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第三十一話 本性

 ドラッグストアの二階、照明の落ちた化粧品売り場の真ん中で、クララは双剣を構え、ただその時を待っていた。


 もう逃げようとは思わなかった。むしろ来てくれることを望んでいた。プレゼントを開ける前の子供のような心持ちで、クララは斬撃を待った。


 暗闇の中に細い三日月が煌めく。クララは臆せず前へ。一瞬の交差。敵の刀は腕を裂き、クララのレイピアは脇を穿つ。傷の交換。しかしこちらのダメージの方が遥かに多い。それでもクララの脳には快楽物質が花火のように打ちあがる。


「あはっ……‼」


 違う、こんなの私じゃない――頭の隅に追いやられた理性が必死に叫ぶ。しかし一度坂を転がり落ちてしまったエクスタシーは増大を続けてゆく。


 ぎりぎり致命傷にならない程度の回避をしながら敵の身体へ連続攻撃。


 関節に粘り付くような疲労は浮遊感へと変わってゆく。痛みは電流となって脳に陶酔をもたらし、飛び散る血は絵の具のように視界を彩る。


 未踏の快楽に惑溺し尽くし、ついにクララは絶頂の時を迎えた。


「あっははハハハハハハハハハハハハハは‼ あはっ‼ あ――――ッハハハハハハハ‼」


 ―――― ◇ ――――


 しずは道路を挟んだ向かいのビルの陰から、ドラッグストアの様子を窺っていた。


 何かが壊れる物音と光の点滅が繰り返される中、何か笑い声のようなものが聞こえた気がする。もしかしてあの女の人が……? 何が起こっているのかまるで分からないが、何にせよ悪い予感しかしない。


 静は竦む足を叱咤して歩き出そうとした。眞咲がいる前でをやらなければ、何のためにここへ来たのか分からない。でもどうやって……


「やあ、楢原ならはら静さん」


 背後から突然の声。静は肩を震わせて振り返る。


 裏通りから歩いてきたのは、小太りの身体を白衣に包んだ三十代後半の男。


廣澤ひろさわ、さん……?」

 静が呟くように言うと、廣澤は快活に笑った。


「よく決心したもんだね。けしかけた僕が言うのも何だけど、愛の力ってやつは凄いもんなんだなあ」


「けしかけ、た……?」

 静は今初めて見るかのように廣澤を見た。


「まあ僕の言葉が君にとってどの程度効果があったか分からないが、それでも君は僕の思惑通りに動いてくれた。彼に見せたかったんだろう? 遺伝子に抗う姿を。遺伝子の枷を解き放てることを彼の前で証明するために、君は自ら『神の子供達』にコンタクトを取ったんだろう?」


「…………」

 沈黙しか返せない。廣澤はズボンのポケットに手を入れて近づいてくる。


「そして今君に必要なのは、これのはずだ」


 廣澤はポケットから取り出した器具を、静に差し出した。


 静は目を見開いてそれを見る。


「使い方は簡単だ。君が思ってる通りにすればいい。かなり近づく必要はあるけどね」


 静は困惑した目を廣澤に向け、

「どうして……?」

 と言った。


 廣澤は独り言のように呟く。

「……佐久間さくまさんの行動には驚かされたよ。やはり僕らは遺伝子のことを何も分かっちゃいなかった。きっと遺伝子とは人間そのものなんだ。人間が遺伝子なのか遺伝子が人間なのか。誰も、何も分かっちゃいない」


 廣澤は身を乗り出すように、

「だからこそ僕は知りたいんだよ。遺伝子を。つまり人間を。そして僕は――僕達はまだ、人間であるのかどうかを。生物的性質に縛られず、自発的に選択できることが人間であることの証しならば、今の僕達はもう人間じゃない。そうだろう?」


 静は数歩後ろに下がった。


 廣澤は笑い、

「ああ、ごめんよ。ついね。とにかく君は彼を救いたいんだろう? だったらこれが必要だよ。僕にはこれは扱えないし、君がやらなきゃ意味がない。大丈夫。君ならきっと出来るさ」


 静は恐る恐る手を伸ばす。


 廣澤は快活に笑って言った。

「遺伝子に抗うんだ。彼を、人斬りゲノムから解放するために」


 ―――― ◇ ――――


「あっははハハハハハハハハハハハハハは‼ あはっ‼ あ――――ッハハハハハハハ‼」


 眞咲まさきは驚愕した。自分が相手にしているクララ・プロシュタヌという人間が、何か別の生き物に変化したかのように思えた。


 おかしいと思う兆候は少し前からあった。こちらの攻撃を積極的に回避しなくなり、多少の傷は意に介さず攻撃に転ずるようになった。それはまだいいが、まさに騎士のように厳格だったその表情が喜色を帯び始め、笑い声まで漏らすようになった。そしてついにはこの呵々《かか》大笑たいしょう。一体彼女の中で何があったというのか。


 眞咲は居合の体勢で踏み込み、刃を下に向け、すくい上げるように振り抜く。クララは妖精のようにひらりと身をかわしてレイピアを射出。眞咲は辛くも避ける。


 身のこなしは不規則で掴みどころがないが、決して自暴自棄ではない。それどころか剣の動きはますます冴え、眞咲も致命傷を外すのがやっとになっている。


 心が怯んでしまった。眞咲は追撃を加えず納刀して跳び下がる。が、クララも即座に跳んで距離を詰めてきた。


 暗闇に浮かぶ顔は血に染まり、加えて頬の上気によって赤く染まっていた。興奮で赤面しているのだ。楽しそうに、嬉しそうに、気持ち良さそうに。


 眞咲はもはや恐怖していた。自分の中には人斬りゲノムがある。では彼女の中には何が? 彼女が無垢な遺伝子イノセンティストだというならば、彼女をこんな風にしたのは何だ?


 眞咲は人間が分からなくなってしまった。


「あっは――‼」

 笑い声と共にサーベルの袈裟斬りが襲ってくる。


 迎撃は間に合わない! 眞咲はとっさに『葉桜はざくら』を鞘ごと顔の前に持っていき、右逆手で柄を握って半ば抜く。その刀身にサーベルが殺到。プラズマがサーベルを焼き斬る。


 しかしクララは止まらなかった。がら空きになった眞咲の胴目掛けてさらに跳躍。顔面を眞咲の鳩尾に激突させる。


 たまらず身体を折り曲げる眞咲。クララはそのまま眞咲の腰に腕を回し、細身の女性とは思えないパワーで猛牛のように突進。眞咲は為す術なく押し込まれる。


 背後は窓ガラス。それを勢いよく突き破り、眞咲はクララと一体となって二階の窓から落ち、道路に背中から叩きつけられた。


「ッ……! ぐ……!」


 受け身によって何とか後頭部は打たずに済んだが、骨にひびが入った感覚と共に視界が白く点滅した。


 クララはゆっくりと眞咲の胸から顔を離す。そして地面に手を付き、眞咲に覆いかぶさるように顔を近づけてくる。


 ジャケットやパンツはあちこち斬り裂かれ、赤い血の隙間から白い肌と下着が覗いている。


 後ろにまとめていた栗色の髪がパサリと落ち、カーテンのように眞咲の顔を覆う。


 街灯による逆光の中でも瑞々しく輝くライトグリーンの潤んだ瞳と紅潮した頬。


 薄紅の唇が開かれ、妖艶な声のトーンでジニタリア語の言葉が発せられた。どういうわけか、眞咲の脳はその言葉の意味を間違いなく理解できてしまった。


「もっとシて……」


 全身が総毛だった。


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