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第二十九話 善悪


 八階建てファッションデパートの五階フロア。


 その中央にはイベントブース用に広いスペースが取られており、そこに三十名ほどの人質が集められていた。家族連れや友達グループなど、老若男女様々な人々が怯え切った顔で床に座らされている。


 そしてその周りを取り囲む、武装した傭兵達。付近には脱ぎ捨てられた防護服とガスマスク。傭兵の一人は銃ではなく刃渡り六十センチほどのマチェーテを握っている。人質の処刑用だろうか。


 傭兵の一人が巡回を終えて、くるりと振り返った。


 その背に向けて獣のように跳びかかる、金髪メッシュの少年。


〈刺殺〉は空中でくるりとナイフを回転させ、それをガスマスクの隙間から突き立てた。


 同時に蔡羅さいら小峰こみね間宮まみやと隊員達が突入。人質達が叫び声を上げる中、乱戦が始まった。


〈刺殺〉は一人目の犠牲者から飛び降り、次の敵――マチェーテを持った男へと向かう。


 その傭兵は一瞬怯んだがすぐに腰を落とし、巧みな剣さばきで斬りかかってきた。


 素人がよ――! 〈刺殺〉は瞬時にマチェーテの動きを見極め、隙をさらした一瞬を逃さず、腕をくねらせながらナイフを突き出す――左手首の腱に刺さり、マチェーテが落ちる。


 傭兵は手首を抑えながら飛び下がった。不確かな足取りながらも〈刺殺〉と距離を取り、腰のホルスターから拳銃を取り出す――


〈刺殺〉は舌打ちした。マーダーゲノムは遺伝子に宿命づけられた一種類の殺し方しかできない。特化していると言えば聞こえはいいが、所詮は一芸だ。戦術の幅は限られる。一方イノセンティストに遺伝子の枷はなく、当然殺し方にも制限はない。


〈刺殺〉は前に踏み込んだ。いつの戦いの時もそうしてきた。ナイフの届く距離まで突っ込み、刺す。それができなきゃ死ぬまでだ。


 傭兵は狙いの定まらないまま撃ってきた。腕、腰の肉が削られる。痛みに顔をしかめながらも勢い止めずに床を蹴り、ナイフを敵の顔面へ。


 悪運が勝った――。突き立ったナイフが二、三度痙攣し、命の手応えは消えた。

〈刺殺〉は立ち上がり、周囲の様子を見る。他の隊員も何とか敵を制圧できたようだ。


「そんじゃ、他の奴らが集まってくる前に――」

 と言った時、〈刺殺〉は後ろ腰に灼けるような痛みを感じた。


「なッ……⁉」

 弾かれたように振り向く。


 人質の中にいたはずの三十代中頃の男が、震える手でマチェーテを構えていた。床に落ちていたそれを拾い、〈刺殺〉を斬りつけたのだ。


「殺人鬼を殺せ‼ 未来の子供達のために‼」

 一人の雄叫びを皮切りに、次々と立ち上がる人質達。バッグやポケットから拳銃、ナイフ、果ては包丁まで取り出し、間宮達に向かっていく。


〈刺殺〉は叫んだ。

「こいつら人質じゃねぇ‼ 国内のシンパだ‼」


 マチェーテを持った男が突進してくる。〈刺殺〉は即座にナイフを構えようとするが、しかしその向こうにいる人々が目に入り、動きを止めた。


 全員が偽の人質というわけではなかったらしい。観光客らしき夫婦。中高生女子のグループ。そして、小さな女の子を連れた家族。それらが皆恐怖に顔を歪めて〈刺殺〉の方を見ている。


 男がマチェーテを無茶苦茶に振り回しながら突進してくる。その目には涙さえ浮かんでいる。


 ナイフが動かない。どうしても、動かす気になれない。


〈刺殺〉ともあろう者が思ってしまったのだ。こいつを、殺したくない――と。


 その瞬間、名状しがたい不快感が体内をかけめぐり、頭痛、吐き気、意識の混濁が一気に襲ってきた。


 身体の自由も効かない中、男の振り回すマチェーテが目前に迫る――


「え……?」

 その声はどちらが発したものだったか。


 男の右目にナイフが深々と突き刺さっていた。その柄を握るのは、当然〈刺殺〉の手。


 マーダーゲノムは自殺ができない。


 自分を殺そうとしている相手を殺さないのは、すなわち自殺である。


 少なくとも、ゲノムはそう判断する。


 マーダーゲノムとは、相手を殺してでも生き残ろうとする強い生存欲求なのだろうか。


 男が全ての力を失って崩れ落ちた。


 目玉を、ナイフに残したまま。


 人質達がその凄惨さに金切り声を上げた。


〈刺殺〉は呆然と横を向く。


 小峰がハンマーで中年男性の頭を叩き潰していた。


 反対側を向く。


 蔡羅が銃を持った男の首にウィップを巻き付けていた。蔡羅はそのまま〈刺殺〉の方を向き、泣きそうな顔で微笑んだ。


 背後で銃声。〈刺殺〉に迫っていた正面の敵が、額に風穴を開けて倒れた。


 後ろを見る。


 間宮がサブマシンガンを構えながら、岩のような表情で言った。

「……仕事を果たせ。〈刺殺ゲノム〉」


 …………


 ――一体、何を勘違いしていた。


 佐久間の行動に影響されて、自分が善の側に立ったつもりにでもなっていたのか。


 善と悪など建前で、そのどちらもこの世には存在しないという。しかしそれも実は建前であり、人の世には通念としての明確な基準が厳然として存在している。


 殺すのは悪で、殺さないのは善だ。


 テロを防ぐためだろうと、国を守るためだろうと同じこと。殺人でしかそれが果たせないのなら、こいつらと何の違いがある。


 人質の救出に来たのではない。敵を殺しにここへ来たのだ。


〽殺人者の子は殺人者。子々孫々まで殺人者。延々互いに殺し合う、等活地獄の罪人だ。


「……へへっ」


〈刺殺〉は腕を振ってナイフから汚れを落とし、腰のベルトからもう一本ナイフを取り出した。


 そして両手に持った二本の刃を交差させ、強く擦った。


 火花が〈刺殺〉のイカれた笑みを照らす。


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