第23話☆逆巻く影
霧の階段を三十段ほど降りたころ、リクとサラの周囲で風向きが急に変わった。
衣の裾が逆さに揺れ、髪が真上へ流れる。
足音は次の瞬間、後ろ向きに跳ね返り、時間が巻き戻されているのだと二人は悟った。
だが歩みを止めれば進むことも戻ることも出来なくなる――時計職人の忠告が耳の奥で反響する。
「言葉で道を縫うのよ」サラが囁く。
リクはタイプライターの想像上のキーを空中で叩き、声に出さずに物語の一節を綴った。
すると足元の段が淡い光で縁取られ、逆流する風を切り裂く一本の糸となった。
二人はその光の糸を踏んで先へ進む。
やがて霧の中に古い書庫が浮かび上がる。
扉も壁もなく、数え切れない本が階段を囲うように円筒状に漂っていた。
背表紙にはかつてリクが捨てた草稿の題名が並び、文字が剥がれ落ちたページからは黒い影が漏れている。
影は蠢き、二人の足首へ絡みついた。
リクは胸の時計を掲げた。
水晶の文字盤に星のかけらが溶け込んだ光が走り、針が逆回転を止めて前へ進み出す。
影は眩しさにたじろぎ、階段の隙間へ吸い込まれて消えた。
だがその拍子に、周囲の本が一冊ずつ崩れ落ち、闇の底へ滑り落ちる。
頭上でどこかの鐘楼が鳴った。
時刻を示すはずの鐘は十二回、十三回、十四回と際限なく重なり、数を失った時間の残響が霧を震わせる。
リクは自ら紡ぐ物語だけが正しい時を刻めるのだと悟り、さらに背筋を伸ばした。
「早く中心まで!」サラが叫ぶ。
二人は本の雨をかいくぐりながら円筒の中央へ跳び移る。
そこには透き通った階段が螺旋を描き、上方へ伸びている。
透明な段の内部には無数の活字が浮かび、ゆっくりと上昇していた。
リクが第一段を踏むと、活字が足裏に吸い込まれ、彼の思考と重なった。
過去に書いた後悔の行、未来に書くはずだった希望の行──すべてが混ざり合い、新しい文章の流れが生まれる。
言葉が階段を押し上げ、逆巻いていた時間はふっと静止した。
やがて霧の上から柔らかな光が差し込む。
時計の針は正しい向きを刻み、胸元で心拍と重なり合う。
サラが安堵の息を漏らした。
「これで三歩目。
あと四歩ね」
リクは頷き、透明な段を見下ろす。
そこには今しがた形成されたばかりの一文が煌めいていた。
〈影は言葉を恐れ、言葉は影を照らす〉
その文は新しい章のタイトルになるだろう。
二人は手を取り合い、螺旋の上へ向けて歩みを再開した。