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第三十二話 遺伝子に、抗え――


 しずは二人の様子をビルの陰から見ていた。


 あの恐ろしい女性が眞咲まさきに覆いかぶさり、顔を近づけていくのを見た。


 静の体温が一気に上がり、転ぶようにビルの陰から駆け出した。


 心の準備もできていないまま手に持ったその武器を前に突き出す。


 しかしその時、強烈な不快感に全身を蝕まれ、静は足を止めて口元を押さえる。


 胃の中が回転し、体温は急低下と急上昇を繰り返し、一切の筋肉に力が入らなくなる。


 遺伝子が身体に急ブレーキをかけている。お前はそれをしてはいけない、と。


 両親の顔が思い浮かんだ。両親はきっと、心から願ってくれたのだろう。人を傷つけない、優しい子に産まれて欲しいと。世の大多数の親がそうであるように、ただそう願って遺伝子に枷を取り付けたのだろう。


 ――ごめんなさい。お母さん、お父さん。


 静は気力を振り絞って立ち上がった。脚がぐらつき、胃液が上り、目が霞む。それでも立ち上がり、歯を食いしばりながら前へと歩く。


 前方には一人の背中。視界が揺らいで輪郭しか見えず、人物の判別はできない。


 でも狙いを間違えることはない。眞咲まさきの背中が分からないわけがないから。


 静は武器を両手で握り、腕を伸ばして突き出した。


 鼻の奥から血が流れ出し、顎から滴り落ちていく。


 ついに胃の中があふれ、血と混じり合って鼻と口から流れ出る。


 身体の全てが全力で引き止める中、わずかに残った何かが静を突き動かしている。


 そして静は、遺伝子が命をすりつぶしていく感覚を味わいながら――


 命の限り、引き金に力をこめた。


 ―――― ◇ ――――


 眞咲は覆いかぶさっているクララの腹を思い切り蹴った。


 クララは頭を揺らして後ろに吹っ飛ぶ。しかしすぐに起き上がり、レイピアの切っ先を向けてファントの構え。服はぼろぼろ、髪は大わらわ、顔は血みどろだが、表情は未だ悦楽に満ち溢れている。


 眞咲は『葉桜はざくら』を支えにして起き上がった。しかし背骨とあばらに激痛が響いて力が入らず、膝立ちの状態から立ち上がることができない。


 快楽に酔いしれる騎士は左足を踏みこんで突いてきた。右肩に切っ先が刺さる。かと思うと次は左肩。今度はその下。身体の前面に穴が開いていく。


 クララは楽しんでいた。あえて致命傷を与えずに甚振いたぶることを。自分が与えた傷から血が細く噴き出している様を見て、子供のように喜んでいた。


 クララは自分の身体を抱きしめ、電流を浴びたように痙攣した。


「――――ッ‼」

 官能を通り越した背徳的な表情で、目玉は裏返りかけている。クララは完全に到達してしまっていた。


 眞咲は片膝を立てて『葉桜』を何とか引き抜く。しかしプラズマの刃は持ち手の気の萎みを反映したかのように弱々しい。


 クララのぎらついた目が眞咲を捉える。到達点のさらなる先を求めて。


 顔の前まで持ち上げられたレイピアの先は、眞咲の眉間に狙いを定める。そこを貫いた時にこそ、究極の淫楽へいけるだろうという期待を込めて。


 眞咲が構える間もなく、クララは両足で地面を蹴り――



 その時、銃声が全てを止めた。


 眞咲の思考も、クララの動きも、そのエクスタシーも。


 クララは愕然とした表情で身体をのけ反らせ、うつ伏せに倒れた。


 その向こうには――


「静……‼」


 回転式拳銃を両手で構えた、悲惨な状態の静がいた。顔は真っ青で目の焦点は定まらず、口と鼻から色々なものが垂れている。


 静は命を使い果たしたかのように地面に崩れた。眞咲は急いで納刀し、這うように駆け寄った。静の身体を横に向かせ、手で口や鼻を拭う。


 静は咳き込みながら、

「ま、さき……き、たないか、ら……」


「いいから全部吐くんだ‼ それからゆっくり呼吸して‼」


 静は何度か激しく咳をした後、細い呼吸をしながら言った。


「いでんし、に…………あらがえ……た、でしょ……」


 眞咲の顔が苦しみに歪む。

「静……‼ 違うんだ……君がこんなことする必要なんてなかったんだ……‼ 僕は、自分から人斬りゲノムを……‼」


「いい、の……わたしが、こうした、かった、だけだから……」


「え……?」


 静は目を細く開けて涙ながらに眞咲を見た。

「……一人の、ままで……いたく、なかったの……わたし、も……一緒に、行きたかったの……どこ、までも、いっしょ……に…………」


 静は目を閉じ、全身の力を失った。


「静……‼ 静‼」

 眞咲は静を抱きかかえようと身体の下に腕を回した。


 しかしその時。


「え……?」


 背中に突如感じた強い違和感。それは瞬く間に痛みと化して脳を刺激し、身体から急速に力を奪った。


 首を回して後ろを見る。


 そこには――地を這う鬼がいた。


 うつ伏せのまま顔だけを上げ、左手のレイピアを突き出している女。血に濡れた髪は乾いて藁束のようになり、両目は虎のように吊り上がり、歯を剥き出しにしている。顔は血膨れしたように赤いがそこにはもう快楽など欠片もない。紛れもない憤怒の形相だ。


「Ce…… mi-ai… facut…!!」

 私に何をした――とクララは言った。あれほど昂っていたエクスタシーは嘘のように消え去り、代わりに羞恥と憤怒が渦を巻き、どす黒い感情として表出している。


 さっきまでの自分の狂態は、目の前の怪物たちのせいだ――とクララは疑いもなく信じていた。そうでなければ私があんな風になるはずがない。遺伝子の怪物が私に何かをしたのだ、と。


 クララはレイピアを眞咲の背中から引き抜いた。


 眞咲は地面に手を付く。視界が暗くなる。血が出過ぎていた。


 クララは立ち上がり、ぼろぼろのジャケットを力任せに引き剥がした。


 その下から現れたのは薄手のボディアーマー。所々が斬り裂かれてはいるものの、大部分は無事だ。静が放った銃弾は、あれに防がれてしまったのだ。


 眞咲は歯を食いしばり、『葉桜』を手に立ち上がった。身体中からどくどくと血が流れ出ている。残った力をかき集め、何とか居合の体勢を取る。


 しかしクララはレイピアを構えすらしなかった。


 猛然と走り寄り、ありったけの憎しみを込めて眞咲の顔面を殴った。そのまま胸倉を掴み、レイピアのハンドガードを利用して殴りつける。


 鼻をへし折り、歯を弾き飛ばし、さらに殴る。


 そして鳩尾に膝蹴り。顔が下がったところにアッパー。


 両手で胸倉を掴み、顔の前まで持ち上げる。


 血みどろの醜い顔は、すでに意識を失っていた。


 ―――― ◇ ――――


 眞咲は白い光の中を落ちていた。


 こんなことしてる場合じゃない。早く起きないと静が――と思いながらも、眞咲の意識は螺旋の奥へと落ちてゆく。


 やがて前にも体験したように、白い光は段々と輪郭をはっきりさせ、眞咲の意識は何者かの中に入ってゆく。


(これは……)


 不思議な視点だった。すぐ目の前にはセーターを着た女性の胸。温かな腕が眞咲の身体を囲んでいる。


 眞咲は誰かに抱きかかえられていた。その上、視界に映る自身の手足は赤ん坊のものだった。


(これは……僕だ)


 何故かは分からないが確信できる。これは先祖の誰かではなく、自分自身だ。眞咲は幼い頃の自分自身の中にいるのだ。


 だとしたら、僕を抱いてるこの人は……


 ちょうど赤ん坊の眞咲は上を見上げた。中にいる眞咲の意識は懸命に目を凝らした。


 そしてついに、眞咲は母親の顔をはっきりと見た。


 小柄で童顔。一言で言うと可愛い――少女。若いどころではなく、もはや幼い。


 その顔は――


 その、顔は――


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