茶色に変色した原稿用紙を見て、その場の全員が固まっていた。
それもそのはず。
この原稿はつい先日亡くなった西空無礼の遺作なのだ。
ここまで古びているはずがない。
「どういうことだ? なんでこんなに古い? おい、どういうことだ」
「……わかるわけがありません」
「まあ、そうだよな」
パチパチパチ、と。
拍手が聞こえて振り向くと、二階堂依頼人が優雅に歩み寄ってきていた。
「おめでとうございます。いえ、ゴングラチュレーションと祝福すべきでしょうか」
「……すべて、知っていたのですよね?」
助手の質問に、二階堂依頼人はしたり顔を浮かべた。
「もちろんでございますよ。そして、これから起きることも」
「……この原稿はなぜこんなに古いんだ。答えろ」
「よく見てください。ページをめくるほどに、新しい原稿用紙になっておりますでしょう?」
「つまり、長年を掛けて、少しずつ書いていたと言いたいのか?」
「そして、最近完成した。まあ、ひとつの可能性の話でございます。もしかしたら、あなたが生まれた頃から書いているのかもしれませんね」
「……」
(この謎は、はじめさんに向けて作られていた。彼だけが解けるように)
そのことを考えると、あり得ない話ではない。
それが事実にせよ、そう思わされているにせよ、圧倒的な説得力があった。
「まずは、その原稿に目を通していただけないでしょうか。話はそれからに致しましょう」
「気に食わねえな」
「ですが、あなた様は読まずにはいられない。そうですよね?」
「けっ!」
西空無礼の息子は舌打ちをした後、ため込んだ鬱憤を吐き出すように、長いため息をついた。
「……はじめさん」
「下の名前で呼ぶな。鳥肌が立っちまったじゃねえか」
「あ、いえ、すみません」
ふと、気付く。
西空無礼の息子は、どこか憑き物が落ちたような顔をしていた。
「まあ、別にいい。さっさと読んで、それでスッキリしちまおう」
「そうですね」
「最初出会った時は悪かったな。あの時は、俺自身、なにをやりたいかわからなかったんだ」
「……なんですか。いきなり。少し気色悪いですよ」
「なんでだろうな。こいつを読んだら、俺が俺でなくなる気がするんだ」
(……何が起きているんだ?)
実際、この旅館の一室での謎解きをするにつれて、徐々に息子の表情は変わっていた。
最初は卑屈で常に顔をゆがめていた。
今は、どこか若々しくて、ロマンを追い求める青年のように目を輝かせている。
そんな助手の心配に気付いていないのか、西空無礼の息子は原稿を持ち上げた。
「じゃあ、いくぞ」
「……はい」
タイトルの書かれていない表紙をめくる。
最初に、こう書かれていた。
――その作品を目にした時、異なる俺がペン先で脳の皺を書き換えていくような、絶望に似た感情を抱いた。
そこに書かれていたのは、ある男の人生だった。
新進気鋭のミステリー作家のもとに生まれた、卑屈な男の物語。
ミステリーというよりは純文学に近い。
男は最初、父親のことを尊敬していた。しかし、徐々に自分が愛されていないと悟り、徐々に溝が深まっていく。
葛藤。
嫉妬。
父親とは比べ物にならないほど、みじめな人生を送り、死ぬ勇気もなく、だらだらと生き続けていく。
そして、親の死を知らされて、父親の書いた最後の作品を探し求めていく。
ストーリーの骨組みはそれだけ。
しかし、肉付けが圧巻だった。
圧倒的なリアリティ。
石ひとつの描写をとっても、キャラの感情を動かす小道具となっており、男の感情を表し、揺れ動かしていく。
心の内を全てさらけ出しているのに、全く説明臭くなく、まるで感情をそのまま文字に落とし込んだかのようだった。
超絶技巧の筆致。
読むのにかかった時間は、数時間だろうか。
それとも、数十分だろうか。
時間が歪んでいた。
そして、読み終わる頃には、人生を走り抜けたような充実感に溢れていた。
「すさまじい」
「…………そうか」
余韻に浸っている助手。
呼吸も忘れて、目を閉じて、ラストシーンの主人公の表情を思い浮かべていた。
その横で、西空無礼の息子は呟いた。
「ああ。そうか。ようやく理解できたぞ」
一瞬、助手の目には、彼の顔がラストシーンと重なって見えた。
読む前までと、声の張りがまるで違う。
表情も異なる。
猫背が伸び、胸を張り、希望と無限の力強さがあふれ出ている。
「ずっとずっとずっと、疑問だったんだ」
段々と、声のトーンが上がっていく。
「なんで俺は生まれてきた。なんで俺は生きている。なんで俺は俺なんだ」
晴れやかなのに、どこか狂気を孕んでいる。壊れたレールの上を走る、ピカピカの新幹線のような。
「ああ、とうとう。とうとうたどり着いた。ここだ。ここだったんだ」
万感の想いをこめて。
「俺は、親父の