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第5話 故郷(3)


 昔から郁哉にはよく殴られていた。

嫌われていたというよりは行き場のない暴力衝動のはけ口が僕だったんだろう。


 自分より劣っていると思う本家の子供たちが偉そうにしている事への苛立ちや高圧的な両親への不満も原因の一つだったのかもしれない。


 ……なんて今はそう思うが、当時は郁哉の事が怖くて仕方なかった。

花火を投げつけたり、バケツに頭を沈められたりもしたせいで、彼の姿が見えるたびに今度は何をしてくるのか不安で。もしかしたら見つからないように隠れていれば諦めてくれるのではないだろうかと思って見をすくめていたのを覚えている。


 ただ、残虐性は実里の方が上だったのかもしれない。

実里は地下にある物置から取り出してきた「松原家に昔から伝わる毒薬」というガラス瓶に入った黒い粉を持ち出してきて僕に飲ませようとしたことがある。


一層僕を怖がらせるために金魚の入っている水槽にそれを振り入れて、さかさまに浮かび上がってきた金魚たちを見て笑っていた。

その姿はとても気味が悪くて、まるで妖怪のように見えた。


 あの時は律―もう、「彼」の事はそう呼んでしまってもいいだろう―が来たから助かったけれど、実里は両親に金魚を殺したのは僕だと言ったらしい。元々彼らは僕を信用していなかったから実里が何も言わなくても僕が犯人だと思っただろうけれど。


「―……俺さ、本当に嫌なんだよね。こういう旧家?みたいなの」


 僕が嫌な記憶をよみがえらせているのを知る由もない律はうんざりした顔でぼやいた。


 お手伝いさんに案内された、増築して作られたらしい二階の部屋には簡素なテーブルとクッションがあるだけだ。


 律はそのクッションの上で胡坐をかきながら持ってきたスナック菓子をつまみ、時折スマホを見ながら退屈そうにしている。

電波は繋がりにくいが完全に途絶えているわけではないようだ。


「古臭いし変な決まりが多すぎるし。滅びればいいのにな」


「だったら来なくてよかったのに」


「そうもいかないんだよ。あ、ちょっとトイレ行ってくる」


律は立ち上がると階段を降りていった。


 取り残された僕は天井を見上げる。

この部屋は結構最近作られたみたいで、昔怪物の顔のように見えて怖かった不規則な模様もない。でも怪物なんかより松原家の人々が怖かった。

 あんな扱いをされるなんて理不尽ではあったんだろうが、もうそんなことを考えても仕方ない。それより恭介と律の今後を考えなくては。





 戻ってきた律は少し顔色が悪いように見えた。


「大丈夫?」


「ああ。この屋敷のせいでテンションが下がってるだけ。……そうだ、ノア。柏木恭介、って知ってる?」


「え……うん、知っては、いるけど」


 なぜだか恭介の名前が律の口から出てきたことに、思わず声を上げる。

鞠子にでも聞いたのだろうか。


律は目を伏せたまま恐る恐ると言った顔で言葉を続けた。


「なんか、ひどい奴だったって聞いた。まあどこまで本当か分からないけど。実際どうなの?」

唐突すぎて目を白黒させる。なぜ律がそんな事を聞くのか分からないが、僕は言った


「……まあ恭介の事は、尊敬はしてるよ」


それ以上の言葉を口にすれば感情が変な風にあふれ出しそうで言葉を切った。


「ふうん」


律の目が冷たくなる。


「正直俺はあんまり関わりたくないな」


 確かに恭介は天才ではあるが人間性はめちゃくちゃだし、今の恭介が「颯斗」つまり律の事以外はどうでもいいのが見て取れる。

 律が恭介をよく思わないのは仕方のない事なのかもしれない。

しかし恭介が律に会いたがっていると、どうやって伝えればいいんだろう。


「恭介にもいいところはあるから……」


 結局そんな月並みな言葉しか出てこなかった。

本当はもっと先に伝えなければならないことがある。


僕と恭介の本当の関係も。


「でもノアを苦しめただろ」


律の目が泣き出しそうに揺れる。


「そんなことないよ」


咄嗟に否定した僕の頬に律の指が触れる。


その時脳裏をよぎったのはあの日、星空の下で少し冷たい潮風に吹かれながら、視線の先にある龍の祠を見つめて。


「あのさ。俺は」


言葉が途切れる。

律が何を言おうとしているのか僕には分からなかった。


「……好きだよ」


唐突すぎる言葉を理解するのに少し時間がかかった。


「それは、あの日と同じ意味で?」


 あの日。

僕と律が離れ離れになった、血の臭いの中泣いていた日。


「そう、だと思う。でも」


 律は僕の浮かない表情を見たせいか目を伏せた。

別に律を拒絶したかったわけではない。

あれからもうずいぶん時が経ってしまったから自分の当時の気持ちが分からなくなってしまっていた。

今、僕が律の事をどう思っているのかも。


「ごめん、僕は」


 何と答えればいいのか分からなくて声が震える。


律は少し笑った。


 恭介とは違う寂しげな表情がなぜだか胸を締め付ける。


「だよな。そうだと思ったよ」


 律は自分に言い聞かせるように何度も頷くと目を逸らした。


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