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第6話 第5章 ハイネルとの日常と葛藤

5-1 静かに育つ絆――朝の稽古




ルンバリア王国の王宮。


その広大な中庭には、朝露に濡れた芝生と、柔らかな朝陽が降り注いでいた。




その一角――


小柄な少年と、凛とした黒髪の少女が、剣を手に向かい合っていた。




「はっ……!」




空気を裂くような鋭い掛け声とともに、ハイネルが木剣を振る。


幼いながらも、彼の剣筋は確実に鋭さを増していた。


だが、静香はそれを軽く受け流す。




「もう一度、構えから」




優しくも厳しい声が響く。


ハイネルは悔しそうに唇を噛みながら、再び木剣を構え直した。











ハイネルは、毎朝欠かさず静香の元へ通い、剣の稽古に励んでいた。


魔王軍との戦いが続く中で、彼もまた、勇者と同じように強くありたいと心から願っていた。




(だけど……)




今日のハイネルの動きには、焦りが見え隠れしていた。


何度も剣筋が乱れ、フォームが崩れる。




静香はそっと剣を下ろした。




「ハイネル王子」




「……はい」




「少し、休憩しましょう」




「でも、僕はまだ……!」




必死に抗おうとするハイネルの手を、静香はそっと包み込んだ。


その手は、まだ細く、小さな手だった。




「焦っては、ダメです」




「……でも!」




ハイネルの瞳に、悔しさと焦燥が滲んでいた。


静香はしゃがみ込み、彼と目線を合わせた。




「ハイネル王子。あなたの努力は、私が一番よく知っています」




「……」




「だからこそ、焦らないでほしいのです。強さとは、一歩一歩、積み重ねていくもの。今日、すぐに得られるものではありません」




静香の声は、春風のように優しかった。


その温もりに、ハイネルは少しずつ肩の力を抜いていった。




「僕……勇者様のように、早く強くなりたくて……」




「ふふ……私だって、すぐに強くなれたわけではありませんよ」




静香はそっとハイネルの髪を撫でた。




「十年かかりました。泣きたい日も、諦めそうになった日も、何度もありました。でも――」




彼の澄んだ青い瞳をまっすぐに見つめる。




「それでも、歩みを止めなかった。だから、ここにいます」




ハイネルは静かに目を伏せた。




「……僕も、歩き続けます。勇者様みたいに」




「うん、それでこそハイネル王子です」




静香は笑みを浮かべ、そっと彼の木剣を取って手渡した。




「さあ、今日の稽古はここまで。身体を休めることも、修行のうちですよ」




「はいっ!」




元気よく返事をするハイネルを見て、静香の胸にはふわりと温かなものが灯った。











その日の午後、静香はふと提案した。




「たまには……街へ出てみませんか?」




「えっ、街に、ですか!?」




ハイネルは目を輝かせた。


普段、王族としての立場上、なかなか自由に外へ出られる機会はない。


だが、静香とならば――




「はい。勉強も、剣の稽古も大切ですが……それだけでは、強さは身につきません。人々の暮らしを知り、守りたいものを肌で感じることも、大切な学びです」




「なるほど……!」




ハイネルは静かに頷き、拳を握りしめた。




「僕、行きたいです!」




「ふふ、では決まりですね」




静香は微笑み、彼の手を取った。


ハイネルは驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに手を握り返した。




(この小さな手が、いつか立派な剣士の手になる日を、私はずっと見守っていきたい――)




心の中で、そっと誓いを新たにする。











街への出発準備を終えた二人は、簡単な変装を施して城を出た。


静香はシンプルなワンピースに身を包み、ハイネルも子供らしい素朴な服装に着替えている。


王族と勇者の雰囲気を隠すために、帽子を深くかぶりながら、城下町へ向かう。






「勇者様……じゃなかった、静香」




「はい、ハイネル王子……いえ、ハイネル」




互いに名前を呼び合い、くすぐったいような笑みを交わす。


まるで、年の離れた姉弟か、幼馴染のような自然な空気だった。






「街には、どんなお店があるんでしょうね?」




「うふふ、それは行ってからのお楽しみです」






ふたりの歩みは、どこまでも穏やかで、優しかった。


城を離れたふたりを包む空気は、戦いや剣の気配とは無縁の、ただひたすらに暖かいものであった。






そして、これから訪れる初めての「ふたりだけの時間」が、静香にとって、かけがえのない宝物となることを、まだ誰も知らなかった。






5-2 初めての街歩き――小さなデート




城下町ルンバリアは、昼下がりの陽光に包まれ、活気に満ちていた。




石畳の通りには色とりどりの店が並び、行き交う人々の笑い声が絶えない。


果物屋の呼び声、パン屋の甘い香り、子どもたちの駆け回る声。


すべてが、戦いの日々を一瞬忘れさせるような、穏やかで幸せな世界だった。




「わあ……!」




ハイネルは目を輝かせて、周囲を見渡した。


帽子を深くかぶり、普段とは違う素朴な装いの彼は、まるで普通の町の少年のようだった。




「すごい……こんなにたくさんのお店、僕、初めて見ました!」




「ふふっ、楽しいでしょう?」




静香もまた、優しい笑顔を浮かべながら、ハイネルと並んで歩いた。


城の中の堅苦しい空気とは違う、自由で賑やかな世界。


こんな日常があるのだと、静香自身も改めて実感していた。











ふと、ハイネルが小さな菓子屋の前で足を止めた。




「静香、あれ……美味しそうです」




彼が指差したのは、小さな焼き菓子屋。


ショーケースには、甘い香りを漂わせるクッキーやパイがずらりと並んでいる。




「うふふ、買ってみましょうか?」




「いいんですか!?」




ハイネルはぱっと顔を輝かせた。


静香は微笑みながら小さな袋を一つ買い、ハイネルに手渡した。




「はい、ハイネル。好きなのを選んで」




「ありがとう、静香!」




ハイネルは嬉しそうに袋を覗き込み、小さな手で焼きたてのクッキーを取り出した。


それを一口かじると、目を丸くした。




「おいしい!」




無邪気な笑顔に、静香も思わず顔をほころばせた。




「よかった」




そして、自分もそっと一枚クッキーを口にする。


甘くて、どこか懐かしい味がした。




(こんなふうに、ハイネルと笑い合える時間が……いつまでも続けばいい)




静香は心からそう思った。











さらに歩みを進めると、ちょうど小さな広場に出た。


そこでは大道芸人たちがパフォーマンスを繰り広げ、子どもたちが歓声を上げていた。




「すごい、あれ……!」




ハイネルは指をさし、目を輝かせる。


見れば、炎を操るジャグリングや、空を飛ぶようなアクロバット。


まるで魔法のような光景に、ハイネルは夢中になって見入っていた。




静香も隣に腰を下ろし、彼と一緒に見守った。


子どもらしく無邪気に楽しむハイネルの横顔を、静かに見つめながら――




(……こうしていると、まるで普通の女の子みたい)




戦う勇者としてではなく。

使命を背負う者としてでもなく。


ただ、一人の少女として、目の前の少年と笑い合う。


そんな当たり前の時間が、どれほど愛しいものか、今になって胸に沁みた。




(私は、彼に救われている……)




静香はそっと自分の胸に手を当てた。


ハイネルの存在が、どれほど自分の心を支えているかを、改めて感じる。











やがて大道芸も終わり、拍手の波が広がる中、ハイネルがそっと静香に言った。




「静香、少し……歩きませんか?」




「もちろんです」




ふたりはまた肩を並べ、静かな道を歩き出した。




人混みを抜け、裏通りへ。


人影もまばらな石畳の小道に、ふたりきりの静寂が広がる。




ふと、ハイネルが立ち止まり、夜空を仰いだ。




「……あ」




静香も見上げる。


そこには、夕暮れの中に輝き始めた最初の星があった。




「きれい……」




ぽつりと呟くハイネルの声に、静香もそっと微笑む。




「……静香」




「はい?」




ハイネルは帽子を押さえながら、真剣な瞳で彼女を見つめた。




「僕、必ず……静香の隣に立てるくらい、強くなります」




「……ハイネル」




幼いながらも真っ直ぐなその誓いに、静香の胸がぎゅっと締め付けられる。




「だから……」




言葉を詰まらせながらも、ハイネルは続けた。




「……これからも、僕のそばにいてください」




静香は、しばらく何も言えなかった。


心に溢れる想いが、胸を熱くして、喉を塞いでいた。




やがて、静かに微笑み、頷いた。




「はい。私は、どこにも行きません」




「本当ですか?」




「本当です」




ふたりは微笑み合い、小さな手をそっと重ねた。











城へ戻る帰り道、静香は思った。




(……私は、彼のために強くなりたい)




(彼の未来を守るために)




胸に新たな誓いを抱きながら、静香はハイネルの手を優しく握り返した。




遠く、西の空に落ちる夕日が、ふたりを静かに照らしていた。






5-3 君がいるから、私は




城へ戻ると、すでに日はすっかり暮れていた。


中庭の花壇には夜露が降り始め、白い月明かりが柔らかく静香とハイネルを照らしていた。




「今日は……本当に楽しかったです」




ハイネルが、まだ名残惜しそうに手を離さず、静香を見上げる。


静香もまた、微笑みながら彼の手を包み込んだ。




「私もですよ。こんなに心が温かくなったのは、久しぶりです」




ふわりと、夜風が通り抜ける。


ふたりの間に、言葉では言い表せない静かな絆が流れていた。











「静香……」




ハイネルが、ぽつりと呟く。


その声音は、どこか不安げだった。




「もし、また大きな戦いがあったら……静香は、また前線に立たないといけないんですよね?」




「……ええ、きっと」




静香はそっと頷く。


それが勇者としての宿命だから。




「僕は……怖いです」




ハイネルが、うつむいた。


小さな拳をぎゅっと握りしめて。




「静香が、傷ついたり、いなくなったりするのが、怖いんです」




静香の胸が、きゅっと痛んだ。


小さな身体で、必死に感情を押し殺そうとしている。




(こんなにも私を想ってくれている……)




胸が熱くなる。


だけど、静香はゆっくりと、彼の肩に手を置いた。











「大丈夫ですよ、ハイネル」




静香は穏やかに微笑む。




「私は、簡単には負けません」




「でも……でもっ!」




ハイネルは顔を上げ、潤んだ瞳で静香を見つめた。




「勇者様だって、絶対じゃない……!」




「……」




静香は、少しだけ瞳を細めた。


この子は、ただの憧れや尊敬だけで私を見ているんじゃない。

もっとずっと深く――私という存在そのものを、大切に想ってくれている。




(……ありがとう)




心の底から、そう思った。











「私が強くなろうと思ったのは、ハイネル、あなたのおかげなんですよ」




「えっ……?」




ハイネルが目を瞬かせる。


静香は静かに語り始めた。




「昔、私がまだ小さかった頃……怖くて、震えて、何もできなかった私を、ある男の子が助けてくれました」




「……」




「その子は、自分が傷つくことを恐れず、私を守ろうとしてくれました。小さな体で、大きな敵に立ち向かって――」




静香はそっと笑った。




「その姿が、今でも、私の中に強く残っています」




「それって……」




ハイネルは、何かに気づいたように、言葉を飲み込んだ。




「ええ、きっと……あなたなんですよ、ハイネル」




「……!」




驚きに目を見開くハイネルに、静香は優しく続けた。




「あなたの勇気が、私をここまで連れてきてくれた」


「あなたの強さが、私を勇者にしてくれた」


「だから、私は絶対に負けない」


「あなたがいる限り、私は何度でも立ち上がれる」




静香の言葉は、嘘偽りのない、本心だった。




(私がここまで歩いて来られたのは――あの時、守ってくれたあなたがいたから)


(そして今も、隣にいるあなたがいるから)











「静香……」




ハイネルの声が震える。


彼は、子どもらしい純粋さそのままに、静香に抱きついた。




「僕、もっともっと強くなります……!」


「今度は、僕が静香を守れるように!」




「……ありがとう」




静香は、そっと彼を抱きしめ返した。


胸に押し寄せる、温かい想いを抱きしめるように。











夜空には、無数の星が瞬いている。


ふたりを見守るように、静かに、優しく。




静香は改めて誓った。




(私がこの世界に来たのは――きっと、運命だったんだ)




(この子と出会うために。この子を守るために)




(そして、この子と共に歩む未来を、作るために――)




胸に宿る、確かな決意。


それはどんな闇にも、どんな困難にも負けない光だった。











やがて、ハイネルが顔を上げた。


涙の跡を指で拭いながら、照れたように笑う。




「ごめんなさい、僕……」




「謝ることなんてありません」




静香は笑って首を振った。




「あなたの優しさは、私の誇りです」




ハイネルは、ほんの少し背筋を伸ばした。


今まで以上に、まっすぐに、誇り高く。




「必ず、立派な王になれるように頑張ります」




「うん」




静香は心からの笑顔で応えた。




「その日まで、私はずっとあなたの隣にいます」




二人の間に、もう何の隔たりもなかった。


年齢も、立場も、過去も未来も。


すべてを超えて、ただ一つ、揺るがない絆だけがそこにあった。





5-4 ふたりだけの未来を想って




夜も更け、王宮の灯りが一つ、また一つと消えていく。


静かな廊下を、静香とハイネルは並んで歩いていた。




「今日は……本当に、特別な一日でしたね」




ハイネルが、ポツリと呟いた。




「そうですね」




静香も微笑んで答える。


疲れたはずなのに、不思議と心は満たされていた。




ふと、ハイネルが足を止めた。




「静香、少しだけ……寄り道、してもいいですか?」




「はい、もちろん」




彼に誘われるまま、静香は回廊を抜け、中庭へと向かう。


夜空の星たちは静かに輝き、庭園の噴水が小さく水音を立てていた。











「ここ、僕のお気に入りの場所なんです」




ハイネルがそう言いながら、噴水の縁に腰かけた。


その横に、静香もそっと座る。




「夜にしか見られない景色なんですね」




「はい。昼間は賑やかだけど……夜は、静かで落ち着くんです」




二人の間に、優しい沈黙が流れる。




水面に映る月が、ゆらゆらと揺れていた。


まるで、未来への道筋をそっと照らしているかのように。











「静香」




ふいに、ハイネルが静かな声で呼んだ。




「はい」




「……僕、時々不安になるんです」




「不安?」




「うん。……僕が、静香に相応しい男になれるかどうかって」




真剣な眼差しで、ハイネルは言った。




「勇者様は、すごく強くて、優しくて、かっこよくて……僕なんか、まだまだ遠くて」




静香は、ふっと微笑んだ。


その表情は、どこまでも優しく、包み込むようだった。




「ハイネル、覚えておいてください」




「……?」




「あなたが私に何かを証明する必要なんて、ないんです」




「え……」




「私は、ありのままのあなたを大切に思っています」


「だから、無理に急いだり、背伸びする必要はありません」




「……静香……」




ハイネルの青い瞳が、揺れる。


その瞳に、月の光が映り込んでいた。











「もちろん、成長を目指すことは素晴らしいことです」




静香は、柔らかく続けた。




「でも、それは『誰かのために急ぐ』ことじゃない。あなた自身が、『こうありたい』と思う姿を目指すべきなんです」




「……うん」




「私は、あなたがどんな道を選んでも、ずっと味方です」


「どんなあなたでも、大切な存在だから」




ハイネルの肩が、小さく震えた。


そして、彼はぐっと涙をこらえながら、微笑んだ。




「……ありがとう、静香」




「ふふ、こちらこそ」




静かに、ふたりは見つめ合う。


言葉では語りきれない想いが、互いに伝わっていた。











ふと、ハイネルが立ち上がった。


そして、照れくさそうに手を差し出す。




「静香、一緒に、少しだけ踊りませんか?」




「えっ……ここで?」




「うん。……さっきの夜会の続き、です」




その無邪気な申し出に、静香は思わず笑った。


そして、ゆっくりと彼の手を取った。




「喜んで」




噴水のほとり、静かに音もない舞踏が始まる。




リズムもステップもない、ただ二人だけの、たどたどしいダンス。


それでも、互いを想い、互いを信じる心だけは、確かに通じ合っていた。











「静香」




「はい」




「これから、どんなに時間がかかっても……僕、あなたに相応しい男になります」




「はい、楽しみにしています」




「その時は……改めて、ちゃんと、静香に伝えたいんです」


「僕の気持ちを」




ハイネルの声は、少し震えていた。


でも、その瞳は力強く、まっすぐだった。




静香は胸がいっぱいになりながら、そっと微笑んだ。




「……その日を、ずっと待っています」




二人は、月の光の下で小さく誓い合った。


未来へ続く、確かな絆を。











やがて、城の鐘が深夜を告げた。


名残惜しさを胸に抱きながら、ふたりは手を繋いで歩き出す。




誰も知らない、ふたりだけの小さな秘密を抱えて――。




静かな夜が、そっと、彼らの背中を押していた。







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