依頼人はそう名乗った。
40歳手前の女性だと助手は知っていたが、彼の目には全くそう映っていない。
シワの目立たない指関節を見ても、美意識の高さがうかがえる。
メリハリがあり、とても女性的な体つきをしている。あえて下品に言ってしまえば、おっぱいがすごくでかいのである。
さらには母性にあふれた眼差しをしている。
しかし、今は目の下に濃いクマができており、どこか不安定な印象を受ける。
「あの、大丈夫なんですか……?」
「なんのことですか?」
一ノ瀬依頼人の顔が困惑に染まっているのに対して、助手の顔は常に微笑んでいる。
いや、微笑みで固定されている、というべきだろうか。
その原因は明白だ。
事務所は荒れに荒れていた。物理的にも、メンタル的にも。
オフィスデスクはひっくり返り、お菓子のゴミなどが散乱しており、まるで大地震がおきたような有り様だ。
その
(今は我慢だ……!)
助手は依頼人がいる手前、怒ることもできず、奥歯を噛みしめながらお茶を運んでいる。
「粗茶ですが」
「あ、ありがとうございます」
お茶を置いた瞬間、彼の動きが固まった。
足元に、スポーツブラジャーが落ちていたのだ。
助手はまるで素早い動きでポケットの中にしまった。
本人は汚点を隠したつもりなのだろうけど、完全に不審者の行動である。
素知らぬ顔でソファーに座る助手。
(さて、どう切り出したものか)
一ノ瀬依頼人の震える手を
しかし決めあぐねているうちに、一ノ瀬依頼人が口を開ける。
「あの、そちらの少女は――」
視線を向けられた探偵はネームプレートを指さした。
だが、あまりにも字が汚すぎて、一ノ瀬依頼人は読めていないようだ。
「名探偵の根黒マンサ先生です」
「くるしゅう、ない」
助手に紹介されて、自信満々に胸を張る探偵。
しかし残念なことに、威厳どころか胸囲もない。
むしろ威嚇するアライグマのようなかわいさにあふれてしまっている。
「その……本当に探偵なんですか?」
「ご安心ください。これでも何人もの行方不明者を見つけてきた、捜索のプロフェッショナルです。警察が諦めた事件でも、彼女の手にかかればお茶の子さいさいです」
「ひかえおろー。であえであえー」
「……あの、探偵さん。さっきからなんで時代劇風なんですか? あと、ガイコツも置いてください」
探偵は頬を膨らませた後、ガイコツを持ち上げた。そして、あろうことか助手の頭にかぶせてしまった。
かなり斬新なフルフェイスヘルメットにみえなくもない。
「じょしゅ、くん、えらそうに、みせろ、って」
「もっと色々あるじゃないですかっ!」
しかし、探偵がすぐさま妨害した。
2人の視線がぶつかりあう。
3秒ぐらい続いただろうか。
結局、折れたのは助手だった。目の位置を調整して、一ノ瀬依頼人に向き直った。
「それで、依頼内容をお聞きしてもよろしいでしょうか」
まるでビジネスマンのようなさわやかな笑みを浮かべる助手。
しかし、ガイコツを被ったままで一ノ瀬依頼人には化け物にしか見えていないだろう。
「ふ、ふふふ」
一ノ瀬依頼人は口元を隠しながら、笑い声を漏らした。
余程はずかしいのか、助手は顔を赤らめてうつむいてしまった。
「心配でしたら、前金はいただきませんから」
「あ、いえ、すみません。そういうことではなく――」
笑い過ぎて、涙を拭う一ノ瀬依頼人。
「探偵って、もっと偏屈で堅苦しい人たちかと思っていました」
「まあ、なんといいますか、ご所望でしたら、そのような演技をしますが……」
「それ、今訊ねたら意味ありませんよね?」
「……あっ!」
助手のリアクションを見て、彼女はさらに楽しそうに笑った。
探偵はなぜか満足そうにうなずいている。
助手はとっさに「わざとですよ」と言おうとしたが、見抜かれている気がしてすぐに諦めた。
「あの、申し訳ございません」
「いえ、ありがとうございます。久しぶりに笑った気がします」
「……久しぶり、ですか」
「娘がいなくなって、本当に久しぶり」
娘がいなくなって。
そのフレーズひとつで、探偵と助手の目つきが変わった。
「……娘さん。それが依頼内容ですよね」
依頼。
行方不明者捜索の依頼。
それが『根黒探偵事務所』のメイン業務だ。
「詳しい話をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「…………」
一ノ瀬依頼人はを我慢するみたいに、口をつぐんだ。
そんな様子を見た探偵は静かに立ち上がり、彼女の隣に座って、やさしく手を重ねた。
「むり、しなくて、いい」
探偵の声は静かで、どこまでも沁みていく。
「……い、ち」
一瞬、何かを言いかけて、一ノ瀬依頼人は曖昧な笑みを浮かべた。
「……ありがとう。大丈夫」
一ノ瀬依頼人は探偵の頭を撫でた後、深呼吸をして、助手の目を見た。
「2年前。娘――いちごは心の底からうれしそうに、リュックを背負っていきました」
穏やかな声で語りだした。
「遠足だったんです。毎年恒例の、軽い山登り」
「山登り……」
助手は乾いた唇をなめながら、耳を傾け続ける。
「前日の夜。自分で準備をするって張り切っていました。最後はわたしが仕上げましたが、」
「しっかりしたお子さんだったんですね」
「支援学級の子にも手を差し伸べたり、いじめを止めようとしたり、学級委員になったり……大変でしたけど、自慢の娘でした」
「素晴らしいです」
「ちょっと背伸びするところもあったけど、そこがまたかわいくて……」
わずかににやけていた表情が、徐々に沈んでいく。
「先生から連絡が来た時は唖然としました。現場についても信じられませんでした。ふざけていた友達をかばって、足を滑らせたと……」
「…………そう、なんですか」
「ニュースで報道されて、大々的に捜索もされてましたが、残念ながら……。その友達は不登校になってしまって、今も引きこもっているそうです」
(救いがない)
助手は息苦しそうに息を吐きながらも、メモをとっている。
「一日。一日。いちごのいない時間が増えていくにつれて、理解できてきました。ああ、私の前からいなくなっちゃった」
一ノ瀬依頼人の声音が、徐々に揺らいでいく。
「ですが、まだたまに夢に見るんです。いちごが山の中をさまよって、ママ、ママって泣いている姿を」
口を閉ざしていた助手は、ようやく息を吸った。
しかし、うまく息を吐きだせない。
「なんでなんでしょう。まだ、生きているように思えるんです」
一ノ瀬依頼人の手が、みえないなにかを撫ではじめた。
小学5年生の女の子ぐらいの身長だろうか。
「生きていて、もし、わたしのことを忘れていたとしても、いいんです。生きてくれているだけでいいんです」
その言葉は強がりだろうか。
助手は彼女の顔を見ていられなくなって、重なり合っている探偵と依頼人の手に視線を移した。
「もし、死んでいるなら、骨を抱きしめたい。……それだけ。なので、お願いします。娘を――いちごをみつけてください。どんな形になっていても」
(すごく強くて、優しすぎる人だ)
こんな人が頼ってくれているだから、応えないわけにはいかない。
助手は改めて心に誓った。
「すみません、電話でお伝えしたものは持ってきていただけましたか?」
「……はい」
一ノ瀬依頼人が取り出したのは、小さくて黄色い靴だった。
「警察の方の捜索で、唯一みつかったものです」
「ありがとうございます。お預かりします」
助手が言うと、探偵が代わりに受け取った。
そして、匂いを嗅ぐように鼻を近づけると、何かを確信した顔に変わった。
「まか、せて」
一ノ瀬依頼人の震える手を、細くとも頼もしい少女の手が握りしめた。
「ぜったいに、みつける」
探偵のルビーの瞳。
どこまでも吸い込んでいきそうな、深い熱がにじみ出ていた。
「わたしも、おとうと、さがして、る。だから、わかる」
たどたどしくても、まっすぐな言葉。
一ノ瀬依頼人の目は、ずっとルビーの瞳を凝視している。
「だいじょうぶ、ぜったい、みつけ、る」
「ありがとう……ありがとう……ございます」
一ノ瀬依頼人は感極まったのか、目を伏せながら、探偵の手を強く握り返した。
その姿を直視できないでいる青年が、この場にひとり。
(残酷だ)
助手は、探偵の力強い横顔からも目を背けながら、ようやくガイコツを脱いだのだった。