目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第29話 ロマンに塗りつぶされる 前編

 茶色に変色した原稿用紙を見て、その場の全員が固まっていた。


 それもそのはず。

 この原稿はつい先日亡くなった西空無礼の遺作なのだ。

 ここまで古びているはずがない。



「どういうことだ? なんでこんなに古い? おい、どういうことだ」

「……わかるわけがありません」

「まあ、そうだよな」



 パチパチパチ、と。


 拍手が聞こえて振り向くと、二階堂依頼人が優雅に歩み寄ってきていた。



「おめでとうございます。いえ、ゴングラチュレーションと祝福すべきでしょうか」

「……すべて、知っていたのですよね?」



 助手の質問に、二階堂依頼人はしたり顔を浮かべた。



「もちろんでございますよ。そして、これから起きることも」

「……この原稿はなぜこんなに古いんだ。答えろ」

「よく見てください。ページをめくるほどに、新しい原稿用紙になっておりますでしょう?」

「つまり、長年を掛けて、少しずつ書いていたと言いたいのか?」

「そして、最近完成した。まあ、ひとつの可能性の話でございます。もしかしたら、あなたが生まれた頃から書いているのかもしれませんね」

「……」



(この謎は、はじめさんに向けて作られていた。彼だけが解けるように)



 そのことを考えると、あり得ない話ではない。

 それが事実にせよ、そう思わされているにせよ、圧倒的な説得力があった。



「まずは、その原稿に目を通していただけないでしょうか。話はそれからに致しましょう」

「気に食わねえな」

「ですが、あなた様は読まずにはいられない。そうですよね?」

「けっ!」



 西空無礼の息子は舌打ちをした後、ため込んだ鬱憤を吐き出すように、長いため息をついた。



「……はじめさん」

「下の名前で呼ぶな。鳥肌が立っちまったじゃねえか」

「あ、いえ、すみません」



 ふと、気付く。

 西空無礼の息子は、どこか憑き物が落ちたような顔をしていた。



「まあ、別にいい。さっさと読んで、それでスッキリしちまおう」

「そうですね」

「最初出会った時は悪かったな。あの時は、俺自身、なにをやりたいかわからなかったんだ」

「……なんですか。いきなり。少し気色悪いですよ」

「なんでだろうな。こいつを読んだら、俺が俺でなくなる気がするんだ」



(……何が起きているんだ?)



 実際、この旅館の一室での謎解きをするにつれて、徐々に息子の表情は変わっていた。

 最初は卑屈で常に顔をゆがめていた。

 今は、どこか若々しくて、ロマンを追い求める青年のように目を輝かせている。


 そんな助手の心配に気付いていないのか、西空無礼の息子は原稿を持ち上げた。



「じゃあ、いくぞ」

「……はい」



 タイトルの書かれていない表紙をめくる。



 最初に、こう書かれていた。




――その作品を目にした時、異なる俺がペン先で脳の皺を書き換えていくような、絶望に似た感情を抱いた。



 そこに書かれていたのは、ある男の人生だった。

 新進気鋭のミステリー作家のもとに生まれた、卑屈な男の物語。

 ミステリーというよりは純文学に近い。

 男は最初、父親のことを尊敬していた。しかし、徐々に自分が愛されていないと悟り、徐々に溝が深まっていく。

 葛藤。

 嫉妬。


 父親とは比べ物にならないほど、みじめな人生を送り、死ぬ勇気もなく、だらだらと生き続けていく。


 そして、親の死を知らされて、父親の書いた最後の作品を探し求めていく。

 ストーリーの骨組みはそれだけ。


 しかし、肉付けが圧巻だった。


 圧倒的なリアリティ。

 石ひとつの描写をとっても、キャラの感情を動かす小道具となっており、男の感情を表し、揺れ動かしていく。

 心の内を全てさらけ出しているのに、全く説明臭くなく、まるで感情をそのまま文字に落とし込んだかのようだった。


 超絶技巧の筆致。


 読むのにかかった時間は、数時間だろうか。

 それとも、数十分だろうか。

 時間が歪んでいた。


 そして、読み終わる頃には、人生を走り抜けたような充実感に溢れていた。




「すさまじい」

「…………そうか」



 余韻に浸っている助手。

 呼吸も忘れて、目を閉じて、ラストシーンの主人公の表情を思い浮かべていた。


 その横で、西空無礼の息子は呟いた。



「ああ。そうか。ようやく理解できたぞ」



 一瞬、助手の目には、彼の顔がラストシーンと重なって見えた。


 読む前までと、声の張りがまるで違う。

 表情も異なる。

 猫背が伸び、胸を張り、希望と無限の力強さがあふれ出ている。



「ずっとずっとずっと、疑問だったんだ」



 段々と、声のトーンが上がっていく。



「なんで俺は生まれてきた。なんで俺は生きている。なんで俺は俺なんだ」



 晴れやかなのに、どこか狂気を孕んでいる。壊れたレールの上を走る、ピカピカの新幹線のような。



「ああ、とうとう。とうとうたどり着いた。ここだ。ここだったんだ」



 万感の想いをこめて。



「俺は、親父の息子さくひんだったんだ」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?