探偵事務所のドアを開くと、イノシシがいた。
立派なキバを持ち、丸々と太った巨体。体中に古傷がある。
もしかすると、山の主だったのかもしれない。そう思わせるほどの威厳にあふれている。
そんな存在が、探偵事務所のテーブルの上で寝ている。
どこからどう見ても、異常事態である。
「とりあえず、買ってきた食料を冷蔵庫に入れるか」
今は金銭的な余裕もあるが、すべてセール品である。
もやし以外にも、キャベツ、ウインナーソーセージ、ハム、豆腐などなど。次々に入れていく。
一見、無作為に買っているように見えるが、実はある共通点がある。
(セール品以外を買うのはバカがすることだ)
この貧乏性は、貧乏な探偵業を始めたのが原因ではない。
根黒探偵事務所を始める前から、助手はずっとそんな生活を送っていた。
安くなるとわかっているものを、わざわざ高い値段で買うことを許せない。損した気分になって、死にたくなってしまう。
完璧主義を変なところで発揮させてしまっているのだ。
(ちなみに、カップラーメンはドラッグストアが安い)
探偵用のカップラーメンをそこで購入している。
コンビニのお高いカップラーメンなんて言語道断である。
(まあ、安いカップラーメンで満足してくれるから、コスパがいい女だよなぁ)
しかし、それだけではどうしても栄養バランスが悪い。
探偵は野菜ジュースを飲まないし、野菜はあまり好きではない。
それが助手の目下の悩みだった。
小さな冷蔵庫にパンパンに詰め終わると、立ち上がる。
そして、何度も深呼吸をして、精神を整え始めた。
「いくぞ……!」
覚悟を決めて、振り向く。
そして、そこにいるのはイノシシ。
上から見ても、下から見ても、正面から見てもイノシシ。
臭いもイノシシ。
なにもかもイノシシ。
五感で感じるすべてが、そこにイノシシがいるのだと示していた。
「よし! 消えてないな! 消えてないなっ!!!」
助手は大きくため息をついた後、目の前の現実を受け入れることにした。
(ここは探偵の助手らしく、冷静に推理してみよう)
覚悟を決めて、イノシシに近づいていく。
最初はもちろん、生死の確認。
「死んでる……な。内臓もきれいに取り除かれている」
つぎは細かいところを見ていく。
脚。頭。胴。しっぽ。ヒントを逃さないように、目を皿にして観察していく。
「足は汚れていない。つまり、自分の足でここまで来た可能性はない」
しかも、周囲には血の痕跡はない。
誰かがイノシシを殺害し、ここまで持ってきたと考えて間違いはない。
助手はそう結論付けた。
(こう見ると意外とかわいいな、イノシシって)
しかし、全く動かないし、触ると非常に冷たい。
助手は物悲しい顔を浮かべながら、イノシシに抱き着いた。
「よく、がんばった」
(探偵さんならこう言いそうだよな)
一瞬、おどやかなに笑ったように見えたイノシシに手を合わせて、助手は周囲を見渡した。
「さて、部屋がかなり散らかっているな。これもヒントになりそうだ」
まるで自動車が突撃したかのような荒れ様で、助手の眉間のシワが濃くなっていく。
「窓は開いている」
出かける前は閉まっていたのに、なぜ開いているのか。
助手にとっては、簡単に想像がついた。
「イノシシのサイズだと、ドアを通るのは不可能だ。つまり、窓からこのイノシシを入れたのだろう」
そうなると、どうやって窓からイノシシを部屋に入れたのか。
誰がどんな目的で入れたのかというところだ。
助手は脳をフル回転させて、推理していく。
ちょうどその頃、控えめにドアが開いた。
「あ、じょしゅ、くん……」
「探偵さん! いいとことに来ましたね! 今ちょうど推理が終わったところなんですよ!」
すごく楽しそうな助手を前に、困惑している探偵。
「なんの、すいり?」
「このイノシシがなぜここにあるのか、という」
「え?」
目を丸くする探偵なんてつゆ知らず、助手は推理を披露してようとして――。
「えっと、ごめん、ね?」
「なんで謝るんですか?」
「この、イノシシ、わたし、が……」
助手の頭が真っ白になった。
「えっ」
(複数人でロープで釣り上げたのかと思っていたのに! 犯人は同業者! 逆恨み!)
探偵の言葉が信じられず――いや、信じたくなくて、イノシシ事件について問いかけていく。
「どうやって、この部屋に入れたんですか!?」
「えっと、まど、あけて、ね?」
「外からどうやって入れたんですか!?」
「なげ、いれた」
「投げ入れた!?!?」
大声を出しすぎたあまり唾が飛んで、探偵はわずかにイヤそうに顔をしかめた。
「いや、これ100キロは余裕でありますよ!?」
助手はイノシシをペチペチと叩きながら叫んだ。
探偵は無言でイノシシに近づいて――
「んしょ」
簡単に持ち上げてしまった。
助手も試しに持ち上げようとしたけど、もちろん、うんともすんとも言わない。
「えー…………」
(この人がいると、推理なんてバカらしくなってくるなぁ。行方不明者を見つける以外のことをしたら、なんでも瞬時に解決できるぞ)
あまりにもあんまりすぎる真実を知ってしまって、がっくしと肩を落とした。
「それで、なんでイノシシなんか?」
「えっと、おこって、ない?」
「心の底から呆れてはいますけど、怒りは湧いていませんよ」
「ばー、べ、きゅー……」
「あー」
一ノ瀬いちごの行方不明事件を請け負う直前、バーベキューをする約束をしたし、その後も断った。
助手はそのことを思い出した。
「約束しましたもんね」
「うん」
「それで、痺れを切らしたんですか?」
「じょしゅ、せーる、むちゅう、だから」
「お金がないと思ったと。それなら、お肉を自分で」
「……うん」
助手は、叱られた後の犬みたいにしゅんとしている探偵の頭を撫でた。
「はー。法律的に危ないですよ、これ」
「いのしし、にく、おいしい」
「だから賄賂は禁止ですって」
「……めん、どう」
(賄賂が当たり前の世界で生きてきたのか?)
助手は探偵の過去について一瞬気になったが、今はもっと優先することがあると切り替えた。
「しょうがない。今からやりますか、バーベキュー」
「いい、の!?」
「どうせこの量の肉は食べきれないんで。どこかで加工しないと……」
そうと決まれば善は急げ。
「今すぐ使えそうな場所を見つけて、イノシシを運べる車も用意しないと。運転なんて久々ですよ」
そこまで言ったところで、助手の頭の中にはある疑問が浮かんだ。
「って、探偵さんはどうやってここまで運んだんですか?」
「はしって、きた! じょしゅも、いっしょに、はこぶ?」
「……やめてください。絶対にやめてください」
助手が驚きを通りこして困惑していると、またドアが開いた。
その先にいたのは――
「あら? バーベキューする余裕があるのかしら?」
「げっ!」
「わたしも一緒に連れて行ってくれない?」
豊満な胸を持ち、母性溢れる雰囲気がある大人の女性。
それでいて、助手たちと面識がある人物。
一ノ瀬依頼人――いや、一ノ瀬管理人はが不敵な笑みを浮かべていた。