人の逃げ惑う渋谷スクランブル交差点の中心に、彼女が佇んでいる光景。そこを切り取ればまるで一幅の絵画のように見えることだろう。
後ろでまとめた栗色の髪、動きやすいコンバットジャケットとパンツ、腰の後ろには鞘に納まったサーベルとレイピア。クララは右足を少し曲げつつ、討つべき怪物がやってくるのを静かに待ち続ける。
バラシュの勧めであの娘を囮に使いはしたが、人質として利用するなどはクララには到底できないことだった。三十分ほど前、娘を連れて交差点まで来た時、クララは手ぶりで「あっちへ行け」と示した。娘はなぜか首を振って拒否していたが、クララが強い調子で促すと、何度も振り返りながら何処かへと消えた。
クララは気を落ち着かせるべく目を閉じた。すると否応なく故郷の光景が脳裏に浮かぶ。
ジニタリアは東欧の要衝地に位置する小国であり、周辺国の侵攻を幾度か経験していた。クララが産まれるより二十年ほど前、大国からの容赦ない侵攻を受けたジニタリアは美しい自然にあふれた国土の多くを焼かれた。
誰も助けてくれない。戦わなければ国は守れないんだ――と、幼少時のクララは周囲の大人から何度も何度も聞かされた。クララはその言葉を素直に受け取り、いつしか剣術を学ぶようになった。自らの先祖であり、その武勇で国を守ったという騎士に憧れていたからでもあった。
十歳を過ぎた頃、遠い東にある日本という国でVGS手術というものが行われていることを知った。遺伝子を手術して争いができないようにする? とてもいいことじゃない。なぜみんなそれをやらないの? と、クララは大人達に聞いて回った。文化が違う、国際的環境が違う、パワーバランスが崩れる、など、クララにはよく分からない答えばかりが返ってきた。
「違うよクララ。彼らはね、悪魔と契約したんだ」
と言ったのは、『ジニタリアで一番頭のいい人』ことアーヴィング・バラシュ教授だった。
「彼らは遺伝子工学という悪魔の業を使って、戦争という人類が背負うべき永遠の難題に背を向けたんだ。ただ自分達だけが助かりたい一心で、君や世界中の人間が苦しんでいる争いから逃れたんだよ。もっとも、逃れ得たと思っているのは彼らだけだがね」
そんなの……ずるい。
「だろう? その上彼らは怪物を飼っている。遺伝子を弄んだ報いとして産まれてきた、哀れな殺戮者達をね。彼らは無害な羊を装いながらその裏で、殺戮をするためだけに産まれてきた恐ろしい獣を使役しているんだよ」
そんな……。そんなこと、許せない……
「その通り。だからこそ、誰かが正しく殺してやらないといけない」
ただしく、ころす?
「そうだ。戦いを邪険にする多くの哀れな者達、そして邪悪な戦いをする少数の哀れな者達。いずれの邪も、正しく殺してやらねば。それが彼らのためであり、そして未来の子供達のためでもあるのだ。だから君の力が必要なんだよ、クララ」
わたしの、ちからが……?
「小さな騎士よ。いずれ君こそが、未来の子供達を守る正義の騎士となるんだ」
クララは目を開けた。
夕焼けに照らされる交差点の向こう、渋滞の隙間を縫うようにこちらに歩いてくる、一人の青年。
血に塗れた深緑色の軍服。そして腰にはあの恐ろしい火を噴く剣。
警察署の時は無表情だったのに、今は楽しそうに笑っている。……おぞましい。あれだけの殺戮をして、あれだけの血を浴びておいて笑っていられるなど、正気の沙汰ではない。あんな人間に、一抹の正しさもあるはずがない。
青年は間合いの外で足を止め、笑顔を少し弱めて、
「……楢原さんは、どこですか?」
と意味の通じない言語で言った。
クララは黙殺した。同時通訳アプリがあるとはいえ、こんな人間と言葉を交わしたくはない。交わすことのできるものが一つでもあるとすれば、それはこれだ。
クララは二本の剣を抜いた。右手のサーベルで相手の攻撃を受け流しつつ斬り結び、左手のレイピアで細かい隙を突く。双剣術の形態としてこれほど合理的なものはない。
だがそれは相手が斬り結ぶことのできる武器を持っている場合の話だ。あの炎の剣の凄まじい切れ味は以前の戦いで学んだ。剣をぶつけ合わせず、つまりバインドせずに隙を見つけていかねばならない。
クララには自信があった。一対一なら相手の得物が銃であっても後れを取ったことはない。ましてあんな剣に対する冒涜のような武器など、使い手の力量が知れるというものだ。
青年も武器の柄を握り、ゆっくりと抜いた。地獄のような紫の炎が青年の顔を照らす。
哀れな怪物よ、邪悪な殺戮もここまでだ。
私が――正しく、殺してやる。
アスファルトが揺れるほどの脚力を込め、クララは前に踏み込んだ。サーベルを握った拳を顔の前に置き、長いステップで敵の正面へ。青年は身じろぎもせずに剣を立てて待ち構えている。間合いに達する直前に、クララはサーベルを横へ振りかぶる。
しかしそれはフェイントだ。本命は、腰だめに構えた左のレイピア。衝撃波を纏って発射されたそれは、ブレることなく敵の顔面へ。
サーベルを叩き斬ろうとしていた敵は頭を振って辛くも逃れる。しかしクララは寸刻も与えず突きに突く。一度のバインドも許されない以上、刺突主体で攻めるしかない。
敵は上半身を揺らしながらどんどん退がる。不意にその目がぎらりと光ったかと思うと、敵の身体が視界から消える。
――下!
クララは読んでいた。攻めに攻め込まれている状況では足を狙うのが常套だ。クララはその動きを見ようともせず身体全体を大きく捻った。地面を蹴り、両足を風車のように回転させてバタフライツイスト。熱と空気の動きから、身体の下を炎の剣が通ったのが分かる。回転の勢いそのままに、サーベルを上から斬り下ろす。
手応えなし。着地と同時に体幹を整え、間髪入れずに突きを――敵が、いない。
慌てずに視界を拡げる。探すまでもなく奴はいた。前方の細長いビルの中、狭い商店の棚の間に、何をするでもなくただ立っている。――ただ、笑って。
……誘いか。乗ってやろう。貴様の邪は全て、私の正義で祓ってやる。
騎士は駆けた。笑う地獄の怪物に向かって。