国立遺伝子研究センターの地下駐車場入り口から、一台の黒いセダンが砲弾のように飛び出し、幹線道路を東へ爆走していく。
ハンドルを握っているのは
運転席の荊が言う。
「他の隊員はすでに出動した。予想より敵の展開が早くてな。渋谷二丁目の廃ビルが占拠された――というよりそこが奴らの潜伏場所だったらしい。陸自の偵察ドローンによれば、戦力は傭兵が六十人程度。まずい状況だ」
窓から見える反対車線では、ひしめくような大渋滞が延々と続いている。みな都心から逃げ出そうとしているのだ。
「作戦は、そのビルの制圧ですか」
「ひとまずはな。相手の出方によって臨機応変に対応することになるだろう。……ただ、私は途中で遺伝子研に戻ることになるかもしれない」
眞咲はバックミラーを見た。荊の背が低いために、その顔は映っていない。
「どうしてですか?」
「……やらねばならないことがある」
「やらねばならないこととは? 都心のど真ん中のテロ行為を阻止することよりも大事なことなんですか?」
「……言えない」
「なぜ?」
「言えないものは言えないんだ! 食い下がってくるな!」
荊は声を荒げた。
眞咲は下を向き、
「……課長が後ろで見てくれていないと、僕は困ります」
「……子供みたいなことを言うな。そもそも嫌いだったんじゃないのか。私のことは」
「一度もそんなこと言ってませんよ。……でも、正直なところ分かりません」
「なら嫌いでいろ。その方がいい」
「それは多分できません。だって……」
眞咲は笑顔を前に向けた。
「少なくとも今は、課長に側にいて欲しいと思ってますから」
荊の手がぴくりと動き、車が少しだけ揺れた。そして、
「――……ぃいいっっっぷしぇえええええええええええええええぇぇぇぇぇぃ‼」
「――⁉ ……あの、それやめてもらえませんか……? 心臓に悪いんです……」
「ずずっ……花粉だ、仕方がない」
二人を乗せた車は飛ぶように走っていく。
―――― ◇ ――――
「はい、クララです。いかがなさいましたか、バラシュ教授」
「ああクララ、ご苦労様。そちらの状況はどうだね」
「部隊の配置は完了しました。ご指示をくだされば、すぐにでも」
「そうか。ところで、君の位置から見えるかね? その異形の街が」
「はい……相も変わらず、自らの醜さを改めようともしない、獣の街です」
「ところがそうでもなさそうなのだ。我々の仕事によって、彼の国の人々にもある変化が起きているようでな」
「というと?」
「SNSを中心に、VGS手術を取りやめるべきだという運動が、かなりの規模で展開されているようなのだ」
「つまり……次の世代の子供達には、無垢な遺伝子で産まれて欲しいと思うようになったのですか? この国の人々は」
「ふふ……いいや違う。単に我々を恐怖したがゆえの行動だ。彼らは気付いたのだよ。自分達を守ってくれる存在が周りにいない事に。警察も軍隊も、みな遺伝子を歪められて戦えなくなった。だから次の世代には戦える遺伝子を残したまま産まれてもらおうというのだ。分かるかね? 自分達の身を、これから産まれてくる赤ん坊に守ってもらおうとしているのだよ。日本人は」
「…………。ルシファーですら、こんな忌まわしい者どもは産み出せないでしょう」
「日本人の民度などその程度だ。吼えて追い立ててやらねばどうにもならない羊だよ。……ああ羊といえば、君に一人預けたい。迷える子羊を」
「もうこれ以上協力者は不要では」
「いや、話を聞いてみたが色々と面白いことを知っている娘だ。君の役に立つだろう。例の『ローニン』を討つための」
「ローニン……? 奴はそんなコミックヒーローのようなものでは」
「ああ知らないかね。ローニンとは『サムライ』と同じく日本語の一般名詞だよ。本義的には仕えるべき主君の下を離れた放浪のサムライという意味らしいが、西洋人にとっては恐るべきテロリストとして受け止められている。十九世紀後半の日本では、数多くのサムライが主君の下を離れてローニンとなり、来日した西洋人を探してはその鋭利な日本刀で斬り殺していった。それからしばらく、西洋人は日本人を見ればローニンではないかと恐れたそうだ。そうしてサムライ、ローニンといった日本語は国際語になり、今なお畏敬をもって使われている。彼らに対する恐怖は、我々のDNAにまで刻まれているのかもしれないな」
「……奴はただの怪物です。私が絶対に、奴を討ち果たします」
「もちろんだ。そのために、怪物の餌を持っていくといい。君の希望に沿うことだろう」
「……分かりました。教授が仰るのであれば」
「ああ、君の武勇に期待しているよ、クララ」
―――― ◇ ――――
【殺人者による平和? 首相、マーダーゲノム保因者による防衛部隊の存在を認める発言】
十一日午後開かれたイノセンティスト武装蜂起に関する緊急記者会見において、今回のテロに政府としてはどう対応していくのか、という記者団の質問に対し、首相は遺伝子局管轄の安全対策課と連携して事態の収拾にあたると答えた。「それは以前から疑惑のあったマーダーゲノム保因者で構成された治安維持部隊のことか」と記者が再度質問すると、首相は「私自身の立場では肯定できないが、客観的事実を考慮しつつ国民の皆様に真摯に向き合って答えるとするならば必ずしも否定できるものではないと答えざるを得ないことになってしまう」と答えた。
マーダーゲノムとは、殺人経験を持つ人物の遺伝子が隔世的に発現して――
《新着コメント》
『やっぱあったのか』『気持ち悪い……何で生きてんのよそんな人間が』『警察に避難しろって家追い出された。マジ最悪』『マーダーゲノムでも何でもいいからさっさとあいつら殺して。その後死んで』『殺人者同士で殺し合ってくれるんでしょ? じゃあいいじゃん』『殺人者の子孫に国防を委ねるなんて間違ってる。やはりVGS手術は廃止するべき』『他人の子供に命を懸けてくれなんてよく言えますね。一生子供もパートナーもできない人には分からないんでしょうけど』『イノセンティストもマーダーゲノムも根絶やしにすれば全部解決』『じゃあさっさとやれよマーダーゲノムさんよ』『は? 勝手に殺人者って決めつけるあなたの方が殺人者なんじゃないですか?』『はいはい。どっちでもいいからさっさと現場行って死んでこいや』
「ほんっと、地獄だよねー……」
イヤホンから〈刺殺〉の叫び声が聞こえる。
『おい〈絞殺〉‼ 立って逃げろっつってんだろ‼ こっちは動けねぇんだ‼』
「いやさぁ……自分がどん底にいる時って、それ以下のどん底見て安心したくならない……? ならないかぁ……」
蔡羅は清掃用品が納められた棚にもたれかかって座り込んでいる。隊服はぼろぼろであちこちに血が滲み、右足首にはひと際大きな血痕がある。得物の絞殺ウィップは死んだ蛇のように床に横たわっていた。
そっと踏みしめるような足音。その音が何人分も重なり、突然目も眩む光が蔡羅を襲う。
「ちょっと、光の当て過ぎはNG……」
蔡羅は手のひらで遮りながら言った。
四人の傭兵が用具室に侵入し、先頭の男がタクティカルライトで蔡羅を照らしている。周囲の索敵を終えた後、四人は展開して一斉に蔡羅にサブマシンガンの銃口を向けた。
「わーぉ。いっぱい見てくれてる……」
蔡羅は顔を背けず、目も閉じずに男達を見つめ返した。
傭兵の人差し指が曲がってゆく。
その時、紫の光が横に一閃。直後に四人の胴から赤い奔流が噴出する。
四人の傭兵だったものは血の海に倒れ、その後ろから現れたのは紫焔の刃を持つ人影。
「……あーらま」
蔡羅は目を丸くしてその顔を見上げた。
眞咲はプラズマブレードを納刀した。鞘の排熱孔から白い蒸気が吹き出す。
「立てますか? 菅野さん」
微笑みながら右手を差し出すと、蔡羅は目を丸くしたままその手を握って立ち上がった。
「なんか君……ちょっと見ない間に……」
「人斬りの顔になりましたか?」
笑顔で言う眞咲。すると蔡羅は何故か顔を赤くした。
「いやーそういうの今はダメだって……アタシそういうのキちゃうんだって……」
何やら呟いている蔡羅を尻目に、眞咲は無線のスイッチを入れる。
「菅野さんを救出できました。他の皆さんは?」
―――― ◇ ――――
路肩に停められている大型トラックのコンテナに、たったいま荊が乗り込んだ。
その司令車の中では
その廣澤が快活に言った。
「まったく恐ろしいですよ。さすがあなたの」
「黙ってろ」
荊は低い声で言い捨て、ヘッドセットを装着した。
「間宮達が敵に押し込められている。三階、南西の角だ」
―――― ◇ ――――
「というと……この真上ですね」
眞咲は天井を見上げた。確かに上からくぐもった銃声がいくつも聞こえてきている。
「菅野さん、少し離れていてください」
「あ、はい」
蔡羅は素直に従い、眞咲から離れた。
眞咲はプラズマブレードの鯉口を切る。そこでふと思い当たり、無線の荊に話しかけた。
「そういえば……この刀って、名前あったりするんですか?」
『名前? 普通にプラズマブレードと呼んでるが、それがどうした』
「うーん、どうせなら日本刀っぽい漢字の名前がいいなと。プラズマブレードって呼ぶの……なんか……恥ずかしいですし」
『……その感覚はちょっとよく分からんが、だったら……』
荊は少し沈黙した後、言った。
『……