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第三十五話 「笑って」

 眞咲まさきは人気の少ない夜の街を一人歩いていた。前髪が血でべったりと顔に張り付き、目元を隠している。『葉桜はざくら』の鞘からは黒煙が静かな怒りのように燻り、地面に黒い渦を残してゆく。


 時折、建物や車の中から恐々と覗いてカメラを向けてくる人々がいる。中には何やら称賛の言葉を投げかけてくる人もいたが、眞咲は何にも反応することなく歩を進めた。


 思い出すのは白い光。クララに殴られて気絶していた際、遺伝子に導かれて見た光景。


 それは眞咲に赤と黒の凄まじい激情をもたらし、気となって体外へ放出され、『葉桜』のプラズマをも取り込んで大気中へ飛散し、この世のものとは思えない破壊的エネルギーとなって現実に地獄を出現させたのだった。


 そして今、赤黒い激情は眞咲の足を遺伝子研へと導いている。


 眞咲は歩きながら、白い光の中で見た光景を頭に思い浮かべた――


 ―――― ◇ ――――


 そこは十二帖ほどの部屋だった。窓は一つもないが、照明は明るく温かい。床は暖かそうなタイルカーペットで、壁際には畳まれた子供服や小さな布団、タオルなどが積まれ、さらにはベビーベッド、おもちゃ、ぬいぐるみ、絵本などが散らかっている。


 桜の香りのするベッドの上に腰かける、一人の女性――いや、少女にしか見えないほど若い。その少女は赤ん坊の眞咲を膝の上に抱き、心ここにあらずといった様子であやしている。


 赤ん坊の眞咲は抱かれながら不安そうにむずかり、後ろにいる大人達を見た。


 部屋の中央で、こちらを見下ろしている白衣の男性が二人。一人はまだ若いが、もう一人は頭の禿げ上がった老人だった。


 その老人が、少女と赤ん坊を見下ろして言った。

「……クローンの製造は直接的に軍事力の強化へと繋がる。だからクローン技術に関しては、各国が互いに厳しく監視し合い、制限し合っている。だが、女性が自らの意志で子供を産むことを他国に対して禁止できる国はない。分かるね?」


 びくん、と怯えたように少女は頷いた。


「だからこそ、私は最初から全て君に懇切丁寧に説明したんだよ。君の持つゲノム。その重要性と危険性。我々のプロジェクトの全貌も。君は全てを承知で精子提供も、そして『VGA手術』も受け入れたんじゃないのかい? 史上最強の人斬りを現代によみがえらせ、国家の敵を斬る護国の武士もののふに育て上げることを」


 少女は眞咲を抱く手に力をこめ、震える唇を開いた。

「……はい、そうです」


「ならばだ。せっかく産まれてきた人斬りゲノムに、余計な手を加えようとするのはやめようじゃないか。遺伝子は環境によって変化する。国家の敵を斬る武士もののふとなるべきその子に、弱い心を植え付けてもらっては困るんだよ」


「そんなつもりは……ありません」


「いいや桜間さくらま君、君はその子を惰弱に育てようとしている。何しろこんな――」


 と老人は部屋を見渡した。ベビーベッド、色とりどりの子供服、おもちゃ、ぬいぐるみ、絵本に、侮蔑の目を向けてゆく。


「監視の目を誤魔化してまで、これだけのものを持ち込んで……。君は二年前の覚悟をすっかり忘れてしまったようだ。今さら情にほだされたところでもう遅いのだよ」


 老人は足元のテディベアを蹴り飛ばした。


 少女は震えながらも強い口調で言った。

「この子を、人殺しに育てるなんて……絶対にできません……!」


 老人はため息をつき、

「いいかね。その昔、武家の女が子供を産んだ時には、まず一番にその子が武功を上げることを神仏に願ったのだよ。武士の母となった女は、その子が主君のために忠誠を尽くし、戦においては勇敢に戦って敵の首を挙げ、時には華々しく死ぬことさえ願ったものだ。今は君こそが、その武家の女であるはずなのだがね」


「そんな昔のこと、私は知りません……!」


「しかしその子はもう産まれてしまった。その子は剣で国を守るために産まれてきたんだ。そして産んだ君には、その責任というものがある」


 老人は少女を見下ろし、低い声で言った。

「最後まで責任が持てないなら最初から産むな――などというくだらない説教を、君にしなければならないのかな?」


 少女は黙って眞咲を抱きしめた。


「残念ながら、やはり君にはその子を育てる資格がないようだ。……葉島はしま君」


「はい」

 隣の男性が謹直に返事をして少女に近寄る。少女は身を引いた。


「いや……‼」

 少女の腕に力がこもり、眞咲はむずかりだした。


 老人は男性の肩を叩いて言った。

「心配するな。この葉島君は実直さだけが取り柄のような男だ。遺伝子に余計な手を加えるようなことはすまい。……そうだね?」


 葉島拓哉たくやは媚びるような笑みを浮かべた。

「もちろんです。所長。……さあ、渡してください」


 しかし少女は身をよじる。

「いやです‼ この子は渡しません‼ 人斬りなんかにしません‼」


 腕の中の眞咲は泣き出してしまった。


 少女は涙声で叫ぶ。

「計画は中止してください‼ どんな罰でも受けますから‼ 私が部隊に入って戦いますから‼ だから、どうかこの子を……私から奪わないでください‼」


 少女の叫びと赤ん坊の泣き声に、老人は顔をしかめる。


「……訂正しよう。君には全て伝えたと言ったが、まだ言ってないことがあった。余りにも当たり前すぎて言うまでもないと思っていたが、買いかぶりだったようだ。いいか、その子が今後も君のもとにあるようなら、君達親子の将来は保証できない」


「え……?」

 少女は呆然として老人を見上げた。


「少し考えれば分かることだろう。もしその子が将来、我々の望む護国の武士に育たたなかったらどうする。史上最強の人斬りゲノムを宿した人間を、社会に野放しにできると思うかい。もしその子が敵に回ったらどうする? 何度も言ってるだろう。その子は国の敵を斬るために産まれてきたんだ。それが叶わないとなれば……分かるね?」


 少女はあまりのことに口もきけない様子だった。


「さあ渡して! 俺がちゃんと育てるって……!」

 葉島が少女の虚を突き、強引に眞咲を奪い取った。


 眞咲はひと際大声で泣いた。


「ああもう、静かにしてくれよ……ったく……」

 葉島は腕を伸ばして眞咲を耳から遠ざけた。


「か――金沢かなざわ先生‼」

 少女が叫んだ。ベッドから降りて膝をつき、額を床に着けてさらに叫んだ。


「私が間違ってました‼ ごめんなさい、ごめんなさい金沢先生……‼ これからはちゃんと……ちゃんと、厳しく育てます‼ おもちゃも全部捨てます‼ 訓練とかもさせます‼ ちゃんと言うことを聞くように育てますから‼ だから……お願いです……‼ 眞咲を、連れて行かないでください……‼ お願いします‼ お願いします……‼」


 金沢は皴一つ動かさず、目だけを下に向けて言った。

「もう遅い。女を捨てきれなかったことを悔やむんだな」


 金沢と葉島はドアへ向かった。


 少女は膝を進め、金沢の足に縋りついた。

「せ――せめて最後に‼ 最後にもう一度抱かせてください‼ お願いします‼ お願いですから、眞咲を抱かせてください‼ お願いします‼」


 金沢は眉根を寄せながら、

「最後だ。渡してやれ」


 葉島はほっとしたように眞咲を差し出した。


「眞咲……! 眞咲……‼」

 少女は両手を伸ばし、眞咲を強く抱きしめた。


「ごめんね……ごめんね……!」

 少女は涙を流した。眞咲は抱かれながらも母親の泣き顔に不安を感じ、泣き止むことはなかった。


 少女は謝りながら泣き、赤ん坊はただひたすらに泣いた。


「後悔なんてしてないの……だって、産まれてきてくれたんだから……! 私の所に来てくれたんだから……! だけど、ごめんね……本当にごめんね……!」


 少女は腕の力を弱め、眞咲の背中をさすりながら静かに揺らした。徐々に眞咲は泣き声を弱め、呼吸を穏やかにしていった。


「眞咲……眞咲……!」

 少女は眞咲の顔を正面から見つめ、目に涙を溜めた。そして眞咲の額に、自らの額を密着させた。


 眞咲はそれを嫌がり、またむずかる。少女は額を離し、もう一度正面から見つめた。


「眞咲……」

 そして少女は、目も口も震わせながら、全身の力を振り絞るように、笑った。


「笑って、眞咲」


 とても辛そうに、とても苦しそうに、少女は笑った。


「笑うの。辛い時こそ、苦しい時こそ、あなたは笑うのよ」


 両目の端から、細流のような涙を流して。


「笑顔だけが……あなたを守ってくれるから……」


 最後の一滴の笑顔さえ、少女のもとを去ってゆく。


「私はもう……きっと、二度と笑えないから……」


 眞咲は目を丸くし、口を開けて母の顔をじっと見ていた。


「……もういいだろう。……葉島君」

 金沢は葉島を促し、眞咲を取り上げさせた。


 眞咲は再び泣き出し、少女は追い縋る。

「眞咲! 眞咲……‼」


 ドアの取っ手に手を掛けた金沢は、少女を振り返って言った。

「まあ後十五年もすればまた会える。その時に抱くなり何なり好きにすればいい。……ああいや、抱かれるのは君の方だったか」


 老人の目は、半円形に歪んでいた。


 少女は何を言っているのか理解できないという顔で固まった。


 金沢はドアを開け、眞咲を抱いた葉島を外に出した。そして自身も外に出ながら、言った。

「恨まんでくれよ。第一フェーズに関しては、さっき言った通り全て話した。第二フェーズに関しては……まあ追い追いな」


「え……?」

 少女の愕然とした顔はドアの向こうに消えた。自動電子ロックがカチリと掛かる。


 廊下は眞咲の泣き声と、ドアの向こうから聞こえる少女の叫び声で反響していた。


 葉島は困りきった顔で眞咲を揺らしながら、

「あの、今さらですが所長、私で大丈夫なんでしょうか……私は独身ですし、その、武士みたいに育てるとかはとても……」


「誰も君にそんなことは期待しとらんよ。さっきも言った通り、君は余計なことさえしなければいいんだ」


「そ、そうですか……あの所長、確認させていただきたいのですが、この子を養育する代わりに……」

 葉島はねだるような笑みを浮かべて金沢を見た。


 金沢は鼻を鳴らし、

「ああ、約束は守る。明日から技術開発部門のチーフは君だ」


「あ、ありがとうございます……! ちゃんと育てますよ、ええ……!」 


「くれぐれも余計な手は加えんでくれよ。順当に育てば、この子は必ずや我々の描いた設計図通り、国家を守る最強の武士に育ってくれるだろう……」


 金沢は泣き続ける眞咲の頬を指で摘まんだ。眞咲はますます大声で泣き叫んだ。


「何しろ最強の人斬り、桜間兵庫助ひょうごのすけの遺伝子と――」


 怯える眞咲の目に、禿げ上がった老人の笑顔が映った。


「――真の愛国者、金沢法春ほうしゅんの遺伝子を継いでいるのだからな」



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