泰生の自宅マンションから徒歩5、6分の場所にある大型ショッピングモールには、デパートにスーパー、かなりの数の庶民派ブランドショップ、レストラン街、そしてシネコンが入っている。長谷川家の面々が買い物のために、四条河原町や梅田に出なくていいのは、ここで買えないものは超高級ファッションブランドくらいしかないからである。
混雑にややうんざりしつつ、泰生は兄の友樹とファストファッションをぶらりと見てから、近くにある楽器店に向かった。鞄を見に行くと友樹が言うので、1時間後に書店で待ち合わせることにした。
この楽器店の店内面積はそんなに広くないため、電子ピアノと中型までの管楽器しか展示していない。しかし弦楽器の小物は取り扱っているので、何やら賑わっている管楽器コーナーを横目で見ながら、泰生は人が居ない奥まった棚に向かった。
入部届を書いていないのにという、自分への揶揄の気持ちが抑えられないが、泰生はずらりと並ぶ弦楽器用の松脂を眺める。
先月まで使っていたコントラバス用の松脂は、泰生が吹奏楽部に入部した年に卒業した、顔も知らない先輩から譲ってもらったものである。その先輩は4回生になってから新しく松脂を購入し、使いきれないまま卒業を迎えた。社会人になったら楽器はしないから、新入部員にあげて、と言い残していた。
泰生はその松脂を2年と2ヶ月使った。だいぶ小さくなっただけでなく、少し硬くなっているような気がして、新しいものを買うべきかと考えたのだった。
結構高いな、というのが棚の値札を見て抱いた感想だった。しかも、ヴァイオリンやチェロのものより、コントラバス用のほうが高い。3千円のを買って1年半弾いて……とせこい計算を脳内でしていると、男性の店員がにこにこしながら近寄ってきた。
「吹奏楽でコントラバスをお始めですか?」
割といい線突いてくるなと思ったが、自分が1回生と思われたのは意外だった。
「いえ、吹奏楽部で2年やってたんですけど、これから管弦楽団で弾く……ことになりそうで……今まで使ってたのがちっさくなってきて……」
別に店員に経歴を語る必要は無いと気づき、語尾が萎んでしまう。しかし店員は、そうですか、と明るく応じた。
「吹奏楽と管弦楽ではコントラバスに求められる音が違います、松脂も変えたほうがいいですよ」
「そうなんですか?」
思いがけない店員の言葉に、泰生は鞄の中を探る。
「今までこれ使ってたんですけど」
泰生が出した松脂と同じものは、棚にも並んでいた。店員は泰生の掌に乗る紫色のケースを見て、ああ、と笑顔になる。
「一番オーソドックスで初心者も使いやすい商品です、吹奏楽も管弦楽もいけますし、使い慣れてらっしゃるならこれでもいいと思います」
「松脂でそんなに音変わるんですか?」
「変わりますよ、特にコントラバスはクラシックとジャズで使い分けるかたもいらっしゃいます」
吹奏楽部では弦楽器はコントラバスしか無いため、情報弱者になりがちだ。泰生は店員の説明を聞きながら、自分がかなりぼんやりと楽器に接してきたことを痛感させられる。
「弦が太いから弓に引っかかりやすいように、基本的にチェロやヴァイオリンの松脂より柔らかいんです……そのせいかこだわる人も多いです、本当はいろいろ試して好みの感触を見つけられるといいんですけど」
泰生は数種類のコントラバス用松脂を見つめ、迷う。そして、考えたことをつい垂れ流してしまった。
「何か、松脂お試しアソートパックとかあったらええのに……」
店員は面白そうに、いいですね、と笑った。
「管弦楽団なら何人かコントラバスいますよね? 皆さんいろいろお使いなら、お試し会をしてみたらどうでしょう……あ、もしよかったらこれを」
店員は棚の裏のチラシホルダーから、紙を一枚抜いて泰生に手渡した。この楽器店の大阪駅近くの店舗で、弦楽器フェアを開催しているという。
「店舗で取り扱ってる松脂をお試しできる日があるんですよ、お問い合わせなさってみてください」
泰生は驚いた。やはり松脂は、弦楽器奏者にとってそれほど大事なものなのだ。そしてこの間、岡本からチェロの松脂を安易に借りたのは少々まずかったと思い、ひとり密かに反省する。
店員は、泰生の持ってきた松脂のケースの蓋を開けて、失礼しますと言いながら中身に指で触れた。
「ちょっと硬くなってきてますね、コントラバスの松脂は3、4年くらいで限界なので」
やはりそうなのか。コントラバスは図体がやたらデカいので、クロスが複数枚要ることなども地味に痛い。まったく不経済な奴だと泰生は思った。
店員は、慣れない客に今すぐ決めて買えと言わなかった。おそらく自身も弦楽器奏者で、松脂選びに悩まされたことがあるのだろう。
「まだこれいけますから、研究なさってから買っても遅くないですよ」
「あ、とりあえず他のメンバーが何使ってるかリサーチしてみます……」
親切な店員に申し訳なかったので、弦をきれいに保つためにお薦めだという、ストリングクリーナーを買った。
店員に礼を言って、泰生は楽器店を辞した。松脂はどうも、この夏の自由研究の対象にする必要がありそうだ。三村などはいかにも松脂にこだわっていそうではないか。自分で訊くのは関係性的にまだちょっと微妙なので、岡本にどこの松脂を使っているのか、訊いてもらおうと思った。
泰生は腕時計をちらっと見て、ちょっと楽しい気分になりながら、兄との待ち合わせ場所である書店に向かった。