その部屋は、かつて見たどの景色とも違っていた。
照明は消され、物の輪郭がやっと見える程度。壁面クローゼットの扉が開かれ、そこにはいくつもの段ボール箱。一番上に積まれた箱の上部から、おもちゃやぬいぐるみが覗いている。
正面のベッドに腰かけている、小柄なスーツ姿。膝の上に置いているのは
タイルカーペットのない床を歩いて近づく
眞咲は部屋の中央で止まり、溢れそうな感情を抑えて言った。
「まだ収まらないんですね……季節外れの花粉症」
「……花粉が近づいてくるからだ」
眞咲と
先に口火を切ったのは由布里だった。
「……お前に、話さなければいけないことがある」
眞咲は闇に溶けてしまいそうな由布里の俯き顔をしっかり見つめ、
「……知ってます。多分、全部」
「……
「いえ……僕が自分で、思い出しました」
「…………そうか、そういうことも……あるのか……」
由布里はそう言って黙った。
しばらく時が流れた後、由布里は、
「……私がこれを振るうことは許されなかった」
膝の上の
「
眞咲は『
「
「…………ああ」
由布里は長い沈黙を経て頷いた。
「ああ、そうだ…………精子、提供者は…………」
「いい……です、言わなくて……」
眞咲は喉の奥から絞り出すように言った。それを由布里の口から言わせたくはなかった。それが真実、非配偶者間の人工受精だったのかどうかも。
由布里は涙を帯びた声色で、
「全て知った上でのことだった……。人斬りを産むのだということも、それが人の道を外れた行いであるということも、全て分かっていた……。それでも……それ、でも、私は…………」
「……一人のままで、いたくなかった」
眞咲は後を引き継いで言った。それは遺伝子によって知らされたことだった。一瞬だけ母の中に入った時、眞咲は母の想いを感じた。深い、深い愛情と共に。
由布里は大きく鼻をすすり上げた。
「……どうしようもなく、愚かだった……。私は、ただ子供が欲しくて……それだけで、お前を産んだんだ…………!」
由布里は顔を上げた。暗闇に慣れた眞咲の目に、その顔が映った。
――何も、変わっていなかった。辛そうに、苦しそうに泣いている、あの時の少女のままだ。
「優しい子に、育ってくれれば、もしかしたらと……人を傷つけることなど、考えもしない、とても優しい子に育ってくれれば……あいつらも、諦めるんじゃないかと思った…………。浅はかで、考え足らずな、小娘だった……そんなことで、あの男が諦めるはずはないのに……」
眞咲は耐えきれず、嗚咽を漏らしながら声を発した。
「か――かあ、さ」
「言うな‼」
突然の叫びに、眞咲は肩を震わせた。
「私に――そう呼ばれる資格などない……! 無責任に産んで、この手で育てもせず……! 人斬りの道に踏み込ませた……‼ お前が、あんなに苦しむと分かっていながら……‼ 私はお前に、人殺しを強要したんだ…………‼」
「それは……‼」
そうしないと、ここの人達が僕を生かしてくれないから……‼
そう言いたかった。しかし抑えきれない嗚咽によって言葉が出せなかった。
眞咲はただ、嗚咽を堪え続けた。母の前で、下を向いて、歯を食いしばって。
しばらくして、由布里は優しく言った。
「……お前は強くなった。私にも、誰にも予測できなかったほど、強く……。あの禍々しく強大な遺伝子に飲み込まれずに、それを自分のものにした……。誰の力も借りず、自分一人の力で……」
「ち……違う……! それ、は……‼」
母さんの、言葉があったから。
母さんが、背中を押してくれたから。
「お前を縛るものは、もう何もない……。遺伝子も……ここの連中も……国家さえも……」
由布里はそう言って下を向き、沈黙した。
長い時間、由布里は黙って何かを待っていた。
眞咲にはそれが何のためなのか分かってしまう。眞咲が覚悟を決めるのを――由布里は待ってくれているのだ、と。
「何をすればいいか……分かっているだろう……」
由布里は注意を横に向けた。眞咲はそれに従ってサイドテーブルを見る。
テーブルの上にはケースに並んだ四本の試験管。中には白い液体。ラベルには『予備①、予備②、……』と番号が振られ、それぞれの番号の下に知らない人間の名前が書かれている。
そしてその隣には、用途を知りたくもない何かの器具。
「お前の手で終わらせ……そして、始めるんだ」
眞咲は黙って首を振った。しかし由布里は重ねて言う。
「私の遺伝子は、ここに縛られている……もう、切り離すことはできない…………」
嫌だ……! 嫌だ‼
眞咲は絶叫したかった。しかし由布里の前でそれはできなかった。
どうしようもなく伝わってきてしまうのだ。由布里が、母が、心からそれを望んでいるのを。
由布里は立ち上がった。朱い鞘の太刀を左手に持ち、足を開いて仁王立ちに。
「……私の、最後の仕事だ……」
太刀を目の前に掲げ、鯉口を切って曇り一つない刀身を露わにする。
朱鞘を捨て、太刀は構えずただ右手に下げる。どこまでも、眞咲を待ってくれている。
眞咲の右手がそろそろと『葉桜』の柄に伸びる。これは僕の意志じゃない……! ゲノムのせいだ……!
燻った赤と黒の刃が姿を現す。身体の右側を開き、刀を引き、震える切っ先を斜め上へ。
由布里は顔を伏せ、右手に刀を下げたまま動かない。
二人の時は止まり、ただ無為だけが横たわる。
永劫に思える時間の中、眞咲はついにそれを悟った。
――母さんは、人斬りゲノムの手にかかることなんて望んでない……!
眞咲は目を見開き、暗闇に浮かぶ由布里の姿を見据えた。
――僕の手で……僕の意志で……! それを、母さんは望んでるんだ……‼
『葉桜』の色が変わった。燻る赤黒からもとの紫色へ、そこからさらに変わってゆく。
――僕が自ら命を断とうとした時の、あの地獄の苦しみ。きっと母さんは今までずっと、それを味わってきた……! 終わらせられるのは……僕だけなんだ……!
薄く、淡く、優しい色へ。夢幻のような桜色の刃が、そこに現れた。
由布里が動いた。顔は伏せたまま、何かに抗うように全身を震わせながら、両腕をゆっくり左右に広げてゆく。
「後悔は……何一つない」
涙を雨のように滴らせ、由布里は声を振り絞る。
「お前が……産まれて、きてくれて……! 生きて、いてくれるから……‼」
由布里は太刀を右手に持ったまま、震える両腕を横に広げてゆき――
――太刀を、床に落とした。
そして、顔を上げた。
母は、笑っていた。
辛そうでも、苦しそうでもない、初めて見る、心からの、世界一綺麗な笑顔で。
「――おいで、眞咲……!」
――――っ…………‼
桜が走る。風のように。
眞咲は、母に抱きしめられた。
母の震える手が、眞咲の背中に回る。
「……おかえり……眞咲……まさき…………」
桜の刃は眞咲の両手に、母の鼓動を直接伝えてくる。
眞咲はただ母の肩に、自分の涙を沁み込ませた。
『葉桜』を通して伝わる母の命。肌を通して伝わる母の愛。眞咲はただ、涙を返すことしかできなかった。
終わりの時が告げられる。
そして――始まりの時が。
「いき、なさい…………ま……さき…………」