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第19話 母とトマトと加太

 テストをとっとと終わらせた泰生は、今日は商店街のある駅で途中下車せず帰宅し、17時まで自室で半分居眠っていた。部屋の中が少しオレンジ色になってきたことに気づき、リビングに行くと、パートタイマーから戻った母もエアコンの効いた場所でうつらうつらしていた。

 泰生はラグの上でじかに寝そべる母を起こさないように、ベランダに向かった。夕焼けになりつつある光を受けながら、ぱりぱりに乾いた洗濯物を取り込む。

 全ての洗濯物を入れ終わった時には、母が身体を起こしていた。


「今日お父さんも友樹もちょっと帰んの遅なるんやって、先にご飯食べとこか」

「うん、ええよ」


 泰生は答えて、そのままそこに座り洗濯物を畳み始める。その中に、これから再び使うことになるであろう、楽器を拭くためのクロスが4枚混じっていた。うち2枚には松脂がついており、そのまま洗濯機に入れると家族の服に損害を及ぼしそうなので、衣料用の松脂クリーナーをわざわざ買って風呂で揉み洗いした。クリーナーの値段を泰生から聞いた母が、新しい布買ったほうがよかったんちゃうの、と言った時、その通りだと思って眩暈がしたのだったが。

 こういう楽器の手入れに関するちょっとした情報交換も、パートに4人も人間がいればやりやすいというものだ。しかも4回生の三村の身内には、大学の卒業生でもあるプロのコントラバシニストがいるので、非常に頼もしい。……いや、まだ入部届は書かないけれど。

 洗濯物をそれぞれの部屋に運び、タオル類を片づけてリビングに戻ると、キッチンで母がサラダの準備をしていた。レタスを千切って洗う母の傍に置かれたまな板の上に、つやつやとした小ぶりのトマトが4個載っている。


「美味しそうやろ? 何か、何やったかな、リコピン? がたくさん含まれてるんやって」

「ほう……」


 母はショッピングモールの中に入るスーパーでパートタイマーを長らく続けている。勤務している者の特権と言うべきか、たまにこうしてお買い得な美味しいものを買って帰ってくるのが、本人も楽しいようだ。

 泰生は将来「使えない男」にならないように、家事は積極的に手伝うようにしている。台所のことはまだまだわからないことが多いが、包丁も多少使えるようになった。


「トマト切ろか、どんな感じにする?」


 母は頼もしい息子に、輪切りにしよか、と答えた。


「厚めでいいで、せっかく美味しいトマトやしな」

「はーい」


 泰生はトマトを洗ってまな板に横向けに置き、なるべくすっと包丁を通すよう心掛けたが、皮が引っかかる。よく熟していて少し柔らかいので、切るのが難しい。

 母は泰生の包丁さばきに特に注文もつけず、ドレッシングを作り始める。泡立て器がボウルに当たってかしゃかしゃ音を立てた。


「そんで、泳ぎに行くの琵琶湖より加太のほうがええの? お父さんがあっちまでは電車使うて、丸2日レンタカー借りよかって言うてたけど」


 泰生はへ? と言って顔を上げた。加太の海水浴場の話題は確かに出したが、いつの間にそんな話になったのだろうか。


「だいぶ遠いけど、ええんか?」

「ええやろ、友樹もあんたも彼女できると思たら、もう最後の家族旅行になるかも知れんしな」


 母は何となく浮かれているようである。泰生は2個目のトマトをまな板に置いた。


「おかん、加太って行ったことあるん?」

「あるで、お父さんと結婚する前で、あんな可愛らしい電車走ってなかった頃やけど」


 結婚する前という言葉に何か含みがある感じがしたので、一応突っ込んでおく。


「何やそれ、おとんと違う男と行ったとか? ウケる」

「そうや、これでも私、人並みにモテたんやから」


 泰生は思わず母の顔を見た。地雷を踏んだと思ったが、母は微妙に自慢げである。


「あんたのおかんはそういうことやから、あんたも自信持って新しいクラブで彼女探しなはれ」

「……ちょっと待てや、おかんが若い時それなりに遊んでたんはええとして、俺の彼女探しはどっから来たんや」


 母は濡れた手を拭いて、目を瞬く。嫌な予感しかしなかった。


「あんた、好きな子に振られたから吹奏楽部辞めたんちゃうんか? 友樹が何かそんな言い方しとったから」

「ちょ、兄貴のその妄想何なん……」


 言いながらも泰生は、自分の態度から兄が何かを感じ取っていたらしいことにどきどきしてしまう。母はややテンションが下がったようだった。


「違うん? あ、ほなちょっと先に加太の宿押さえるわ、トマト切れたら玉ねぎ薄切りできる?」

「ラジャー」


 母がそちらに気を持って行かれたことに泰生はほっとした。ノートパソコンをキッチンテーブルに持ってきて、母はあけすけに語り始める。


「トマトが好きな人やってん……どこに何食べに行っても、いっつもトマトスライスとか頼んで、おかげで私までトマトの味にうるさい女になってしもたわ」


 母がトマトの味にうるさいとは、今の今まで知らなかった。4個のトマトを無事切り終えた泰生は、玉ねぎの皮を剥き始めた。目に染みるので、無意味だが腕を伸ばして玉ねぎを遠ざける。


「そのトマトマン、学生時代につき合っとったん?」

「うん、2年交際したけど、就職して東京に行ってしもたから、自然消滅や……遠距離で頑張るほど好きじゃなかったんかなって、今更思う」


 母の懐かしそうな昔語りからは、トマトマンへの未練などは感じられなかった。父とは社会人になって3年目くらいに出逢ったと聞いたことがあるので、その彼とのことが完全に終わった後だったのだろう。

 縁があれば、という昨日の石田の言葉を思い出す。母はトマトマンとは、縁が無かった。でも、加太という土地や美味しいトマトは、彼女の胸に美しい(?)思い出を呼び起こす。

 それも一種の縁なんかな。泰生は何となく、そんな思いを愛おしく感じつつ、玉ねぎにゆっくりと包丁を入れた。


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