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第二十一話 遺伝子の佩刀

 国立遺伝子研究センター前でタクシーを降りた時、眞咲まさきのもとに駆け寄ってきたのはしずだった。


「眞咲……! 家にいないみたいだったから、ここに来るんじゃないかと思って……!」


「……楢原ならはらさん」


「え?」

 静は驚いて眞咲の笑顔を見た。


「今日は迷惑をかけてすみませんでした。……今日だけでなく、これまでのことも。僕はもう大丈夫ですので、気を付けてお帰りください」


 そう言って眞咲は静の横を通り抜けようとした。


 しかし静はその手首を掴み、

「やめてよ……!」

 悲痛な顔で言った。

「私を危険から遠ざけようとしてるんでしょ⁉ やめてそんなの! 私はそんなこと望んでない!」


「……僕は望んでいます」


「嘘! ここの人達に脅されて、従わされてるんでしょ⁉ ここの人達にも、遺伝子にも負けちゃダメ! 抗うの! 私も精一杯協力するから!」


 思わず静の名前を呼んでしまいそうになってしまう。


 眞咲は遺伝子研の入口ドアの上方を見上げた。そこに設置された監視カメラが、こちらの様子をじっと見つめている。


「楢原さん……」


 眞咲は静に向き直り、全力の笑顔で言った。


「あなたの協力なんて、僕にとって何の役にも立たないんです」


「っ……!」


 静は息を呑み、絶望的な表情になった。


 その手を振り払い、眞咲は背を向けた。


 泣き叫ぶような静の声が背中に追い縋る。


「遺伝子に抗って‼ お願い‼」


 眞咲は立ち止まり、背中を向けたまま言った。


「遺伝子は――僕の、刀です」


 笑顔である必要はない。もう静に顔を見られることは、二度とないだろうから。


「……さようなら、楢原さん」


 ―――― ◇ ――――


 自動ドアをくぐると、真正面にいばら由布里ゆうりがいつもより険しい表情をして立っていた。


 眞咲は急いで笑顔を貼り付け、

「……遅くなってすみません、課長。部隊の皆さんは――」


 言い終わらない内に荊はこっちに向かってきた。


 その勢いに眞咲はたじろぐ。


 荊は烈火の如き表情で猛然と眞咲に近寄り――


 ……眞咲を、強く抱きしめた。


「え……」


 戸惑う眞咲。眞咲よりもかなり背の低い荊が、眞咲の頭を掻き抱くようにしてその肩に押し付けている。


 何も言わずに、荊は眞咲を抱きしめ続けた。


 荊の鼓動と息遣いを肌で感じ、桜のような優しい香りに包まれていると、眞咲は遺伝子のことも等活とうかつ部隊のことも武装蜂起のこともしばし忘れ、


 ――ここに帰ってきて、よかった。


 どうしようもなくそう思ってしまった。


 ―――― ◇ ――――


「この先同じようなことがあったとしても……僕は今日みたいに、殴られる方を選び続けるよ」


 あの時、眞咲は確かにそう言った。


 中学の頃の塾帰り、静が暴漢に襲われかけた日のことだ。警察署で事情聴取を受けた後、静と眞咲は廊下にある長椅子で、親の迎えを待っていた。


 静の心は徐々に落ち着きを取り戻し始め、それと代わって犯人達への憤りが湧き上がりつつあった。


「こんなの間違ってる……。あんな酷いことする人達に、反撃すらできないなんて……。あんな人達が居たんじゃ、VGS手術も意味ないじゃない……」


「意味はあるよ」


 眞咲は喋り難そうにしながらも穏やかに言った。応急処置の施された横顔が痛々しい。


「どうせ僕なんかがやり返しても多分結果は同じだった。それならわざわざ相手と同じレベルにまで落ちてやる必要なんかない。きっと僕たちは、獣に戻るべきなんかじゃないんだ。遺伝子に枷を取り付けてでも」


 ちょっと抜けた所がある男の子だと思っていたのに、こんなことを考えられる人だったなんて――静は初めて見るかのように眞咲の横顔を見つめた。


「意味はあったと思いたいよ。僕は……」


 眞咲は静の方に顔を向け、目を細めて口の端に皴を寄せた。微笑んでいるのか痛みに耐えているのか判断がつきかねる表情だったが、その顔を見た静の胸は電流を流されたかのように震え、悶えるような熱を持った。


「……おかげで楢原さんを助けられたし。一応ね」


 ―――― ◇ ――――


 静は走っていた。


 どこへ行くかもわからず、ただただ悲しみから逃れるように静は走った。


 どうして眞咲はあんなことを――人斬りゲノムとかいうものが、眞咲をあんな風に変えてしまったの……?


 ――愛の力があれば、遺伝子にだって抗えるさ。


 医務官の廣澤ひろさわから聞いた言葉が頭の中で反響する。静は頭を振ってそれを消し去った。愛の力なんて、そんなのは安っぽいドラマの中でしか通用しない。眞咲を救えるほどの力なんて、遺伝子に抗えるほどの力なんて、私には――


 ――異形の子らよ、歪められた遺伝子に抗うのです。


 静は足を止めた。以前見た、『神の子供達』リーダーのアーヴィング・バラシュによる声明発表動画が思い起こされる。


 ――異形の子らよ、どうぞ我々にご連絡ください。門戸はいつでも開いています。


 静の脳裏に恐ろしい考えがよぎる。とてつもなく危険で、成功しようが失敗しようがこれまでの全てが一変してしまう、悪魔じみた考えだ。


 だけど……それ以外に眞咲を救う方法はない。眞咲が手の届かない所に行ってしまうなんて、それだけは絶対に嫌だ。眞咲は私を二度も救ってくれた……今度は私が救わないと。


 静は携帯を取り出し、検索フォームを立ち上げ、震える指で『神の子供達 連絡先』と入力した。


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