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第32話 いくじなしの自称・名助手 ①

 手狭で、古くて、どこか湿っている。

 そんな探偵事務所は荒れていた。


 普段はキレイに整頓しているはずなのに、今は大量のゴミで埋め尽くされている。

 カレンダーにも新しい書き込みもない。



(…………なんなんだよ)



 ふと、助手は自分の右手を見た。


 弟を追いかけようとする根黒マンサを引き留めようとして伸ばした右手。

 今はギプスで固定されているけど、その状態は悲惨だった。

 骨は砕け、原型をとどめているのが奇跡だと医者に言われた。そして後遺症が残る可能性もある、とも。


 その治療費と帰りの運賃で、二階堂依頼人から渡されていた依頼料の半分近くを使い切ってしまっている。


 ちなみに、二階堂依頼人は死亡が確認され、西空無礼の息子——はじめは閉鎖病棟に入ることになった。

 警察の取り調べでは、助手は自分が何を言ったかは覚えていない。


 おそらくは正直に答えていただろうが、そっと精神病院を勧められていたことだけは記憶に残っている。

 結局、一ノ瀬管理人に助けられて、無事に探偵事務所に帰ってきたのだ。



「……はぁ。いっそのこと入院だったら保険使えたのに」



 助手は探偵業をする気にもならず、内職をしていた。

 右手が使えないために遅々として進んでいないが、それでも何もしないよりはマシだと割り切っている。


 1時間もしないうちに集中力の限界が来て、部屋をぐるりと見渡す。



(ひとりでいると、妙に狭いよなぁ、この部屋)



「ただ…………いま…………」



 ふと、開いていた窓から少女の声が聞こえて、助手は飛び起きた。


 まるで雷が近くに落ちたかのようなスピードで身を乗り出すと、そこには中学生のカップルがいた。

 仲睦まじそうに手を繋いでいて、歩道のど真ん中でもお構いなしにキスでもしそうな雰囲気だ。


 おそらく、2人の会話の一部が風に運ばれてきていたのだろう。

 窓から見ている助手に気付いたのか、さっさと走り去ってしまった。


 おそらく、この後「怖かったよ」「大丈夫オレが守るから」とかイチャイチャのネタにされることだろう。



「……はあ」



 ため息をついて、倒れるように椅子に座ろうとする助手。


 しかし次の瞬間、ドシンと音が響き「うわっ!?」という彼の情けない悲鳴が響いた。

 不運なことにパイプ椅子が壊れてしまったのだ。


 その拍子でギプスのついた右腕がオフィスデスクに当たり、大量のカップラーメンが降り注いできた。

 根黒マンサがいない間も、毎日彼女の好物であるカップラーメンを買っていたのだ。



(ああ……何もかもうまくいかない)



 お腹の上にある軽いカップラーメンすら、どかす気力も湧かなくて、助手はただ天井を眺め続けることにした。



 ジジジ、と。

 蛍光灯が鳴っている。


 突然、チカチカと点滅し出し、プツリと明かりが切れてしまった。

 寿命だったのかもしれない。


 薄暗くなった探偵事務所。

 助手の浅い息だけが響いている。



(これから買いに行かないといけないのか? めんどくせえ)



 もういっそのこと、このままでもいいか。

 そう考えた後、ギブスのついた右腕でガンガンと床を数回叩き、腕で目を覆った。

 そのまま呼吸だけしていると――



「随分と景気が悪そうね。来月の家賃は払えるのかしら?」

「……一ノ瀬さん、笑いに来たんですか?」



 いつの間にか、一ノ瀬管理人がすぐそばに立っていた。

 助手は見下ろされているが、彼女の大きな胸のせいで表情はよく見えない。



「私は管理人兼大家としての役目を果たしに来てるだけよ? テナントの状態を監視するのは当然のことでしょう?」

「それもそうですね。見ての通り、全く問題ありませんよ」

「それ、本気で言ってる?」



 一ノ瀬管理人は露骨に顔をしかめながら、探偵事務所をぐるっと一瞥した。



「別に、散らかっていても仕事はできますから」

「……はあ。ここまでとは思わなかったわよ」

「何がですか?」

「マンサちゃんがいなくなっただけで、ここまで荒れるなんて」

「いなくなったんじゃないですよ。オレが見捨てたんです」



 深くて、学校のチャイムより長いため息が響いた。



「強がりを言っている場合?」



(……別に、オレはなんも悪いことしてないだろ)



 助手は心の中で悪態をついた。


 たしかに、探偵さんの弟への執着はなんとなく感じ取っていた。

 だけど、邪魔と叫んで右腕を使いものにならなくするのは、あまりにもやりすぎだろ。


 オレ達はこの一年間、ずっと2人でやってきた。

 一緒に暮らしてきて、色んなことを共有して、笑い合って……。

 その結果がアレなのは流石におかしいだろ。


 そこまで考えて、助手の口から「ああ、あの声が聞こえればいいのに」という嘆きがついて出た。



「あの声?」

「昔、聞こえていたんですよ。どんな答えでも教えてくれる、魔法みたいな声」

「バカみたいな話ね」

「本当なんですけどね」



 一ノ瀬依頼人は「ふーん」と生返事をした。

 全く信じていないのだろう。



「ねえ、聞かせてくれない? 手島くんとマンサちゃんの出会いについて」

「どうせ、探偵さん――いや、根黒マンサの野郎から聞いているんじゃないですか?」

「『じょしゅ、に、きいた、ほうが、いい』って言ってたわよ?」



 一ノ瀬依頼人がした根黒マンサの物真似を聞いて、助手は目を見開いた。

 声質は似ていないが、話し方がほとんど一緒で、圧倒的なクオリティだったのだ。



「すみません、もう一度探偵さんの物真似をしてもらっていいですか?」

「『じょしゅ、ばか、へん、たい』」

「ああ、ありがとうございます」



 助手は感動のあまり、無意識に手を合わせて拝んでいた。



「あなた、すでに相当アレよ?」

「……何がですか?」

「…………自分で気づいてないの?」

「だから、何がですか」



 助手が不機嫌そうに言うと、一ノ瀬管理人は呆れたように肩をすくめた。



「まあいいわ。自分で気づかないと意味はないしね」



 本来なら、この言葉に助手は突っかかっていただろう。

 しかし、今の彼にそこまでの気力はない。



「ねえ、さっさと話して頂戴。出会いの話。私の時間はあなたと違って貴重なの」

「オレには話す理由がないんですけど」

「私に借りがあるでしょ? それに、娘について他人の方が詳しく知っているのが許せないの」

「独占欲が強いですね」

「あら、あなたに言われたくはないわね」



(意味が分からない)



 助手は深く考えるのも嫌で、すぐに思考を放棄した。



「どうせ内職も手についてないんでしょ? 話してくれたら、少しは家賃を融通してもいいわよ?」



(まあ、別に減るものじゃないしなぁ)



「……わかりましたよ」

「そうこなくっちゃ」



 一ノ瀬依頼人は早速、2人分のお茶を用意して、来客用のスペースを簡単に片づけた。


 そして、助手は語り始める。

 探偵——根黒マンサと出会った話。


 絶望に打ちひしがれた2人が、肩を寄せ合っただけで立ち上がれた日のこと。

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