はじめてこの別荘に来たときは、あまりに綺麗な屋敷だったため、誰かが住んでいるのではと警戒していた。だが、それらしい気配はどこにもなく、誰一人として姿を見せることはなかった。
お母様が定期的に掃除人を雇い、手入れをしていたのかもしれない。そう考え始めてから、私たちは辺境近くの別荘で、もう一ヶ月を過ごしていた。
今ではすっかりこの生活にも慣れ、朝はシュシュとゆっくり目覚めて、のんびりと朝食をとる。食後は屋敷を掃除し、近場への散歩を楽しむ。
そんな、以前の自分では考えられなかったような、毎日を送っている。
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昼食のあと、天気も良く、シュシュと紅茶を飲みながら、テラスでまったりと読書を楽しんでいた。
「はあ~、幸せ。……嫌な両親と妹に顔を合わせなくていいし、王妃教育もしなくていいなんて」
殿下の婚約者で、王妃教育を受けていた頃は、早朝から登城し、礼儀作法や話し方の訓練に始まり、書類整理、ダンス、お茶会の段取り確認。
さらに隣国の経済や物流、異国の言語、物価や特産品まで……やることも、覚えることも山ほどあった。
それができなければ、教育係の婦人に棒で叩かれた。
(小さい頃は、泣きながら必死で覚えたものよね……)
あの夜の舞踏会で、アサルト殿下に婚約破棄を言い渡され、命の危機、断頭台からも逃れられた。
――まだ、気は抜けないけれど。
カサンドラがそう思うのは、あれからもう一ヶ月も経つというのに、アサルト殿下と妹・シェリィの婚約発表が、いまだに国から出されていないからだ。
(両親のあの喜びようからして、婚約破棄の書類も、新たな婚約契約書もすでに受理されているはず。早く、正式に二人の婚約者を発表してくれたら、安心できるのに)
晴れ渡る空の下、カサンドラは本を閉じ、ふうっと小さく息を吐いた。そして、シュシュが淹れてくれた紅茶をひと口飲む。
「あら、この紅茶、とっても美味しいわ。香りも味も私好み。シュシュ、この茶葉はどこで手に入れたの?」
「茶葉ですか? この茶葉は、別荘の近くにある村で採れたものです」
「近くの村……ああ、少し前に散歩で立ち寄った、ノーラ村のことね。小さな村だったけど、あのとき食べた、小麦粉に水と砂糖、卵を混ぜて丸めて油で揚げたお菓子、あれが美味しかったわね。『丸揚げ菓子』って名前だったかしら?」
「はい、丸揚げ菓子です。カサンドラお嬢様、あの後ノーラ村で作り方を聞いてきましたので、明日、一緒に作ってみませんか?」
「まあ、作り方を教えてくれたの? ええ、もちろん作るわ!」
王妃教育では、「貴族たるもの、身に着ける物も、口にするものも一流であれ」と教えられた。
けれど今は、自分の好みの紅茶に、お気に入りのお茶菓子。何を選ぶのも、自分の自由にできる。
「なんて、幸せな日々なの……。自分好みの紅茶に、シュシュ特製のバタークッキー。これほど贅沢な時間なんて、そうそう味わえないわね」
次々と、バタークッキーに手を伸ばすカサンドラを見て、シュシュは少し眉をひそめた。
「あの……言いにくいのですが、カサンドラお嬢様、少し食べ過ぎかと。たまには運動もされた方がよろしいかと存じます」
(運動?)
「まさか、私……太ったの?」
「はい。おそらく二、三キロは……確実に」
(もう二、三キロも!? そういえば最近、街で新調したワンピースが、腰のあたりだけ妙にきつく感じていたのよね。別荘に来る前のドレスなら余裕で入るけど……あれを着るのは、なんだか負けた気がして嫌なのよ)
「……シュシュ、正直に言ってくれてありがとう。私、ちょっと庭を散歩してくるわ」
「はい。どうかお気をつけて、行ってらっしゃいませ」
そうしてカサンドラは、庭へと散歩に出かけた。