物のようにしか見ちゃいねぇ。男は無理矢理働かされ、女は慰み者にされる。陛下だって下人のように扱われるかも知れねぇぞ」


「そうなればいいじゃないか」

 と、顔の半分に包帯を巻いた男が言った。

「いっそ完膚なきまでぶっ潰してくれたらいい。二度とこんな馬鹿な真似ができないように。こんな国、なくなってしまったっていいくらいだ」


 場の全員が押し黙る。


 その後、一人の男がこちらに目を向けた。


「……徳治とくじさん、あんたはどう思う?」


(徳治……桜間さくらま徳治?)


 荊から聞いた……太平洋戦争で米兵を大勢斬り殺したとかいう……眞咲の、先祖の一人。


「……俺は」


 口が勝手に開き、視線が横を向く。眞咲はたった今気づいたが、この人物はずっと朱い鞘の日本刀を手に携えていた。


「……生きていて欲しいよ。この国に。どんなに焼け野原になっても、どんな悲惨な目に遭っても、それでも……生き永らえて欲しい」


 包帯の男が言う。

「こんなくだらない戦争をしてもか」


「それでも……俺が、父や母が生まれ、育った国だ」


(……違う、僕はこの人じゃない……)


 視界が白くなり、眞咲はまた夢の中に落ちていった。


 ―――― ◇ ――――


惣兵衛そうべえさん、決心は変わらないの?」


 着物を着た女性が隣を歩いている。


 舗装されていない道の左右には古い日本家屋が立ち並び、和洋とりどりの服装をした人々が行き交っている。


 首が勝手に下がり、自身の服装が目に映る。黒い詰襟つめえりの軍服に長靴ちょうか。左腰には軍刀が釣られている。こしらえはサーベル風だが、鞘は朱い。


(桜間……惣兵衛か)


「陛下は祖父が犯した罪をお許しになり、僕に軍籍を与えてくださった。その御恩に報いるため、僕は国家の敵を討つ」


「でも、惣兵衛さんまでがそのお刀を振るうことなんて」


「僕の身には未だ人斬りの血が流れている。感じるのだ。僕の中に祖父がいるのを。人斬り兵庫の天命が、きっと僕の中にもあるのだろう」


「今はあたしの中にもあるわ」


 着物の女性は帯の下あたりにそっと触れた。


「お由布ゆう


 桜間惣兵衛は女性に向き直った。


「僕はこの血を、人斬りのままで終わらせたくない。国家のために戦った忠臣の血として後世に残したいのだ。……その子をどうか、宜しく頼む」


「ええ、もちろん。あたしと惣兵衛さんの子ですもの」


 女性の笑顔が、白い輪郭となって消えてゆく。


「有難う。遠い満州の地から、お前達の健勝を祈っている」




 ……違う、僕じゃない。


 僕は、この人達じゃないんだ!


 ―――― ◇ ――――


「それじゃあ、あんたは何者なんです?」


 鏡の中の男が言った。


 六畳の畳の上に、布団や箱枕、女物の袖の長い着物などがあちこちに散らかっている。


 視界の下側には男の胸と投げ出された足。前方正面には細長い鏡台があり、そこに映っている姿から眞咲は自分が中に入っている人物の全体像を見ることができた。


 こん襦袢じゅばんをだらしなく着崩した若い男だった。窓のさんに寄りかかって足を投げ出し、結い上げた髪はぼさぼさで、眠そうな厚ぼったい瞼、口元は常に緩み、傍らに朱い鞘の日本刀を無造作に置いている。


 この人が――桜間兵庫助ひょうごのすけ。人斬りゲノムを生み出した男。


「ねえ、教えてくださいよ。あんたは誰です?」


 鏡に映った桜間兵庫助はそう言った。


(僕に……言ってるのか)


「どうですかね。まだ酔いが残ってるのか、私も到頭気が触れちまったか。まあ何にせよ、色々面白いものを見せてもらいました」


 これは夢か幻覚か、それとも遺伝子が見せる何かか……何であれ、この人のせいで僕は……


(あなたのせいで……僕は今地獄にいる)


「そのようですね。いやはや、私の血も相当執念深いようで」


 眞咲は怒り狂いそうになった。僕がこんなに苦しんでるのに、なぜ元凶であるこの人はへらへら笑ってられるんだ‼


(国のためとか言って大勢外国人を斬って……! 自分の子孫のことなんか何一つ考えたことないんだろう‼)


 兵庫助は目を丸くした。

「こいつぁ驚いた。それじゃあんたやあんたの時代の人々は、常日頃から子孫のことを考えて、子孫のためになることだけをしながら生きてるんですかい?」


 返す言葉もない。眞咲は苦し紛れに論点を変えた。


(外国人を斬ったのなんて、ただの憂さ晴らしだったんだろう……! そんなことをしても、国のためにはならないんだ……!)


 兵庫助は鏡から目を逸らし、窓の外を見た。眞咲の視点にも格子の向こうの青い空が見えた。


「そうですね。私も国のために斬っていたのか、自分のために斬っていたのか分かったもんじゃない。けれどね」


 再び鏡に目を戻し、兵庫助は柔らかく微笑んだ。以前、眞咲がそうしていたように。


「……あんたがそうやって苦しみながらも生きてる姿を見てると……私がやってきたことにも、少しは意味があったんじゃないかと……そう、思えますよ……」


 兵庫助の笑顔は、白い光の中に溶けていった。


 ―――― ◇ ――――


 白い霧が晴れてゆく。


 今度の景色は打って変わって現代的だった。木目調の壁、タイルカーペットの敷き詰められた床。側には机とベッド。だがそれを見ている眞咲の視点はかなり低い。


(……これも、僕じゃない。だけど……)


 その人物は下を向いていた。暖かいセーターに包まれた胸にはなだらかな傾斜があり、身体の部分全てが小さく、丸みを帯びている。――女性だ。


 その女性は両手で下腹部をさすっていた。これ以上ないほど優しく、包み込むように。


 突然、眞咲は感じた。これまで感じてきた一人の寂しさを吹き飛ばすような感謝の念。そしてそれ以上の、とてつもなく優しく、暖かく、全ての負を消し去ってしまうような力に満ちた感情――深い、愛情を。


「ありがとう……私の所に来てくれて……本当にありがとう……」


 全てが白い光の中に消えてゆく。


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