クララは気絶している眞咲の身体をゴミのように脇へ投げ捨てた。こんな化け物、正しく殺す価値もない――
こちらも気を失っている娘の方へと歩き、それを見下ろす。血と吐瀉物に塗れた醜い顔。こいつも化け物だ。遺伝子工学という悪魔の業を使った者は、みんな異形の怪物になるんだ――
クララは側に転がっていた回転式拳銃を拾い上げ、弾倉をチェックした。弾はしっかり四発残っている。シリンダーを戻して右手に握り、照準を娘の頭に向けた。
これ以上怪物の血で剣を汚したくはない。どこからこれを手に入れてきたのか知らないが、自分の武器で果てるがいいだろう。これでもう、異形の遺伝子に苦しまずに済む。
クララは怒りに身を任せ、引き金に力をこめる。
――天変地異が起こったのは、その時だった。
―――― ◇ ――――
「――‼ ねえ、あそこ‼」
遥か遠方、スクランブル交差点の外れで、変わり果てた姿のクララ・プロシュタヌが地面に向けて拳銃を構えている。その先に倒れているのは制服姿の少女――人質の
「急げ‼」
間宮は叫び、先頭を切って走りだす。
が、しかし、
「――⁉」
とてつもなく異様な気配を前方から感じ、間宮の足は止まった。後続も同じように止まり、異様な何かに打ち震える。
「な、何だ――⁉」
〈刺殺〉が空を見上げて言った。
それはあまりにも現実感のない光景だった。
星のない夜空に、赤黒い雲のようなものが立ち上っている。それは地面のある一点から放出され、渦を巻いて空に拡がっていく。悪夢のような光景が、現実に現れていた。
「ぁ……」
小峰がほんのわずかな声を発し、前方を指さした。
そして彼らは見た。クララ・プロシュタヌの背後で、この世のものとは思えない一つの影が立ち上がったのを。
―――― ◇ ――――
クララは動揺して引き金を引けなかった。
地面が小刻みに揺れ、空が赤く染まっていく。
一体何が起きて――
「――ッ……!」
クララは全ての動きを止めた。
――いる。
背後に、何かが。
熱を持った何かが、どんどん大きくなっている。
それとは裏腹に、クララの身体は底冷えし、歯がガタガタと鳴る。
振り向きたくない。
振り向いた瞬間、全てが終わってしまう気がする。
でも――振り向かなければ、恐怖は永遠に続く……
意を決し、クララは爪先を回した。
そして、それを見た。
それは、人間ではなかった。
身体の中の何かが燃焼し、大気さえ延焼させているような、一つの恐るべきものだった。
全身がくまなく傷に覆われ、その傷が赤く発光しているようにまで見える。炎の刃は以前の姿とはまるで違う。紫色だった刃は今や赤黒く、それが剣全体を包み込むように燃え盛り、さらにそこから立ち上る火柱がビルを越すような高さにまでなっている。
この世に存在する全ての罪を一身に集めたような恐るべきもの。
恐るべきものはクララの方を向いた。
その顔は――笑っていた。
一切の邪心も衒いもなく、ただ――笑うためだけに笑っていた。
「――ぁあ……!」
クララはレイピアを上げた。戦うためではなく、ただ恐怖したがゆえに。
恐るべきものは右腕を振った。
業火が、地面を走った。
巨大な赤黒い刃が地面を割っていき、遥か後方の車列を吹き飛ばした。
車の爆風がクララの髪を前に揺らす。
クララは腰を引いて後ずさった。
恐るべきものは歩き出し、さらに刃を振るった。
黒炎が空を奔り、街灯を次々斬り倒しながらビルの中腹を赤く焼き焦がした。
クララは足をもつれさせながら下がり続けた。
レイピアを強く握り締める。恐怖心の中に、別の感情が芽生え始めていた。
――殺、してやる……‼
崩れる寸前のクララの心が、最後に縋ったのは憎しみだった。目の前のものを憎み、その殺害を強く希うことで、クララは心の形を保った。
レイピアを顔の前に構え、切っ先をまっすぐ前へ。あとはこの足が止まってくれれば――
その時、天を焦がすほどに燃え盛っていた赤黒い炎が、ぴたりと消えた。
地獄のような光景は空からも地上からも消え、全てが夢だったかのように闇になった。
いや、完全な闇ではなかった。
交差点の中心部に、宇宙に一つだけの恒星のように小さく燃える光があった。
クララはその光に目を凝らす。
細い三日月のような紫の刃が、それを構える人間の姿をぼんやりと照らしている。
両手で握った柄を顔の横に据え、刃は上を向き、切っ先はまっすぐ前へ。
ほぼ間違いなく――突きの構え――そう思った瞬間、
焦熱地獄が、再びその姿を現した。
赤黒い炎の奔流が一瞬にしてクララの目前に到達。その身体はボロ人形のように後ろに吹き飛ばされた。
炎はビルの壁に激突、燃やすどころか蒸発させて次の壁へ、それも蒸発して次の壁、さらに次の壁。ついにはビルを貫通し、さらにもう一つのビルまで貫通。やっと炎が消えた時には、ビルの一階部分に幾重にも重なった赤い輪ができていた。
そして最初に空いた大穴のすぐ下には、焼け焦げた女の身体があった。
だらりと下がった手の指は、ピクリとも動くことはなかった。